成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (7)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光 

チャガタイー3-7-1

1362年に トゥグル・ティムールのモグリースタン軍はティムールを撃破するが、敗戦の後に勢力を盛り返したティムールによって、1363年に西トルキスタンはトゥグル・ティムールの支配を離れ、同年にトゥグル・ティムール自身も没したのです。

トゥグル・ティムールの没後、チャガタイ・ハン国は東西に分裂 再統合を図る君主は表れ出なかった。

イリヤース・ホージャ(生没年 ? – 1365年)が、東チャガタイ・ハン(モグリースタン・ハン)の君主として父の跡を継いだ(在位:1363年 – 1365年)。 長子である。

父が1361年に東西チャガタイ・ハン国を統一すると、1362年に西の領土の統治を任される総督に任命さている。

ところが父が東に帰還すると自らの摂政だったはずのティムール(後にティムール朝開闢)とフサインが反乱を起こしてしまう。

イリヤースはこの反乱鎮圧に手間取り、しかも1363年に父が死去したため、急ぎ 推戴されたのです。

1364年にイリヤースはティムールに対して大軍を差し向けたが、ケシュ付近の戦いで軍は壊滅させられ、マーワラーアンナフルなどを失ってモグリースタンに撤退する。

これにより西の支配権を完全に失い、君主としての権威も堕ちた。

1365年に再度軍を差し向け、ティムールとフサインの不仲などから軍の疎通に齟齬をきたしていたため一時的に優勢となり サマルカンドを落とすに至るが、

疫病による兵力の減少とサマルカンド市民の不支持などから結局は支配権を固められず、同年のうちにドグラト部のアミールであったカマルッディーンに簒奪された上で暗殺されてしまった。

カマルッディーン(生没年不詳)は、第二代モグリースタン国君主(在位:1365年? – 1389年?)として即位した。 ドグラト部の貴族であるが、“アルタン・ウルク/黄金の家族”ではない。

ドグラト部は先代・トゥグルク・ティムールの擁立に貢献したため、その時代から台頭が始まっていたた。

カマルッディーンの兄弟ブラジはハーンに次ぐ権力を持つウルス・ベギ職に就いており、ブラジの死後、彼はウルス・ベギ職の継承をトゥグルク・ティムールに要求した。

しかし、ウルス・ベギ職はブラジの幼少の子ホダーイダードに継承され、その処置に不満を持ったカマルッディーンは トゥグルク・ティムールの死後、その長男のイリヤス・ホージャを暗殺してハーンを僭称したのです。

即位後、施政において自身よりも高位にある兄のシャムスッディーンの意見を尊重している。 独裁政権ではなかったようです。

数度にわたって西方のティムールから 攻撃を受け、1388年ごろに成長したホダーイダードがヒズル・ホージャ(前君主・イリヤース・ホージャの弟)を擁立すると、モグリースタンの領内から追放された。

追放後、ジュチ・ウルスのトクタミシュと連合してティムールと戦うが敗れ、完全に失脚した。 トクタミシュも恩あるティムールに滅亡されている。 ≪ 前作“ジュチ一党”の系譜 及び “ティムール伝”参照 ≫

チャガタイー3-7-3

ヒズル・ホージャ(生没年 ? – 1399年)は、トゥグルク・ティムールの次男、兄・イリヤース・がカマルッディーンに殺害されて簒奪された後、イリヤース・ホージャの統治下 東チャガタイ・ハン(モグリースタン・ハン)は 西チャガタイ・ハンに覇権を確立したティムールの侵攻を受けていた。

チンギスハーンの再来を自称するティムールにとって一番弱いのが、ティムール自身がチンギスハーンの血を引いていないということであり、そのため“アルタン・ウルク/黄金の家族”の一族のヒルズを助けて即位させるのは自らの権威付けに必要なことであった。

1389年に ヒズル・ホージャはティムールの支援のもと、カマルッディーンを追放して即位(在位:1389年 – 1399年)したが、このような経緯のために傀儡のような存在であった。

1397年、ティムールからさらなる権威付けのために娘を妃に差し出すように求められ、これに応じている。 傀儡のまま 1399年に死去。

彼の・子のシャムイ・ジャ・ハーンがモグリースタン国第五代君主(在位:1399年 – 1406年)に就いている。 ヒズル・ホージャはティムールの義父として、また かれの血がムガル王朝に流れていくのです。

シャムイ・ジャ・ハーン(生没年 ? – 1406年)は、ティムールのもとに人質として赴き、少年時代を過ごしていた。

1397年にティムールが父・ヒズル・ホージャの娘(シャムイ・ジャの妹)を妃に迎えたことから、帰国を許され、父の死去で跡を継ぐ。

チャガタイ一族のハミ王国の忠順王(アク・テルム)がオルク・テルム(オドデイの後裔)によって毒殺されると、報復としてオルク・テルムを攻めた。 明王朝に対して数度朝貢している。

ティムールが死去した1405年、祖先の故地であるサマルカンドを奪還するため出兵を計画し、明に支援を要請するが、把太ら明からの使者に出兵を思いとどまるよう説得され、攻撃を中止している事跡から ティムールには怨念があったようです。

≪ 当時、大元王朝は朱元璋に打壊され1368年に崩壊、明王朝が強大な帝国となっていた。 二代目皇帝・永楽帝は蒙古族壊滅に生涯を費やしていのです。

ティムールは明打倒の軍団(名目は大元皇帝の皇子が遠征将軍)を率いて東に軍団を進めるが、病死しています ≫

シャムイ・ジャ・ハーンの跡を弟のムハンマヅ(在位:1406年 – 1416年)が継いだ。
=彼に関する資料は不詳=

チャガタイー3-7-4

ナクシ’ジャハーンは、14世紀後半以降のチャガタイ・ウルスにおける、東チャガタイ・ハン(モグリースタン・ハン国の第7代君主(在位:1416年 – 1418年)です。

ヒズル・ホージャの子のシャーヒ・ジャーハンの子である。 先代のムハンマドが子を残さず没したため、 縁戚の彼がハーンとなった。

1416年に即位すると、ティムール朝の影響力を排除するために明に盛んに朝貢し、馬市の開催を要請した。 しかし1418年、従弟のワイスによって殺害された。

ワイス(生没年 ? – 1432年)は、ヒズル・ホージャの孫。シール・アリーの子です。

1418年に従兄のナクシ・ジャハーンを暗殺、当時のモグーリスタンの有力者であったドゥグラト部のアミール・フダーイダートの承認のもとに即位(在位:1418年 – 1421年)した。 即位後に テイムール王朝への対策として、ビシュバリクからイリバリクに遷都している。

また、明に複数回朝貢している。 1420年に従弟のシール・ムハンマドが反乱を起こすとこれを鎮圧するが、翌1421年に亡命先のティムール朝から帰国したシール・ムハンマドによって追放された。

しかし、1425年に 従弟・シール・ムハンマドが没した後に 再び推戴され 復位(1425年 – 1432年)している。

ワイスは在位中、北方の蒙古高原で勢力を拡大するオイラト族とたびたび交戦した。 16世紀の史書には ワイスがオイラト族と61度交戦し、一度を除いてすべて敗北に終わったことを伝えている。
1428年に オイラト族のエセン・ハーンと戦って敗れて捕虜とされ、姉妹のマフトゥム・ハニムをエセン・ハーンの息子・アマーサーンジーの妻として差し出すことを条件に釈放されている。

1430年前後にはトルハファンに進出、現地の支配者階級を追放し トルファンをモグリースタン・ハン国の直接の支配下に置いた。

シルクロードの交易利益で国力を高めていく。 1432年頃 ティムール朝のウルグ・ベクに追放された西チャガタイ・ハン国の君主・サートゥークがモグリースタンに侵入する事件が起きた。

ワイスは あっけなく、サートゥークとの戦闘中に戦死したのです。 武将タイプの君主ではなかった。 正嗣子に ユームスエセン・ブカがいた。

≪ シール・ムハンマド(在位:1421年 – 1425年)はシャムイ・ジャハーンの子。 モグリースタン・ハン国第9代君主 ≫

エセン・ブカ(生没年 ? – 1462年)が父・ワイスの敗死で即位しと頃、モグリースタン・ハン国は混乱した状態にあり、

ワイスの遺子であるエセン・ブカと その兄のユーヌスはどちらも成人しておらず、いずれを支持するかで国内は二分された。

この時優勢だったのはエセン・ブカであり、ユーヌスは自分が不利な立場にあることを知るとティムール朝のウルグ’ベグの元に亡命した。

このユーヌスの出奔によって、 エセン・ブカが唯一のハンとなる。 在位期間:1432年 – 1462年

統治期間のうち、最初の数年は順調だった。 貴族(アミール)たちは皆忠誠を誓っており、1435年にワイスの死後にティムール朝に占領されたカシュガル(パニール東部、シルクロードの基幹都市)の奪還に成功する。

しかし、アミールたちは次第に若いエセン・ブカの権力が微弱と見做すようになり、ハン国は統制が取れない状態に戻り始めた。

アミールたちの信頼をいくらか回復した後アクス(カシュガールとトルファンの中間)に移り、ハン国の有力者であるドグラト部のサイード・アリーと姻戚関係を築くため、娘のダウラト・ニガル・ハニムとサィーヂ・アリーの子ムハンマド・ハイダル・ミールザーとの婚姻を成立させた。

チャガタイー3-7-5

国内の統制を回復させた直後、マーワラーアンナフルをティムール朝から奪還せんと試みている。

1451年からタシケントを2回にわたって攻撃、 包囲し 一時的に回復に成功した。

ティムール朝・アブー・サイードが モーグリースタン軍を駆逐するため 所領の兵力を結集すると撤退、モーグリースタン国内まで追撃されることなく撤退しが、 度重なる侵入に業を煮やしたアブー・サイードは、イランに留め置いていたユーヌスに軍隊をつけてモグリースタンに送り返した。

ユーヌスはアミールの中に支持者を作り、カシュガルのドグラト部に接近、エセン・ブカは彼を捕らえて軍勢を破り、再びティムール朝に追放した。

だが、それから間もなくユーヌスはモグリースタンに戻って支持者を集め、エセン・ブカはユーヌスに対して決定的な勝利を収められなかった。

1462年 エセン・ブカは領内鎮圧途上で没し、彼の死によってモグリースタンは再び分裂した。

西部にユーヌス、東部にはハンに即位したエセン・ブカの子・ドースト・ムハンマドが割拠しており、ドースト・ムハンマドの死までモグリースタン・ハン国の分裂は続いた。

生前、エセン・ブカはウズベクのアブール=ハイル・ハーン(彼の孫ムハンマド・シャイバーニー・ハーンがティムール帝国を崩壊する)から離反した、ジャニベグ・ハーン、ケレイの2人を受け入れています。

ジュチ・ウルスでカザフ・ハン国が成立した後も両者の友好は保たれ、エセン・ブカの死後数10年の間、モグーリスタン・ハン国とカザフ・ハン国は同盟関係にあり、対ティムール帝国包囲網戦略を立て 広範戦略を実施した君主だったと思われる。

チャガタイー3-7-2

       【 私は 中央アジアを彩る人物では・・・・・・

上記の“エセン・ブカ”の貴族性とその戦略眼、

皇子であるも凋落した宗家を他家の召使の様な生活からウズベク族を束ね立国した
“アブール=ハイル・ハーン”の豪快磊落な生き様、

“ムハンマド・シャイバーニー・ハーン”の自由闊達さ、

“テッムール”の知的で壮大な夢想、

“パーブル”の誠意ある純粋な行動と詩情豊かな情熱 等々 が好きです 】

_____ 続く ______

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