成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (8)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光

チャガタイー3-8-1

西部チャガタイ・ハン国にユーヌス、東部モゴーリスタン・ハン国にはハンに即位したエセン・ブカの子・ドースト・ムハンマドが割拠しており、ドースト・ムハンマドの死までモグリースタン・ハン国の分裂は続いた。

1432年に父・モグリースタン・ハン国第8代君主・ワイスが死去すると、ユーヌスは(生没年 1415年 – 1487年)は弟・エセン・ブカとのと後継をめぐって争っていた。

1434年までに敗れてティムール朝に追放された。 エセン・ブカは幼少の折から人質としてティムール朝で過ごしている。

ユーヌスは ティムール朝のシャー・ルウ(ティムール帝国第三代皇帝、学者肌)に保護されて、西チャガタイ・ハン国の名目上の君主に擁立された。

その後、ティムール朝の支援を受けて弟と争い続け、1462年に弟が死去するとトルキスタン東部の大半を奪い取った。 東部モゴーリスタン・ハン国の西部域を支配した。

弟・エセン・ブカのモゴーリスタン・ハン国君主は 領地奪回に軍を率いるが病死する。 後はその息子・ドースト・ムハンマドが継いでいたが、モゴーリスタン・ハン国には統制力がなく

ユーヌスはこれを破って1472年までにモゴーリスタンを支配下に治めた。 歴史上ではユーヌスの在位は1469年から1487年と記載されている。

モグリースタン・ハン国第11代君主に戴冠したユーヌスは その後 北東部から侵略するオイラトと戦いながら、混乱するティムール朝に介入して勢力を拡大する。

その一方で北方の遊牧民(キプチャク)と原住民の争いも巧みな政治手腕で解決させようと尽力している。

1487年に 73歳で死去した。 後を子のマスムードが継いだ。

マスムード(在位:1487年 – 1509年)は モゴーリスタン・ハン国君主として最後の人物として、その名を残す。 インド大陸にムガル帝国を建国したバーブルの叔父でもある。

15世紀の前半になるとジュチ・ウルスの流れを汲むウズベグ、カザフという二大遊牧集団に圧迫され、モグリースタンの王族や諸部族が

次第に南遷してタリム盆地のオアシス都市に移り、かつてのチャガタイ人と同様に定住化・テュルク化していった。 ティムール王朝は政権争いの渦中と言え強大であった。

北西のウズベグを率いたシャイバーニー朝がティムール帝国の北東部を侵食し モゴーリスタン・ハン国をも覗っていた。

北には1487年に即位したダヤン・ハーンが オイラトを再編成して 南にその勢力を拡大し始めた。

チャガタイー3-8-2

マスムードは 天山山脈南麓で勢力を維持する、ドグラト部のムハンマド・ハイダル・ミールザー(縁戚関係・皇后が叔母)の援助で政権の中枢をカシュガールに移した。

モグーリスタン・ハン(東チャガタイ・ハン)国の系譜を引くトルファンの支配者アヘマの子・サードが 1514年にカシュガルでハン位に就いた。 北方のオイラト勢力に圧されて、都城はヤルカンド(莎車市、現名:葉城)に置いた。

≪ この為、ヤルカンド・ハン国/カシュガール・ハン国と呼ばれる ≫

ヤルカンド・ハン国は その勢力は次第に拡大し、タムリ盆地一帯の主要なオアシス都市だけでなく、最盛期には天山以北のバルハシ湖南岸(シャイバーニー朝の勢力下の地域)やパミール高原以西のフェルガナ盆地(ティムール帝国の支配地域)にまで及んだが、

しかし、16世紀中葉には、チャガタイの末裔の王族たちのヤルカンド・ハン国は、政治の実権は次第にイスラム神秘主義教団のホージャたちに奪われていった。

統治集団内部の権力闘争やイスラム教の黒山派と白山派の教派対立が統率力を霧散した。

1680年、タウリ盆地は全域がチベット仏教徒のモンゴル系遊牧民ジュンガールのハン、カルダンの手に落ち、これによりチャガタイ家系のハンによる政権は消滅した。

その後もヤルカンド・ハンを名乗る者はいたが、名目に過ぎなかった。

こうして、ジンギスハーンの次男・チャガタイの“アルタン・ウルク/黄金の家族”の後裔は この地域の歴史から、その姿を消して行きます。

チャガタイー3-8-3

15世紀の半ば、西チャガタイ・ハン国ではチャガタイ家のハンが完全に実権を失い、アミール(貴族)の称号を持った有力な部族の指導者たちが 各オアシスに割拠してハン国の覇権を争うようになっていた。

一方、東チャガタイ・ハン国では一時的にハンが断絶したが、 1347年頃にドゥアの息子エミール・ホージャの落胤であるというトゥグルク・ティムールという少年が発見され、東チャガタイ・ハン国のハンに即位した。

即位後のトゥグルク・ティムールは 東トルキスタンを再統一すると、1360年には、西チャガタイ・ハン国の諸部族を服属させてチャガタイ・ハン国を一時的に再統一した。

トゥグルク・ティムールの足跡 また 彼の後継者が統治したモグリースタン・ハン国の史跡をスケッチしてきた。

チャガタイー3-8-4

トゥグルク・ティムールの死後、チャガタイ・ハーンの末裔 西チャガタイ・ハン国のマーワラーアンアフルの諸部族は 再びハンから離反したため統一は失われて行った。

アミール(貴族)同士の抗争が再燃した西チャガタイ・ハン国では、トゥグルク・ティムールによってバルラス部のアミールに任命されていたテイムールが勢力を伸ばし、1370年にマーワラーアンアフルを統一した。

テイムールの開いたテイムール朝は、テイムール自身(君主)がチンギスハーンの血を引いていないという弱点があった。

チンギス統“アルタン・ウルク”の血脈でないティムールは また ジンギスハーンの再来と自己を規定するティムールは チンギスハーンの末裔の王子を傀儡のハンとして擁立して、政権を維持していきます。

しかし、やがて もはやそのハンの出自はチャガタイ家であることにはこだわれず、やがて傀儡のハンも立てられなくなって行きます。

モンゴル帝国の再統合を目指して勢力を拡大したティムールは旧主のモグーリスタン・ハン国にも出兵し、一時はこれを服属いんSせたこともあるが、モグリースタン・ハン家は 南遷し、余命を繋いで行ったのです。

チャガタイー3-8-5

さて、西チャガタイ・ハン国の皇統をスケッチしておきましょう。

タルマシリン(生没年 ? – 1334年)は、西チャガタイ・ハン国の初代君主(在位:1326年 – 1334年)として即位した。

チャガタイ・ハン国の事実上の祖で全盛を築いたドゥアの子。 1326年に同国が分裂したので西側初代の君主になった。 彼自身はカルシー付近に定住しイスラム教徒だった。

インドやホラーサーンに出征するが、いずれの地域においても敗退し成果を上げられなかった。

外征の失敗とイスラム教への過度の傾倒が東チャガタイ・ハン国の王族・貴族の敵意を煽り、1334年に東チャガタイ・ハン=ブザンの襲撃を受けて殺害されている。

チャガタイ・ハン国内で イスラム化の進んだ者の多くは西トルキスタンに定住し、東西のチャガタイ・ハン国の住民は互いに相手の文化を蔑視する性癖が 益々 増大した。

この様に、分裂が顕著化する中で ブカ・テルムの孫・ヤサウルの子であるはりるが第二代西チャガタイ・ハン国の君主に就いた。

ハリル(生没年 ? – 1343年)には、次の君主になった実弟・ガーザーンがいた。

1334年に前君主・タルマシリンが 東チャガタイのブザンに殺害されてその領土が支配されるが、ブザンがイスラム教徒を迫害したために反乱が勃発した。

ブザンは追放され、反乱を起こしたアミールの支持を受けてハリルが君主になったのだが、ブザンとの戦いでの勝利に酔い、重臣を殺害するなどの暴政を布くような君主であった。

彼の後継者であるガーザーンも 兄の死後 君主の座を継承するが 部下をやたらと粛清したので、この兄弟2代で多くの血が流されて西チャガタイ・ハン国は 動揺し、混乱し、国力を落としている。

ガーザーン(生没年 ? – 1346年)が兄の死(謀殺説あり)で、西チャガタイ・ハン国の第三代君主(在位:1343年 – 1346年)を継ぐ。 即位当時の西チャガタイ・ハン国の領土はカルシーを首府としてマワーラアンナフル地方を支配していた。

ティムーツ朝の史料では ガーザーンは兄以上の暴君として書かれ、宮廷に赴く臣下は装束の下に経帷子を着けて妻子に別れを告げ、近衛兵もガーサーンに恐怖していたと記所している。

自身をハンに擁立したトルコ系貴族を弾圧したため、反対派の不満が高まり、1346年にエニール(大臣)のハズガンが諸部族の長を率いて反乱を起こした。

ガーザーンはテルメズとカルシーの間にある鉄門関の北方の戦闘で勝利するが、カルシーに冬営していた際にハズガンの急襲を受けて敗死した。

≪ 鉄門関 ; トルキスタン地方の探検史では重要な場所、ヘディンが 大谷探検隊が ロシアの幾多の探検隊がこの渓谷上の難関を 通過している。 私は通過できなかったが・・・・≫

以後、1358年までハズガンによる傀儡君主が立てられる。

ダーニシュマンド(在位:1346年 – 1348年、オゴデイの4代孫) バヤン・クリ(在位:1348年 – 1358年、ドゥアの子・ソルガトの子)、カブール・シャー(在位:1358年 – 1366年、イルジギディの子・ドルジの子)。

と傀儡君主がつづきます。

チャガタイー3-8-6

アーディル・シャーが即位した。 アーディル・シャーは東西チャガタイ・ハン国が統一していた時のドゥアの長子・ゴンチェクのひ孫でブラド・ムハンマドの子です。

西トルキスタンの覇権を ティムールと争うフサインに傀儡として擁立され、1366年に即位した。 しかし、1370年にフサインがティムールに敗北して、商都・バルフでフサインが処刑された時に アーディル・シャーは 同じく処刑されている。

1370年の事 突如フサインは 自軍の本拠地・バルフを 僚友であるティムールに急襲だれた。 原因は フサインの猜疑心と金銭欲にあったが、フサインは捕らえられて殺害された。 マーワラーアンナフルの覇権はティムールが確立した。

ティムールは これまで、当バルラス部以外の有力部族を傘下に収めており、大モンゴル国の2代目だっ
たオゴデイの末裔である王子・ソユルガトミシュをハンに擁立し、臣下の礼を尽くしてきた。

フサインを壊滅させたテムールは 同年、フサインの寡婦でチンギスハーンの子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称し 終生ハンを名乗なかった。 そして、以降 中央アジア全域を覆う帝国を築いていく。

≪ ティムール王朝の歴代君主・ティムールの後継者達は 他の遊牧部族の将軍たちと同じアミ-ルの称号を名乗るのみでした ≫

ソユルガトミシュが正式に ティムールに推戴されて西チガタイ・ハン国第8代君主に即位した(在位:1370年 – 1388年)。 オコデイ大皇帝の4代孫・ダーニシュマンドの子です。

ティムールの覇権が確立したと同時に推戴され 1370年に西チャガタイ・ハン国の名目上の君主として擁立された。 しかし、ティムールの傀儡で政治的な実力は無く、サマルカンドに身柄だけ保護された身分で余生を送ったという。

ソユルガトミシュの子・スルタン・マフムード(生没年 ? – 1402年)が 1388年に父が死去したため、後を継いだ。 父の時代から西チャガタイ・ハン国の君主はティムールの傀儡も同然であったが、

スルタン・マフムードの頃には家臣同様に扱われていた。 マフムードは ティムールに従ってインド遠征や7年戦役に従軍し、アンカラの戦いにも参加してオスマン朝のバヤジィト1世を捕らえるという功績を立てている。

だが、その直後に急死した。 スルタン・マフムードの死後、西チャガタイ・ハン国の君主はティムールによって擁立されることもなくなった。 モグーリスタンのユームスはティムール朝のシャー・ルウに保護されていたが、モグーリスタンに帰国し、自滅した。

西トルキスタン地域でジンギスハーンの次男・チャガタイの皇統は消えた。

チャガタイー3-8-7

“チャガタイ一党の系譜”はこれで 筆を 置きます。

次回からは ジュチ家・チャガタイ家に因縁浅からぬフレグ一党を話してみよう・・・・・

________ 続く ________

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/04/30/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/02/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中