成吉思汗・オゴデイ一党の覇権 (1) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・オゴデイ家”の正嗣が栄光 

ジュチ一党2-13-1

オゴデイは、父・ジンギスに従ってモンゴル統一や金遠征、大西征に従った。

彼はジンギスハーンの三男、出生の噂に悩む長兄・ジュチ、父が折々に諭す遊牧民の規範に厳格な次兄・チャガタイ、その二人を融和させるにているのが彼であった。

弟のトルイは 何かにつけ父に従い兄弟でいがみ合う事がなかった。 長兄には覚めた英知、次兄は感情を己で抑制する忍従の人であった。

オゴデイは豪楽で外面には現さないが他者の心情を察する温情の人。 弟のトルイは、そつなく状況判断ができる秀才であった。 兄弟四人で酒を酌み交わせば、オゴデイが最後まで崩れることなく黙々と飲んだ。

父・ジンギスハーンの遠征には常に先陣を受け持っていた。 特に父の(中央アジア)においては ホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部(アルタイ山脈南東部)に所領を与えられた(後年のオゴデイ・ウルス)。

オゴデイには ジュチとチャガタイの有能な兄がいたが、ジュチは出生疑惑をめぐる問題を早く父から自立する事で解決しようとし

チャガタイはジュチとの不和、また チャガタイは気性が激しすぎるところから父・ジンギスハーンから後継者として不適格と見なされていた。

オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として、父から期待されていた。

1227年 ジンギスハーンが 大西征の折に従軍を約束した西夏王が 出陣せず約束を履行しなかった責務を諌める遠征軍を率いて西夏王国を陥落させる前日に 突然他界してしまった。

大君主・ジンギスハーンの死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオドデイの弟・トルイを後継者に求める声があった。

これは、慣習だけではなくトルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かったこと、また 父時代に立てた多数の武勲などが要因で後継者として 周囲の期待を受けたのであるが、

トルイはこれを固辞した。 あくまで 生前の父・ジンギスハーンの指名は三兄・オゴデイであったと表明した。

1229年9月13日のクリルタイで、オゴデイはタガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなった。 長兄のジュチは病死しており、彼の後嗣が西方の大草原にてジュチ・ウルスを確立していた。

オゴデイには「カアン」の称号が贈ら、彼は大蒙古帝国第二代皇帝・オゴデイ・カアンとなった。

オゴデイー1-

・・・・・・・オコデイ・カアンへの歴史家の寸評は 概ね・・・・

◎ オゴデイの治世晩年は後の帝国分裂の要因となる癌が多く発芽したが、急激に帝国領を拡大し、偉大なる父の覇業を見事に受け継ぐことにも成功している。

◎ 偉大な父を持つ2代目は坊ちゃん育ちで国を傾かせる者が多い中で、オゴデイは理想的な二代目であったといえる。

◎ 酒豪揃いの蒙古族に在って 大変な酒豪であった、が 彼の病死の原因は律義さ故の過労と 酒で自己を開放してきた積年の性癖であろうといわれる。

・・・・・ さて、オゴデイ・カアンの史跡を追及しよう。 まずは 彼の沿革は・・・・・・

オゴデイー2-

オゴデイ・カアンは戴冠後、父・ジンギスハーンの偉業を受け継ぐべく、積極的な領土拡大を行なった。

1232年にはトルイの活躍で金帝国の名将・完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼしている。

さらに1235年、首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。

南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗、チベツト、カシュミールへの遠征計画を決議した。

南方遠征については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男・コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣しこれを征服させた。

1236年からは甥でジュチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣・スブタイ(ジンギスハーンの四天狗の猛将軍)を宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主・モンケなど 各モンゴル王家の後継者クラス、王族たちを派遣し、

ヴォルガ・ブルガール、キプチャク諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ハンガリー王国(アールバード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など東欧の大半までを制圧するに至った。

しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。

内政面においては父時代からの大功臣・ウイグル人財務総監・チンカイマスムード・ヤラワチ耶律楚材らを重用し、

全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めている。 ユーラシア大陸中央部のいかなる辺地と帝都・カラコルムとの連絡網(伝令の駅舎・狼煙台 等)を整備した。

また、オルホン河畔に首都・カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けている。 統治システムを改善を勧めて行くが、

しかし 相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れずにいる間に、

次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりもオゴデイの長男・グユクとジュチ家当主・バトゥの対立(欧州遠征時のいざこざ)が決定的となって

“アルタン・ウルク”即ち、ジンギスハーン一族間に不和が生まれたことなどが、オゴデイの晩年には大きな癌となって行きます。

オゴデイー3-

さらに、『集史』などによれば、後継者最有力候補であった三男・クチュが早世したため、オゴデイは

父・チンギスハーンのように自分の息子から後継者を指名せず、愛するクチュの長子・孫のシムレンを後継者として告示していたと記述している。

しかし、シムレンは未だ若年であり、壮年の王族はオドデイの息子たちはもとより、ジュチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。

オゴデイは即位の時に オゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞を提出させていたという。

1241年12月7日に「大猟」を催し、同月10日にウテグ・クラン山というところで幕営して深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、1241年12月11日に寝床で絶命していたという。

享年56歳。 過度の酒色で健康を害して死去してしまったと『集史』や『元史』などでは述べられている。

死後は父親・ジンギス、母親・ボルテと同じく起輦谷(この場所は 未だに特定されていない)に葬られた。

オゴデイ・カアンは生前、後継者としては3男のクチュを指名していたが、不幸にも1236年2月に早世し、それ以外の息子(グユク以外)のほとんどは早世してしまっていた。

このため、生前はクチュの長男シムレンを後継者とし、あるいは甥にあたる、トルイの長男モンケ(幼少時、オゴデイ・カアンの側で生活している)を後継者として考えていたらしい。

しかし、オゴデイの死後、皇后のドレゲネ(グユクの生母)による巧みな政治工作でグユクが第3代皇帝(ハーン)に選出されたのです。

ジュチ一党4-6

【 カラコラム ; ジンギスハーンが大西征の兵站基地をこの地に造営し、第2代大ハーン(カアン)であるオゴデイが1235年に宮殿・城壁を築いて モンゴル帝国の首都に定めた。

オゴデイ・カアンの時代にジャムチ(駅伝制)が整備され、大蒙古帝国各地との結びつきが強められた。

第5代大皇帝であるクギライ・ハーンが首都を大都に定めた後もモンゴル本土の拠点都市として重んじられる。 明を建国した朱元璋による北伐を受け、モンゴル族が北方に追われた後は北元の首都となっている。

16世紀末、チベット仏教の寺院エルデネ・ゾー建設の資材調達のためカラコルムは荒廃した。

その後、しばらく歴史上から姿を消すが、19世紀末にロシアの研究者が遺跡を発見し研究が進められた。 20世紀末には日本とモンゴルの共同調査が行われている。

現在、近郊のハラホリンは温泉保養地として知られています。 朝青龍の父の故郷でもあり、彼の親族が経営するリゾート施設があるそうです。  ・・・・・蛇足ながら 】

ジュチ一党1-6

ジュチ・チャガタイ・オゴダイ・トルイの母親・ボルテ

モンゴル帝国の始祖ジンギスハーンの第一皇后であるボルテ、コンギラト部族の王族出身です。

ボルテ・ハトゥン(皇后)は カブル・カン以来 モンゴル部族の姻族として知られたコンギラト(オンギラト、フンギラトとも言う)部族の一氏族の首長デイ・セチェンの娘で、『元朝秘史』ではジンギスハーンより1歳年上だったとされる。

父・デイ・セチェンはコンギラト部族本家から分岐した一族と思われます。 『集史』の「コンギラト部族誌」によると コンギラト部族はモンゴル部族において、

キヤト氏族をはじめとするエルン部族集団に隷属するドルルンキ部族集団を代表する部族であった。

モンゴル部族の中では 有力で名門の宗家の一族がボルテ・ハトゥンの血脈です。

ボルテはまだ子供の頃に父とテムジン(ジンギスの幼名)の父・イェスゲイ・バートルとの間で婚約が結ばれ、成人した後にテムジンと結婚した。 父・イェスゲイ・バートルは怨敵のタタル族に毒殺される。

結婚してあまり経たない頃、高原北部の有力部族メルキトの首長トクトア・ベギが傘下のウアス、カアトの各氏族の首長たちと軍を引連れてテムジンの幕営を襲い、ボルテは逃げ遅れてメルキトに抑留された。

まだ勢力の弱小だったテムジンの保護者であったイェスゲイ・バートルの盟友でケレイト部の王・オン・ワンはメルキトに圧力をかけ、ボルテの身柄をケレイト陣内に引き取り、テムジンのもとに無事送り返した。

この旅路の最中にボルテは長男・ジュチを生んだ。 「旅客」を意味するジュチという名前をテムジンはこの子に授けた。

ジュチ一党1-3

『元朝秘史』は より劇的に、テムジンはオン・ハンおよび親友のジャムカ(後年最大の宿敵となる)と同盟して メルキトを破り、武力でボルテを救い出したという話になっています。

一方、『集史』ジュチ・ハン紀は、父親・イェスゲイ・バートルがメルキト族長の後嗣の婚礼に向かうホエルン(テムジンの生母)を兄弟で奪い去り、妻にした遺恨の仕返しにテムジンの妻・ボルテを略奪したと書き、

ボルテがメルキトの手勢に連行された時、既に彼女は妊娠した状態だったとも書いている。

やはり、オン・ハンがメルキト側と交渉してボルテを取り戻し、オン・ハンはテムジンの英知を愛し テムジンを自らの「息子」と称して尊重していた史実 また 蒙古高原に覇を打ち立てる過程での二人の関係からも

彼女を鄭重に保護してテムジンもとへ オン・ハンが送り戻したのでしょう。

その後、ボルテ・ハトゥンは ジュチの3人の弟チャガタイ、オゴデイ、トルイと5人の女子を生み、男子はジンギスハーンの後継者候補としてその征服事業を助けて活躍し、女子は全て チンギスハーンと同盟した有力な部族の長のもとに嫁いでいる。

ジンギスハーンが勢力を拡大するとやがて様々な部族から迎えられた36人の女性が后妃とされ、ボルテ・ハトゥンは正妻、第一皇后としての地位を保って尊重された。 他の后妃とは別格の扱いであった。

勿論、遊牧民の王族の皇后として、ジンギスハーンが親友として考えているジャムカの性格を見抜き、テムジンが窮地に陥るのを未然に防ぎ、オン・ハンとの関係(三度敵に回り、三度助けられる)など非常な明晰な内助の功を発揮している。

オゴデイー4-

______ 続く _____

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