成吉思汗・オゴデイ一党の覇権 (2) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・オゴデイ家”の正嗣が栄光 

Kranjska Gora

耶律 楚材の話をしておきましょう。 大蒙古帝国を帝国たらしめた人物です。

インギスハーンの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、耶律楚材はチンギスの遺志を尊重して オゴデイを立てることを王族に説き、また 諸後嗣を説得している。

この帝国への貢献が礎となってモンゴル帝国を揺るぎなきものにしたと史家は評価する。

ただし、モンゴル貴族ではない楚材がクリルタイに出席して発言権をもったとするには無理があり、この話は中国で書かれた史料にしか伝わっていないことから、

この逸話は疑わしいという説もありますが、彼のジンギスハーンの後嗣達への影響力や彼の人格からして 疑う余地はないでしょう。

オゴデイが即位すると、新皇帝(ハーン)にも書記として仕え、中国語で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、北中国の金の旧領の統治に携わった。

楚材は、あるモンゴル軍人が、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、

捕虜たちを「万戸」と呼ばれる集団に分けて3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。

新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイ皇帝はこれに感嘆して楚材を賞賛したという。

1234年にモンゴル帝国が金帝国を最終的に滅ぼし北中国を併合した後には、中国式に全土を皇帝の直轄領にするために、モンゴル貴族に征服した領土を分与することに反対したが、これは黙殺されている。

また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀と行わせ、実務官僚層の供給源とした。

オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。

しかし、オゴデイ・ハーンの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭して

中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立した。

ウイグル人財務総監・チンカイやマフムード・ヤラワチ等がその代表ですが、彼らの一部は皇后に取り入り、帝国の財政を破綻に導く。

結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていった。

オゴデイー2-1

1241年12月7日に「大猟」を催したオゴデイ・カアンは、同月10日にウテグ・クラン山というところで幕営して深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、1241年12月11日に寝床で絶命していた。

1241年初頭、オゴデイ・カアンの長男・グユクはバトゥの西征(前章参照)で最高指揮官であるジュチ家当主バトゥと対立し、この不協和音に 父・オゴデイ・カアンは激怒した。

グユンは本国への召還を命じられ、同年12月7日は 本国に帰還する途上であった。 史実は問責を恐れるグユンは蒙古高原の鳥羽口で時間稼ぎえをしている。

欧州西征最高指揮官・バトゥへの伝令から また 自己への連絡で 父の病没をしったグユクは直ちに 帝都・カラコルムに戻っている。

グユクは 1206年、初代ハーン・ジンギスの三男オゴデイの長男として生まれる(生没年 1206年-1248年4月)。

1233年、蒲鮮万奴を討ち、これを捕らえる功績を挙げ、 1235年初春、父オゴデイがカラコルムを帝都・首都と定め、併せてこの時召集されたクリスタルで、ジュチ家の当主・バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍の出立を言明した。

グユクの三弟クチュは、次弟コデンを総司令官とする南宋遠征軍を率いることが決議され、さらには 他の王族後嗣を指揮官として高麗へも軍を派遣することが決定した。

グユクは オゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった。

グユクは バトゥに次するトルイ家の長男・モンケやチャガタイ家のブリなどとともにルースィ・キプチャクの侵攻遠征で活躍した。

しかし、グユクは他の兄弟をはじめ、特に従兄弟のバトゥと仲が悪く、他の王族たちと常に対立していた。

『元朝秘史』や『集史』によると、遠征中の酒宴でブリがジュチ家の王子たちと口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調したと伝える。

このことでジュチ家の王族たちと グユク・ブリが対立した為、グユクの素行を知った父親・オゴデイ・カアンは 自身が一族の和を重んじる性格であったことから、

一族の最有力者であるバトゥと仲の悪いグユクは自分の後継者として不適格と見なし、候補から除外していた上で 問責の使者を発し、グユクとブリをカラコルムに召還した。

ジュチ一党1-2

実際、バトゥがオゴデイの兄・ジュチの息子であるとはいえ、大蒙古皇帝の息子を家臣の指揮下に置かせるなどということは異例といっても過言ではない。

出陣前からグユンは後継者として失格であると思い悩んでいたのでしょう。

『元朝秘史』によると、遠征中のバトゥからこの報告を受けた父・オゴデイ・カアンは激怒し、グユクは本国への召還を命じられたという。

『集史』ではグユクに伴ってモンケもモンゴルへ帰還したという。モンケは従兄グユクの監視者として同行する旨を命じられていたと記す。

帰還する途上の1241年12月7日に 大蒙古皇帝第二代皇帝・オゴデイ・カカンは病没してしまった。

父の死により、本国に最も近い場所にいたグユクは幸運にも、皇帝(ハーン)位を望むに一番優位な立場となった。

『集史』によると、オゴデイは生前、第一皇后・ボラクチンとの間に儲けた三男クチュを後継者に定めていた。

南宋遠征において、次男・コデンが右翼軍として四川の成都に入城、陝西方面を劫掠し、中軍(本体)を率いるクチュも河南からは湖南に侵攻し、棗陽方面まで制圧していた。

しかし、1236年11月に湖広方面の前線でクチュは陣没してしまった。

このためオゴデイ・カカンはクチュの長男シムレンを寵愛して自らの後継者として宮中で養育していた。

こうした中、グユクは本国・カラコルムへ召喚中に、1241年1月に発せられたオゴデイ・カカンの訃報に接し、加えて生母・ドレゲネが摂政としてオゴデイ・カカンの後継者を選出するクリルタイの招請にも接した。

モンケ(トルイの長男、第四代ハ皇帝)は欧州西征軍から召還されるグユクに伴い、彼に随伴したという。

このため、グユクの生母ドレゲネは摂政監国として 政治工作を行い、一族の最有力者で息子と不仲の従弟・バトゥの強硬な反対こそあったものの、

ドレゲネはモンケを抱き込み、トルイ家と密約を交わし 1246年8月24日、祖父ジンギスハーン即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイにて、

息子・摂政を第3代モンゴル皇帝に推戴することに成功する。 しかし、摂政の体制は崩せなかった。

オゴデイー2-2

グユク即位後の10月、母のドレゲネが病死すると、グユク・ハーンは自ら親政を開始する。父オゴデイ・カカンの死から5年が経過していた。

グユク・ハーンは母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑し、父時代の功臣であるヤラワチ、チンカイを重用し

自身の即位を支持するチャガタイ家当主・カラ・フレグを廃し、イェス・モンケ(チャガタイの五男)を第3代当主に任命するなど重用した。 この任命がチャガタイ家の内紛に結びついていきます。

軍事面では南宋・イラン諸地方、高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めている。

そして 自らも欧州遠征再開のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。

しかし グユク・ハーンは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク(ウルムチ市北方)方面で急死した。 享年43歳であった。

この死は、父同様に過度の酒色で健康を害したための病死といわれている。

しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユク・ハーンによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、

あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたと記録されており、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もあります。

トルイ家のソルコクタニ・ベキの姉・ベクトミシュ・フジンはジュチの皇后ですから バトゥは彼女の甥です。

グユン・ハーンの死後、その皇后・オグルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、ジュチ家のバトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、

約4年の間 モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。

バトゥとモンケのグループは独自にクリルタイを開催し、オグルガイミシュはこの動きに抵抗したが、ジュチ・カサル家とカチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たち(ジンギスハーンの実弟である東方三王家の諸家)が バトゥとモンケの集会(クリルタイ)に参集したことに加え、

グユンの姪・シムレンやグユクの子・ホージャ・オグルやナグの兄弟もモンケのクリルタイに参加を表明するに及び、モンケが 一族の長老・バトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位した。

オゴデイー2-3

グユクの即位と生母・ドレゲネ皇后

『世界征服者の歴史』や『集史』などによれば、ドレゲネの工作によって、グユクの即位のクリルタイに、

トルイ家からは ソルコクタニ・ベキを筆頭にモンケなどその王子たち、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、

チャガタイ家からは第2代当主のカラ・フレグ、イエス・モンケ、ブリ、バイダル、イxrスン・トアらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。

さらに帝国内部からは旧金朝領である華北に派遣されていたノヤン将軍や官僚たちと在地漢人勢力の代表者たち、マーワラーアンナフル総督のマスウード・ベグ、

イラン・ホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行してきたカフカス南部境域、アゼルバイジャン地方からイラク、ホラーサーンに至るまでのモンゴル支配地域とその周辺の有力勢力や王族たち、その使節が参加している。

ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン4世、ウジーミール大公国・ヤロスラフ2世、グルジア王国・ダヴィッド兄弟公、有名なサラーフッディーンの曾孫でアイユーブ朝の君主ナースィル・サラーフッディーン・ユースフの弟君、モースル朝君主・バドスィディーン・ルウルウの使者がおり、

また ヨーロッパからはローマ教皇インノケンティウス4世の使節として派遣されたジョヴァンニ修道士、ケルマーン地方のカラキタイ朝の君主代理 同地方のサルグル朝の使節が参加していた。

その他 このクリルタイに 当時のユーラシア大陸で覇権を唱える勢力が参集しているのです。

グユク推戴に反対するジュチ・ウルスも結局 バトゥは体調不良を口実に欠席したが、モンゴル本土に派遣していた、異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、ベルケチェル、タングト トカ・テムルといった自らの兄弟であるジュチ家の主要王族たちとそれに随行する将軍たちを出席させている。

総じてグユク推戴のクリルタイは、モンゴル帝国最大の勢力を誇っていたバトゥ自身の参加は欠いていたものの、ドレゲネ皇后の工作によって

帝国各地や周辺の主だった勢力を参加させることが出来たため、大蒙古帝国の皇帝選出という大業に見合った大規模なものにすることに成功したといえます。 蒙古族は男女平等です。

それにしても、女傑です。 しかし、当のグユクは皇帝の器ではなかった。

オゴデイー2-4

____ 続く _____

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