成吉思汗・オゴデイ一党の覇権 (3) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・オゴデイ家”の正嗣が栄光

オゴデイー3-1

コデン、オゴデイの次男

コデンは第2代大ハーン、オゴデイイの次男で、グユンの弟にあたり皇帝位に一番近くに居た。

父のオゴデイが皇帝(カカン・ハーン)に即位した後、有力な後継者候補のひとりとみなされていた。

オコデイが戴冠し、モンゴル帝国を束ね 諸策を推進していたオゴデイ・カカン時代の早期に、

モンゴル族の伝統である末子相続の慣習に基づき オゴデイの弟であつジュンギスハーンの四男・トルイが帝国内の蒙古高原遊牧民群の大半への その支配権・リーダーシップを保持していたが、まもなくトルイは早世してしまった。

すると、オゴデイ・カカンは次期光景主後継者として長男のクチュに期待し 次男のコデンに末弟・トルイの後裔に相伝されるべき領民のうち4個千人隊すなわち4千戸を割いてコデンに与え、

涼州の平原から河西回廊東部にかけての西夏の故地(現在の甘粛省一帯)を勢力圏とする封土を与えた。

コデンは 在世中、その支配圏は甘粛のみならず東の陝西、南のチベットにまで及領土を拡大していった。 これはオゴデイ皇帝(カカン)即位の折、クリルタイで決定した事項であり、兄・クチュは南宋地方の攻略を担当していた。

1239年 コデン率いるモンゴル軍は青海・カム地方からチベットに侵攻し、中央チベットでは仏教寺院を焼くなど猛威をふるった。

この侵略・侵攻に対し、チベットで旧来から勢力を張る土着の豪族と結びついて各地に割拠した仏教教団のひとつであるサキャ派が宗派保全の為に策動している。

サキャ派の教主・サキャ・バンディタは 新興のモンゴル帝国と繋がりを得るため、1247年にコデンの本拠地・涼州に赴いてコデンと会見した。

この会見が、現代まで続くモンゴル人とチベット仏教の深い関係の端緒として非常に有名な事件のです。 これ以降、モンゴル族はチベット仏教に帰依していく。 チベット仏教・赤帽派です。

元朝時代にはチベット仏教の尊師を国師とたっとび、清朝時代には蒙古族はチベットの支援を受けて満州族と戦っている。

コデンの正確な没年は不明です。 しかし、サキャ・バンディタとの会見から間もなく、兄の第3代皇帝・グユクの急死(1248年)を見ることなく 没したとされている。

また、オゴデイ意中の後継者であった三弟・クチュ(シムレンの父)は 十二三年前の1236年2月に 南宋遠征に死亡している。

オゴデイ家の後嗣は カラチャル、カシ(カイドゥの父)、カダアン・オグル、メリクの四名とその息子達になった。

オゴデイー3-2

その四名の後嗣は母方の出身部族の勢力が弱く、大蒙古帝国の皇帝継承位は他家の王族とは抗しきれなかった。

シムレン(生没年 ? -1252年)は、モンゴル帝国の皇族。 大蒙古帝国第二代皇帝オゴデイ・カカンの第3子・クチュの後嗣。

父のクチュはオゴデイ・カカンから後継者として期待されていたが、十二三年前 1236年2月に南宋攻略の途上で陣没している。

このため、シムレンは皇帝の宮中に引き取られ、居住を伴にしている。 祖父・オゴデイ・カカンはシムレンを溺愛した。

そのため、シムレンが帝位を継ぎ、オゴデイ・カカンの後継者として期待されたが、1241年にオゴデイ・カカンが死去すると、

シムレンと彼を推戴しようとする勢力は叔母・ドレゲネ皇后(オゴデイの第一皇后、叔父・グユクの生母)の摂政監国である権勢を利用し、巧みな政治工作で 息子のグユクを即位させた。

伯父のグユクが第三代のモンゴル皇帝に即位したが、グユク・ハーンの治世が短命に終わる。

ジュチ家当主でジンギスハーン一族の長老・バトゥがグユク・ハーンを暗殺したと言われる。

大蒙古帝国皇帝・グユク・ハーンが他界すると、皇帝位を争う戦いが王族内で再燃した。 再び、若年で後ろ盾も無かったシムレンと彼を推戴しようとする勢力には力が無かった。

シムレンは 第4代をめぐる権力闘争で有力候補になりながらも トルイ家の当主・モンケが第4代を継いだ。

このモンケ勝利の背景には 王族で最大勢力を有する長老・バトゥがモンケの推戴を支持したことと、グユク・ハーン即位の折に交わされたドレゲネ皇后とトルイ家・タソルクニ・ベキ(トルイの第一皇后、モンケの生母)との密約があったのです。

モンケ・ハーンの即位に不満を抱いたシムレンは、先帝・グユク・ハーンの皇后だったオグルガイミシュやホージャ・オグル(グユクの後嗣)らと共謀してモンケ・ハーンの暗殺を謀った。 が、

1252年の秋 機先を制され モンケ皇帝に捕らえられた。

しかも、シムレンの後見人だった人物がモンケ皇帝に寝返って計画の全てを自供したため、モンケ・ハーンの報復により オグルガイミシュらは死刑されている。

シムレンは モンケ・ハーンの弟・クビライと仲が良かったため、叔父であるクビライの助命嘆願により一時的に華北に追放されたが、やがて禍根を恐れるモンケ・ハーンにより、毛布に包まれて河に投げ込まれる方法で処刑された。

モンカ・ハーンの時世は 大蒙古帝国はさらなく拡大を意図し、各地に遠征軍を派遣していく。トルイ家は大蒙古帝国の皇統を強化していく。 オゴダイ家は皇帝位を受け継ぐ後嗣がいなくなり、凋落の影が濃厚になった。

シムレンにはブーラードチという息子がひとりおり、クビライが皇帝に即位した後の1272年に ブーラードチの息子カダイが靖遠王に封じられている。

また、カダイの弟・アルグイも襄寧王に封じられており、カダイの息子・イェスブケンも襄寧王に封じられています。 広大な大蒙古帝国を統治するにはジンギサハーンの血族が遊牧民社会で必要だったのでしょう。

オゴデイー3-3

・・・・・・ここで、オドデイ家からトルイ家に大蒙古帝国の政権が移行した経緯を話しておきましょう。

ジンギスハーンの第4子・トルイの正妃

ソルクタニ・ベキはジンギスハーンの末子・トルイの正妃となった。 彼女はケレイト部族の王であったオン・ハン(トグリル、オン・ハーンは金帝国から与えられた王位)の実弟・ジャガ・ガンボの第3王女です。

長姉がチンギスハーンの妃に成っているため、ジンギスハーンの義妹にもあたり、また 次姉がジュチの正妃ベクトミシュ・フジンであり、バトゥの叔母にあたる。

トルイとの間に、大蒙古帝国第四代皇帝・モンケ(長男)、第五代皇帝・クビライ(次男で元王朝の創始者)、イルハン朝の創始者・三男のフレグ、四男のアリクブケ(クビライと皇帝位継承戦争を起こす)等の後嗣を出産している。

父のジャガ・ガンボは実兄・オン・ハーンやその嫡子であるイルカ・セングンと不仲で、チンギスハーンと仲が良かった。

そのため、1204年に兄と甥がチンギスハーンに敗れて死去しても、娘をチンギスハーンやジュチ、トルイに嫁がせるなどして 大蒙古帝国内で 厚遇を手にしていた。

1232年に夫・トルイが急死すると、長男のモンケにトルイ家を継がせ、自らはその後見役のような立場となった。

1241年に第2代モンゴル皇帝・オゴデイ・ハーンが死去して次代の皇帝位をめぐる争いが起こると、

オゴデイ・ハーンの長男・グユクが生母・ドレゲネの強い支持を受けて1246年に第3代蒙古皇帝として即位する。

しかしジュチ家の当主・バトゥやモンケと彼の後見役であり母・ソルクタニ・ベキらは この即位に不満を持ち、ソルクタニ・ベキはバトゥと密かに連絡を取り合って密約を交わしたりした。

1248年4月にグユン・ハーンは急死を遂げているのですが、

蒙古高原の王族・諸部族長を率いるグユン・ハーンはクリスタルの決議を経ずに軍団を西方に進めた。

この進軍に警戒するようにとソルクタニ・ベキは姉・ベクトミシュ・フジン(ジュチの皇后、バトゥの叔母)を通じてバチゥに知らせている。

グユン・ハーンがビシュバリク(現在のウルムチ市北方)方面に差し掛かり、イリ渓谷に向かう天山山脈の北麓にて急死している。

知らせを受けたバトゥが グユカ・ハーンの暗殺を企てたのでしょう。 史書には明確な記述はありませんが、それを窺わせる文は幾多ある。

夫・トルイが早世した後、その間に生まれた若年の息子たちを育て、長老・バトゥと力してオゴデイ家の政権を否定し、自らの長男・モンケを擁立し、1251年までに第5代のモンゴル皇帝として即位させている。

長男・モンケが第五代蒙古帝国の皇帝として戴冠すると、それを見て安心したのか、間もなく病に倒れ、1252年からモンケ・ハーンの雲南遠征、次男・クビライの南宋遠征、三男・フレグのイラン・イラク遠征が始まる中で死去した。

全力を注いで 寡婦でありながら、トルイ家を盛り立て、その息子たちがいずれも王朝の王となったことから、彼女を「賢夫人」と評価する声が圧倒的です。

寡婦となった女性、たとえ 王族であっても、前夫の後継者(自分が生んだ子供以外)に身を任せ前夫との子供を育て上げるなが遊牧民の風習です。

『集史』・トルイ・ハン紀ではソルクタニ・ベキを「王国の4つの支柱として立ったジンギスハーンの4人の息子のような、彼(トルイ)の尊厳ある4人の息子の母」と称しています。

ジュチ一党1-1

クビライ・ハーンへの反逆

カイドゥの属するオゴデイ家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユク・ハーンが1248年に
亡くなると、第4代皇帝となったモンケの一門トルイ家に帝位を奪われ、

ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。

カイドゥはオゴデイの孫、五男・カシの長子。 カシの生母は有力な家柄ではなかった。

カイドゥは トルイ家一門の権勢、モンケ・ハーン(1259年8月11日に雲南方面への遠征と途上に他界)や第五代モンゴルy帝国皇帝・クビライ・ハーンに不満をもった。

1259年にモンカ・ハーンが急死しその弟・クビライとアリクブケが後継者争いの“大蒙古帝国帝位継承戦争”を始めるとアリクブケに与し、クビライに反旗を翻した。

すなわち、この帝位継承戦争の混乱の間に オゴデイ家内での権力を掌握していたカイドウは、1266年に西北モンゴルリアにいたクビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明確にした。

しかし、この内紛がアリクブケの敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求する大蒙古帝国皇帝・クビライ・ハーン(大元朝皇帝)の求めを拒否した。

クビライ・ハーンは、新当主・ムバラク・シャーを母后・オルガナが摂政として補佐するチャガタイ家の勢力を吸収して西方の諸王家を掌握することを狙い、

幼少のムバラク・シャーの叔父イェスントアの次男・バラクをチャガタイ家の本領・イリ渓谷に派遣した。

しかし、バラクはクビライ・ハーンから飽くまで共同統治、せいぜい補佐を命じられていたにもかかわらず、ムバラク・シャーが年少であるのを理由に 力ずくで当主位を奪い、後見すると称して服属させてしまった。

バラクはチャガタイ家を掠奪し、イリ方面の勢力を統合すると、隣接するカイドゥの勢力を狙い、北東方面に進出するようになった。

チャガタイ家は北西にジュチ家と領土問題を抱え、北東にオゴデイ家と事を構える事になった。

オゴデイー3-4

この状況下 かくして、バラクのチャガタイ勢力とカオドゥのオゴデイ勢力が チャガタイ家のウルス(領土)と西南で境を接するマーワラーアンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐっての争ったとなった。

このマーワラーアンナフル地方のモンゴル皇帝直轄領にはジュチ家の触手を伸ばし、侵略を繰り返していた。

1269年に至り、バクラおよび西北ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟し、マーワラーアンナフル領を両家で分割するとともに、共同してクビライ・ハーンへ反旗を翻すことを決した。

この時点で、カイドゥはクビライ・ハーンに対抗するオコデイ家の継承君主(ハン)ではなく、まして 大蒙古帝国皇帝・クビライ・ハーンに反抗する勢力の指導者ではなかった。

ジュチ一党1-3

                                                                   ______ 続く _____

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