成吉思汗・オゴデイ一党の覇権 (5)

“アルタン・ウルク/黄金の家・オゴデイ家”の正嗣が栄光

ジュチ一党1-4

バラクはイリ渓谷に入るとムバラーク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったが、自らチャガタイ・ウルスの支配を確立すると、クビライ皇帝(大元ウルス)の傀儡となることを嫌ってクビライ・ハーンに反抗した。

バラクは本来 大蒙古帝国皇帝の所領であるが、クビライ・ハーン即位前後の混乱によって帰属が曖昧になっていた中央アジアのオアシス地帯を支配下に置くため、マーワラーアンナフル(トタンスオクシアナ)に兵を送ったが、

その支配権を巡って同じくクビライ皇帝に反旗を翻していたオゴデイ家のカイドゥと対立することになった。

1269年の春になって バラクとカイドゥは お互いに漁夫の利をもくろむ、ジュチ家の存在に気づき、 結局 バラクとカイドゥは 和議を結びんだ。

ジュチ家の当主・モンケ・テムルを交えて三者で“タラス川の河畔の会盟”を行い、チャガタイ家がマーワラーアンナフル(トタンスオクシアナ)地方の3分の2を領有し、残りをオゴデイ家とジュチ家が分割することを約した。

特にジュチ家・モンケ・テルンムらジュチ・ウルスの王族たちは、モンケ・ハーン没後の後継者争いにはクビライ、アリクブケ両陣営に対して基本的に中立的立場をとったが、

このタラス会盟も バクラがチャガタイ家の当主位を奪ったことに警戒して、マーワラーアンナフルおけるジュチ家の食邑の保持と、ジュチ・ウルス東部境域の安定化を狙う意味合いが強かった。

カイドゥやバラクにしても それぞれ中央アジアにおけるオゴデイ家、チャガタイ家の権益の確保に腐心し、クビライ皇帝に抗する連合が必要だった。

南方にはマムクール朝と対峙するも 親クビライのイルハン朝が存在する。

 オゴデイー5-1.jpg

バラクは、タラス会盟で なおも所領を欲し、三者はホラーサーン方面へ遠征してその不足分を補う事を約した。

これは オゴデイ家・ジュチ家の両家との同盟を後ろ盾とし 皇帝・クブラインの甥であるイルハン朝第二代当主・アバカの支配地域であるホラーサーン地方を奪取するためであり、バラクを先陣に アム川を渡った。

この遠征軍に参加したチャガタイ、オゴデイ家の王族たちは、前チャガタイ家当主・ムバーラク・シャーや、バカクの後に当主となるニグベイ、

オゴデイ家からは グユク・カカンの孫のチャバトや甥のキプチャクなどがいた。

しかし、アム川を渡った前後に、遠征に参加していたオゴデイ家の王族・キプチャクとチャバトが、軍中で バラクの家臣と口論のすえ離反し、カイドゥのもとへ帰還してしまう事件が起きた。

バラクの遠征軍はなおも進撃してニーシャーブールを劫略するなど ホラーサーン東部を略奪していった。

西方のマルク-ト朝にシリア領内を侵略されている中、アバカ・ハンはバラク軍を撃退することを決定、1270年4月 アゼルバイジャンを出発した。

途中軍勢を整えながらハラーサーン方面へと進軍を開始した。 途中、アバカ・ハンは一度捕らえた間諜をわざと離すことで、バラク軍に対し罠を張った。

急いでバラクの下に戻った間諜は、アバカ軍が進軍はしてきたものの バラカ軍を恐れて退却を始めたと報告した。

アバカ・ハンがわざと放棄した天幕や食料が発見されたことで、元々あまりの大軍に浮かれていたバラカ軍の首脳部は、アバカ軍の解体をあっさりと信じた。

会戦を覚悟していた将兵の緊張は緩み、酒宴をするなど すっかり油断した状態で進軍が続けられた。

オゴデイー5-2

一方、アバカ・ハンは カラ・スゥ川の流れる平原を戦場に決め、バラク軍を待ち構える。 突如出現したアバカ軍に、バラクはさすがに動揺したが、 かろうじて隊列を整えて戦いに挑みんだ。

モンゴル帝国史上屈指の規模の会戦が始まった。 が、

ヘラート近郊の“カラ・スゥ平原の戦い”で、イラン各地の諸軍を率いたイルハン朝当主・アバカの智謀の迎撃にあって バラクは大敗を記した。

この敗北によって、タラス会盟は空文化した。

ジュチ・ウルスのモンケ・テムルはアバカの勝利を祝して多数の贈答品を送り、イルハン朝との積年の遺恨を水に流すべく友好関係の修復を図った。

一方でバラクの支配下の諸部族、王族たちが バラクから離反したうえ、カイドゥ陣営に与力した。

カイドゥ(オゴタイ家)とバラク(チャガタイ家)との対立が再燃した。 バラクの即位と圧政を不服とする王族たちは カイドゥのもとに投降した。

カイドゥは 和解と称して大軍をもって バラクの幕営に進んだが、バラクはカイドゥとの会談を控えた前夜に営中で急死した。 彼の死はカイドゥによる謀殺・毒殺であろうと言われている。

バラクの死後、遠征軍に参加していたムバーラク・シャーがカイドゥに帰順するなど、チャガタイ家では利害を異にする王族同士の内紛が起こり、およそ三派に分裂した。

カイドゥ、アバカの介入によってチャガタイ家の領土が荒廃した末に、 結局 1282年になって、

カイドゥと和解したバラクの遺児・ドゥアが カイドゥによって当主に任命されることになり、1301年にカイドゥが死ぬまでチャガタイ家のウルスは カイドゥ・ウルス(オゴデイ家)の支配下に置かれた。

【 アバカ・ハンの事跡は 前章“フレグ一党”をご参照下さい 】

オゴデイー5-3

1287年、ジンギスハーンの弟テムガ・オッチギンの子孫でモンゴリア東部を支配する元の貴族・ナヤンが クビライ皇帝の日本遠征政策に不満をもって、カチウン家、ジュチ・カサル家など他の東方三王家を率いて反乱を起こした。

1287年春には、ナヤンは オゴデイ・ハン国のカイドゥと通じ、同じ東方三王家のカダアン(カチウン家当主)やシクドゥル(ジュチ・カサル家当主)らと手を組んで反乱を準備していた。

ナヤンの祖父・父はモンケ・ハーン、クビライ・ハーンに仕えた有力重臣であった。 彼もクビライ皇帝に仕え知ていた。 失敗を省みず、二次・三次と日本遠征を企てる政策に不満であった。

ナヤンはキリスト教徒で、反乱のときも軍旗に十字架を掲げ、先陣を切って進撃した。 カイドゥとの挟撃が 唯一の望みであった。

カイドゥは、直ちに この反乱の狼煙に呼応し、西のジュンガリアからモンゴリアに侵攻した。

バヤンは モンゴルの名族出身である。 曾祖父の代にジンギスハーンに仕えて 東部の千人隊長となったモンゴル貴族で、父・シャオクタイが 1253年に始ったフレグの西方遠征に参加した。

バヤンも父と共ににフレグ軍に従い、戦功を立て 若くして建設されたイルハン朝の将軍となった。

その後、1264年に使者としてイルハン朝から中国・元朝に使者として立った折、バヤンを接見したクビライ皇帝は、その容貌がすばらしく才幹に優れていることを知り、そのまま引きとめて自身の部下とした。

1274年、前年に南宋の北方の守りの拠点として長らく抵抗を続けてきた襄陽の呂文煥が降伏したのをきっかけに、南宋本土への大規模な侵攻が組織されると、

バヤンは南宋討伐の総司令官を任ぜらた。 荊湖行省を任せられて河南地方一帯の政軍の全権を委ねられた。

バヤンは自ら中軍を率い、襄陽から漢水に沿って南下を続け、漢口(武漢)で長江に至ったている。

元軍はここで南宋の艦隊と対峙して渡河を阻まれたが、3000人の騎兵を上流からひそかに渡河させ、挟撃を恐れて浮き足だった南宋の艦隊を敗走させた。

以降、快進撃を続け、ほとんど手間取ることなく長江を渡り、さらに呂文煥を説得の使者に送り出して、この地点の南岸に位置する都市、鄂州(武昌)を降伏させた。

バヤンは出撃に先立って、クビライ皇帝からむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう指示されていた。

このため、いずれの戦いでも降伏した者を寛大に扱い、抵抗を諦めても降伏を潔しとせずに自殺した者がいれば丁重に葬った。

このためもあって、南宋の諸軍は圧倒的な勢いの元軍に抵抗する意欲を失い、長江に沿って南宋の首都臨安に向かって進むバヤン軍に降伏していった。

1275年、宋の宰相賈似道は、歳幣(毎年の貢納)を条件に、元に占領された領土の返還を要求したが、バヤン将軍は拒否した。

賈似道は13万の兵をもって出撃したが、戦意を失っていた宋軍は元軍の騎兵の突撃と砲撃によってたちまち崩壊し、南宋の最後の抵抗もあっけなく壊滅した。

こうして、バヤン将軍は、ほとんど損害を受けることなく豊かな南宋の領土を元に併合することに成功し、クビライ皇帝の期待に応えた。

この英断なバヤン将軍がカイドゥの反乱軍に立ち塞がった。

オゴデイー5-4
南宋討伐から帰還したばかりのバヤン率いる精鋭を クビライ皇帝はカラコルムに送り込んだ。 バヤン将軍をカラコルムの総督任命し、全権を授けた。

バヤン将軍は皇帝の期待に 再び十二分に答えた。 まず、1282年に 中央アジアで反乱軍の盟主と自称するシリギの軍を破って、逆にモンゴル高原の大半を元の勢力圏に取り戻す戦果を挙げた。

さらに、アルタイ山脈・ジュンガリアにまで勢力を広げたカイドゥを牽制するため、モンゴル高原での駐屯を続け、諸侯の動向を監視していた。

【 シリギの反乱 ;1275年 カイドゥとジュチ家が賛同せずカラコルム近隣で自立していた、               カイドゥはシリギ反乱軍の東方移動で勢力を拡大した 】

蜂起したナヤン軍のは バヤン率いる元のモンゴル駐留軍に阻まれた。 また、クビライ皇帝が親征に出で敗死させたられている。

1287年の暮れ 皇帝自らの親征だったため元軍の士気は高く、ナヤンはわずか1日で敗れて逃走を図るも捕えられた後、クビライ皇帝の命令で 2枚の毛布に包まれた上で、激しく振り回される方法で処刑されたという。

他方、1289年にはハンガイ山脈を越えて中央モンゴリアに入ったカイドゥは、モンゴリア方面の領主・晋王カマラの軍を破り、更に 東進する。 この方面の戦線は次第に元側が劣勢になってきた。

そのため、クビライの宮廷の中に、バヤン将軍の軍事行動に不満を持つものや、カイドゥとの内通を疑うものも現れた。

そこで1293年、クビライ皇帝は 皇帝直属の精鋭を付属させた皇太孫・テルム(皇太子チンキムの子)をモンゴリア駐屯軍の指揮官に据えてカイドゥにあたらせることにし、バヤン将軍を召還した。

帰朝したバヤン将軍に対して、皇帝・クビライは厚くこれを待遇し、彼を公に褒め称え、首席の宰相に任命しているのです。

ちなみに バヤンは クビライ皇帝が崩御の後 帝位継承者として宣言されていたテルムに対し 長兄・カマラを推す声があり、諸王侯の間で一時紛糾した。

その際、先帝から一身上の尊敬を受け、総司令官の高位にあり、来会者の中で最も勢力のあったバヤン将軍が 剣を握って立ち、

「先帝が指名していた皇子以外のいかなる人をも即位させるわけにはまいらぬ」と語調を強めて宣言し、論争を終止させている。

バヤンは 1295年1月に59歳で急逝した。 彼の死は、あまねく中国人にも蒙古人にも惜しまれたと伝えられる。

1294年にクビライ皇帝が病没し、テルムが大ハーン位(蒙古帝国)・皇帝位(元朝)を継ぐと、元の政権安定を見てカイドゥの許から元に投降する者が続出し始めた。

カイドゥはこれを食い止め、決戦に臨むため、1300年に中央アジアの諸勢力の総力を挙げて出征したが、

1301年のカラコルムの戦い、タミールの戦いのいずれにも元軍の迎撃の前に大敗し、その時の戦いで負った戦傷がもとでまもなく死亡した。

カイドゥの死後、以前にチャガタイ家にカイドゥが据えていた傀儡当主のドゥアが中央アジアの最高実力者にのし上がり、1306年にカイドゥの遺児・チャバルを追ってオゴデイ家を併合する。

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____ 続く _____

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