成吉思汗・トルイ一党の覇権 (1) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

ボルテ・ウジン

   ※「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称です
トルイー1-1

ボルテは、カブル・カン以来 モンゴル部族の姻族として知られたデイ・セチュエン部族の一氏族の首長デイ・セチュエンの娘で、チンギス・ハーンより1歳年上だったから 姉さん女房です。

父デイ・セチュエンの姓はボスカウル氏であったといい、コンギラト部族本家から分岐した一族と思われる部族長の娘であった。

チンギス・ハーンが名を成した後、チンギスが属するボルジギン氏は最高に家柄となり、彼女の部族はチンギスの姻族・駙馬(フマ)家筆頭 “コンギラト駙馬家”として蒙古高原で第一等の家柄になる。

ボルテがテムジン(後のチンギス・ハーン)に嫁いであまり経たない頃、高原北部の有力部族メルキトの首長・トクトア・ベキが傘下のウアス、カアトの各氏族の首長たちと軍を引連れてテムジンの幕営を襲った。

ボルテは逃げ遅れて メルキトに抑留された。

まだ勢力の弱小だったテムジンの保護者であったテムジンの父・イェスゲイの盟友、ケレイト部の王であるワン・ハンはメルキトに圧力をかけ、ボルテの身柄を メルキトから自領のケレイトに引き取った。

ケレイトに移され後、ボルテはテムジンのもとに無事送り返された。

この旅路の最中にボルテはテムジンの長男を生み、「旅客」を意味する“ジュチ”という名前を テムジンは長男に授けた。

この話しは 小説などでは脚色され、『元朝秘史』ではより劇的に史実を小説化しているようです。

このときテムジンはオン・ハンおよび アンダ(血盟の契りを交わした肉親以上の関係)のジャムカの支援を受けて メルキトを破り、武力でボルテを救い出したという話になっています。

一方、『集史』ジュチ・ハン紀によると、ボルテがメルキトの手勢に連行された時、既に彼女は妊娠した状態だった記載しています。

結婚生活が浅い折での事件。 テムジンは未だ弱小であり、父親・イェスゲイのアンダであるケレイト王・オン・ハンがメルキト側と交渉して ボルテを取り戻した経緯が史実でしょう。

オン・ハンは テムジンを自らの「息子」と称して尊重していたため、彼女を鄭重に保護してテムジンのもとへ送り戻したはずです。

その旅中でボルテはにわかに産気づいて男児を出産した。 そのため、この男児は旅中で生まれたため「ジュチ」と名付けられた。

しかし、ジュチが成長すると共に出生の疑惑に悩み 早い時期から 正嗣の資格を自棄するであろう「旅客」という名前、

また 生まれてくる出あろう次弟達との不仲な関係を生むであろう事などの心配は、テムジンには無かったのでしょうか。 ボルテはテムジンの子であることは当然の自覚と自信があつたはずですが・・・・。

尚、後年に テムジンはケレイト王・オン・ハンと対立し、勝利します。 逃亡したオン・ハンは落ちぶれ果て、彷徨います。 ボルテとテムジンはオン・ハンを手厚く保護している。

もともと、ボルテがメルキトに襲われる原因は テムジンの父親・イェスゲイ・バアトルが作っていた。

トルイー1-2

 イェスゲイはモンゴル部族の首長層を輩出したボルジギン氏の一員として勇者であった。

 キヤト氏族の祖カブル・ハーンの次男であるバルタン・バアトルの三男に生まれた。

彼の勇敢さを示す逸話は枚挙に暇が無い。 妻・ホエルンをメルキト部族から略奪して娶った物語など蒙古高原では知らぬ者がいなかった。

12世紀の第2四半期頃、カブル・ハーンが死ぬと タイチュウト氏のアンバガイがハーンに即位し、その死後にはバルタン・バアトルの弟であるイェスゲイの叔父・クトラがハーンに即位した。

アンバガイ・ハーンはタタル部族(金帝国に飼いならされて、遊牧民を強奪して褒賞をもらっていた)の謀略により中国の金に引き渡されて殺害された。

イェスゲイの叔父・クトラ・ハーンは、その復讐のためアンバガイ・ハーンの遺児たちが率いるタイチュウトと協力してタタルと戦争を繰り返した。

クトラ・ハーンの傘下にあるキヤト氏の首長であったイェスゲイはこの戦争に加わってタタルと戦い、有力な指導者として頭角をあらわし、敵のタタルはもとより モンゴル高原 また 金帝国でも知られていた。

クルチャクス・ブレルク・ハンの後を継いだケレイト王国の王・トグリル(後、金帝国からの爵位・オン・ハンを名乗る)が親族間の内紛に敗れ、放逐されて 王国から東方へ逃れてきた。

テムジンの父・イェスゲイはトグリル王を匿い、「アンダ(盟友)」の関係を結んで同盟すると トリグル王に全面的なる援助お差し延べ、まず 彼の兄をケレイト領外へと放逐した。

ケレイト王国の王になっていたトグリルの弟・グル・ハンの軍を撃破し、トグリルの復位をさせている。

後年、トグリルは再び内紛に敗れてケレイト王国を放逐されたが、この時 イェスゲイはすでに歿し、替わりにその嫡子・テムジンがオン・ハン(トグリル)を匿っている。

蛇足ですが・・・・・後年の事、袂を分かったテムジンのアンダ・ジャムカが ケレイト王家の内紛を策謀したのです。 以降 この二人は蒙古高原の覇権を巡り生涯の宿敵になります。

蒙古高原の各氏部族が二っに 分かれ、テムジン陣営とジャムカ陣営で決戦を繰り広げる。 ジャムカの智謀にテムジンの勇知が勝利する。

草原の覇者としてチンギス・ハーンの名を与えられたテムジンが 氏部族長の推戴を受けたのは1206年、テムジン44歳の時です。

テムジンがアンダのジャムカと袂を分ける切っ掛けは、愛妻ボルテの直感による助言と言い出せば後に引かぬ行動力になのですが・・・・

トルイー1-3

 『元朝秘史』に載る有名な逸話である。

 有力な部族連合の盟主・メルキトの王トクトア・ベキの弟・イェケ・チェレンが、キヤト氏族と婚姻関係が強かったモンゴル部族の一派コンギラト部族のオルクヌウト氏族の娘・ホエルンとの婚儀を計画していた。

しかし、キヤト氏族のバルタン・バアトル(テムジンの祖父)の世嗣であった、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バアトル、ダリタイ・オッチンギンの兄弟たちは、

イェケ・チェレンの嫁入り行列がメルキトの本拠地に帰還する旅中を襲撃し 花嫁・ホエルンを奪取、このメルキトの政略結婚に伴なう勢力拡大計画を頓挫させた。

この作戦の成功の後、未婚であったイェスゲイは 美人のホエルンを娶る事になった。

このリベンジが テムジンの愛妻・ボルテ・ウジンに降り掛かった災難だった。

ある年、イェスゲイ・バアトルはタタル部族と戦い、タタルの首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカを捕虜として本拠地に連れ帰った。

このとき身重であった妻ホエルンがイェスゲイの長男となる男子を出生したため、戦勝を記念して、子供にテムジンの名を与えた。

≪ その年は『集史』によれば1155年、『元史』によれば1162年です。 尚、名前のタイシは「太子」、バートルは「勇者」、オッチンギンは「末子」の意味です ≫

その後、イェスゲイ・バアトルはホエルンとの間に、カサル、カチウン、テムゲ、他に女子を5人儲け、別の妻との間にベルグテイと4人の正嗣子を儲けた。 が、

長男のテムジンもまだ幼い頃(テムジン、9歳の時)、若くして急死した。

『元朝秘史』によれば、テムジンとコンギラト部族のボルテの婚約を決めた帰り道に、道中で行き逢ったタタル部族の者に毒殺された。

婚約交渉には、テムジンも父に同行していた。 父は帰郷し テムジンは首長デイ・セチュエン(岳父)が支配するデイ・セチュエン部族の幕舎に留まっていた。

父の殺害事件を知ると テムジンは 家長として 婚約解消を申し出るがボルテが それを拒否している。 ボルテは10歳です。

後獏者のイェスゲイ・の死によって、その配下の遊牧民集団は分裂、瓦解した。 その後のテムジンはきわめて微小な勢力から出発しなければならなかった。

母親のホエルンは 従者も去り、幼子を抱え また 必要に追うメルキトから身を隠し 草の根を掘り起こしてテムジンや側室の子供までも養っていく。

ジュチ一党1-5

 幾多の作家が テムジンの幼少時代、母・ホエルンの苦闘 メルキトの圧迫を書き また映画・劇画等でご存知でしょう。

 ただ、ひもじさから テムジンの幼い弟達が第二夫人・ムルタンの子供達に苛められる。

テムジンは第二夫人の仕打ちにも我慢できずに 彼女の長子を、義理の弟ではあるが 矢で射殺す。 母・ホエルンはテムジンを激しく叱咤し 家長が取るべき道を教え込んでいくのです。

夫・イェスゲイ・バアトルの家産の管理権を握ったものの、配下の遊牧民がほとんど去ってしまい、非常に苦しい状況に立たされたホエルン。

しかし、そんな中で ホエルンはイェスゲイ・バアトルの遺児たち テムジン、カサル、カチウン、テムゲ、妾妻の子ベルグテイ、ベルグタイを育て上げ、家族を支えた。

ホエルンとテムジンは苦難の末に 四散した父の配下を一人ひとり呼び戻していった。 その努力をボルテの父親・首長デイ・セチュエンは見守っていた。

母・ホエルンの勧めでテムジンはボルテを迎えにいった。 首長デイ・セチュエンはボルテの持参金として草原に二っとない白貂の毛皮に羊・馬 更には 配下まで連れて行かせた。

テムジン兄弟を中心に テムジン一党が形成されていった。 その中心にはホエルンがいた。 ホエルンはイェスゲイ・バアトルの領地を守り抜いていた。

また 取り戻した愛妻のボルテはテムジンと共に領地保全に 外敵の侵入に いつも移動する生活を送っていた。

テムジンは ジャンダラン部族のジャムカと同盟 アンダの関係を一層深めていたある日、ジャムカの一統とテムジンの一門が同じ宿営地に滞在し 酒宴を張ろうとした。

ボルテは テムジンに語ったジュムカの発言に、彼の変心と背離を読み取り、ジャムカを危険視して彼を避けるようテムジンを説得した。

テムジンはボルテの言葉を疑い 酒宴の準備に入った。 ボルテは素早く、一門の若者に撤収を命じ 自らジャムカを無視して 宿営地を引き払い 丘を越えていった。

テムジンも その後を追い、丘を超え かなり離れた森の中を宿営地とした。

その夜にジャムカが差し向けた一派が宿営地を急襲したが森の中での騎馬は動きが鈍く、テムジンは事なきを得ている。 これ以降 ジャムカとテムジンの戦いが 宿命の戦いへと拡大していく。

母・ホエルンは部族のシャーマン統括者と再婚し、また ボルテと共に 戦いで孤児となった幼児を敵味方無くの境無く 引き取り養育している。 これらの孤児からチンギス・カーンの諸将が生まれるのです。

ボルテ・ウジンは その後、ジュチの3人の弟チャガタイ、オゴデイ、トルイと5人の女子を生み 男子はチンギス・カーンの後継者候補としてその征服事業を助けて活躍できる教育を行い、また 孤児から彼らの取り巻き武将にするべく養育している。

また、5人の女子はいずれも夫と同盟した有力な部族の長のもとに嫁がせ、チンギス・ハーンの事業を支えている。

ジュチ一党1-6

 チンギス・カーンが勢力を拡大すると やがて様々な部族から迎えられた36名の后妃(側室不詳)が夫・チンギスの身の回りに集まるのですが、

 ボルテ・ウジンは正妻、第一皇后としての地位を保って 彼女達のオルド(宮廷)を見事に差配し、各妃からも 尊重されている。

チンギスの後継者候補として認められたのは ボルテの生んだ4人の男子のみであったことからも、ボルテ・ウジンが他の后妃とは別格の扱いであったことがうかがえる。

チンギスが高原を統一して 大モンゴル帝国を興すと、チンギス・カーン直営の宮殿である四大オルドのうちの第一オルド(別名大オルド)の管理権を委ねられ、

大オルドに付随する領民を治めてチンギス・カーンの盛んな遠征の留守を守り、他のオルドおも統括している。

彼女はチンギスの本営であるの首長として『元史』によれば自らを含め7人の皇后(カトン)と1人の妃(エメ)を司ったと明記されている。

_____  続く ____

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