成吉思汗・トルイ一党の覇権 (2) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

ドレゲネ

Triglav Sunset

ドレゲネ( ? – 1246年)

ドレゲネは再婚した。 チンギス・カーンの第2皇后であったクラン・ハトゥンの父、ウハズ・メルキト族の族長ダイル・ウスンの妃であった。

チンギス・カーンのメルキト討伐によって、前夫・ダイル・ウスンは戦没死し 彼女は捕らえられた。 チンギス・カーンは戦功著しいオゴデイに与え、オゴデイはドレゲネを第六夫人にした。

オゴデイにはジュチとチャガタイという2人の有能な兄がいた。 ジュチの出生疑惑を事あるごとに言い立て 兄・ジュチを貶めるチャガタイ 知略に富むが寡黙なジュチ、二人は不和であった。

チャガタイは気性が激しすぎるころとで、チンギス・カーンや帝国の諸将からは後継者として不適格と見なされていた。

オゴデイは温厚で、一族の和を良く纏める人物であったため、父から後継者として指名された。 長兄・ジュチはアルタイ山脈の西方に牧草地(封土・ウルス)を与えられ、自立していた。

1227年の父・大ハーンの死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟・トルイ(末子)を後継者に求める声があった。

トルイは自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かった。

父・チンギスの創建時代の多数の武勲、人望、指導力・気配りなど 彼を推す声っは当然であったが、トルイはこれを固辞し あくまで父の指名に従うと表明した。

1229年9月13日のクリルタイ(王族・貴族、部族長の最高議決会議)でオゴデイはチャガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなった。

夫のオゴデイは自分の後継者を指名することなく、1241年12月に過度の酒色が祟って死去してしまう。

オゴデイ皇帝は、生前 三男でコンギラト部族の出身であった第1皇后ボラクチン・ハトゥンとの子であるクチュを後継者に指名していたが、

1236年11月に皇太子・クチュは南宋遠征中、徳安府(河北省安陸付近)の戦線で陣没した。

オゴデイ皇帝は、クチュの長子であったシムレンを身のそばに置き 孫を溺愛し、改めて後継者にシムレンを推していた。

しかし、ドレゲネ皇后はオゴデイ皇帝の死後、自分の息子・グユクを大ハーン(モンゴル皇帝)にしようと狂奔しだした。

オゴデイー4-

夫・オゴデイの死に前後して筆頭皇后ボラクチン・ハトゥンをはじめ、第二皇后キュルゲネ(チンギスの元皇后)などの主だった皇后が相次いで没していた。

本来 長子・グユク皇子の母后であること以上には 権力を持っていなかった第6皇后ドレゲネだが オゴデイ・カーンの皇后としては最年長であった事もあって、

突如として大ハーン没後のモンゴル帝国における摂政・監国として帝国を総攬することとなった。

しかし、摂政監国のドレゲネには トルイ家やジュチ家はもちろんのこと、オゴデイ家内部でも後援する勢力が絶無く、頼みのオゴデイ皇帝後見人・チャガタイは亡き人であった。

更に、息子・グユクは モンゴル帝国の総力を挙げるヨーロッパ遠征に参軍していた。 ヨーロッパ遠征軍の総指揮官はジュチ家の家督を継いだバトゥであり、

グユクは 従軍中にバトゥと諍いを起こしてしまい、父・オゴデイ・カーンの逆鱗に触れた。 尋問会議に召還されていた。 大カーンの崩御のこの時、帰還の道中であった。

オゴデイ・カーンが没した直後に、チンギス・ハーンの末弟であるテムゲ・オッチギンが帝都・カラコルムに上京して帝位を狙う構えを見せたが、摂政監国・ドレゲネはこれを叛乱に当たると非難して牽制した。

ほどなく、長子・グユクが西方からオゴデイ家の封土があった中央アジアのイミル湖畔に到着したとの知らせが有り、テムゲ・オッチギンは オゴデイ皇帝の弔問に訪れたのだと弁明したため、ドレゲネは他勢力によるカラコルム制圧を回避できた。

ドレゲネはまず、夫に重用されていた功臣の耶律楚材チンカイヤラウチらを政治の場から遠ざけて、

オゴデイの治世晩年に中国地域の歳入監査で頭角を表したイスラム商人のアブドゥッラフマーン(ドレゲネの愛人)を重用し、帝国の財政運営を彼に委ねた。

アブドゥッラフマーンは民衆に重税を課し 私腹を肥やし、耶律楚材やヤラウチの善政を覆していくが、モンゴル帝国の摂政監国・ドレゲネの経済的基盤は強固になった。

【 アブドゥッラフマーン(? – 1246年); 監国として実権を握ったドレゲネの後ろ盾を得て、

耶律楚材(チンギスの最高参謀)、チンカイ(軍事行政官僚)、ヤラウチ(経済官僚)ら父・大ハーンから引き継いだオゴデイ時代の官人を失脚させ、事実上の最高権力者として権勢を振るった。

しかし、あまりに専制・横暴を極めたためにその施策は不人気であった。

1246年にドレゲネが死去すると、彼女と共に自らが擁立したグユク皇帝によって罷免された後、死刑に処された。

アフマド・ファナーカティーとともに『元史・奸臣伝』が連記するほど悪評の人物として名高く、1239年の功績も実際は漢人に対する極度な搾取が要因だったとされている。

また、ドレゲネの信任を良いことに平気で法を破ったり、酒毒で酒を控えていたオゴデイ皇帝に葡萄酒を勧めて死期を早めたというエピソードも 挿入されている 】

ドレゲネは アブドゥッラフマーンと共に また 自身の監国としての立場から、帝国の実権を掌握した。

夫・オゴデイ皇帝によって後継者に指名されていたはずのシムレン皇太子を、成人に達していないという理由で後継候補から除外させた。

そして、オゴデイ家の年長者であるという理由で自らの実子であるグユクを後継者に推した。

西方の遠征諸軍を率いていたバトゥは、これに反対して ドレゲネのクリルタイ召集に応じず、以後約5年間モンゴル帝国は大ハーン(皇帝)位が空位のまま   ドレゲネの監国時代が続いた。

トルイー2-2

【 テルゲ・オッチギン( ? – 1246年); チンギス・カーンの末弟、モンゴル帝国の皇族。 他の同  母兄にはジュチ・カサルとカチウンがいる。 チンギス・カーンより6歳年下とされる。

オッチギンとは「炉の番人」の意、テルゲが母ホエルンの家産を相続する末子であったことから呼ばれた。 蒙古族では末子を呼ぶ尊称。

武勇が無かったために戦場における功績は無かったが、政治能力に優れていたため、行政面において兄から重用された。

兄のテムジンがナイマン族の討伐をためらっていたとき、これを討伐するように強硬に進言 し、ナイマン征圧でテムジンはチンギス・カーンとして推戴された。

モンゴル統一後、チンギスのもとで神巫を務めていたテブ・テングリ(母・ホエルンの再婚相手、義父)が専横を極めると、兄の許しを得て義父を殺害している。

その後、チンギス・カーンの金遠征や大西征では、本国の留守居役を任されている。

オゴデイ・カーンの時代には 一族の最長老として重用され、

1233年の金討伐では、金の首都・開封の攻略で功を挙げている。 1241年、オゴデイが病死すると、自身がチンギスの弟に当たること、オゴデイが生前に明確な後継者を指名していなかったことなどの諸々の理由から、

軍を動かして自ら第3代の大ハーンに即位することを画策したが、監国・ドレゲネに反対されて失敗した。 そして1246年のグユク即位後、間もなく病のために死去している 】

チャガタイー3-2-5

ゴレゲネの工作によって、結局1246年6月にクリルタイが招集された。

ソルクタニ・ベキ(トルイの正妃)を筆頭としてトルイ家からはモンケなどその息子たち、東方諸王家の統括者テルゲ・オッチギンとその一族、

チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダル、イェスン・トアらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功している。 長子・グユクが第三モンゴル皇帝に即位した。

1246年8月24日 オリオト河の湖畔であった。 その即位式には

帝国内部からは旧金朝領である華北に派遣されていたノヤン将軍や官僚たちと在地漢人勢力の代表者たち、 パミール高原西部のマーワラーアンナフル総督、イラン・ホラーサーン総督、彼らに随行してきたカフカス南部境域、

アゼルバイジャン地方からイタクに至るまでのモンゴル支配地域とその周辺の有力勢力や王族たち、その使節が参加している。

更には、ルーム・セルジューク朝のスルタン=カイカーウース2世の弟、ウラジミール大公国・ヤロスラフ2世、グルジア王国のダヴィド兄弟、

十字軍撃退の英雄・サラーフィッディーンの曾孫でアイユーブ朝の君主ナースィル・サラーゥッディーン・ユースフの弟君、モースルの君主バドルッディーン・ルウルウの使者がおり、またヨーロッパからはローマ教皇インノケンテイウス4世の使節、

ケルマーン地方のカラキタイ朝の王族クトブッディーン、ケルマーン地方・サルグル朝の君主アブー・バクル・ブン・サアドの使節が参加していた。

その他、アッバース朝の大カーディー・ファフルッディーン、ニザール派教主アラーウッディーン・ムハンマド3世の使者がそれぞれ 参列している。

≪ 私の手元に、ローマ教皇インノケンテイウス4世が派遣したジュヴァンニ修道士の『われらがタルタル人と呼ぶモンゴル人の歴史』紀行著作があります。 驚くべき旅行記、

それにしても モンゴル帝国の権勢は ものすごいですね ≫

ジュチ・ウルスも結局 バトゥは体調不良を口実に欠席したが、モンゴル本土に派遣していた、異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、ベルケチェル、タングト、トカ・テルム等々 ジュチ家の主要王族たちとそれに随行する将軍(ノヤン)たちを出席させている。

総じて、グユク推戴のクリルタイは、モンゴル帝国最大の勢力を誇っていたバトゥ自身の参加は欠いていたものの、

ドレゲネの工作によって帝国各地や周辺の主だった勢力を参加させることが出来たため、モンゴル皇帝選出という大業に見合った大規模なものにすることに成功したといえるでしょう。

しかし、ドレゲネは当初の目的通り、1246年8月、息子のグユクを大ハーン(皇帝)に即けることに成功したが、息子の即位に安心したかのように、2ヵ月後の1246年10月、病のために没してしまった。

ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケ(トルイ家長子)など、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になってしまった。

第三代蒙古帝国皇帝・グユクは、即位後の10月、母・ドレゲネが病死すると、自ら親政を開始した。 父オゴデイ皇帝の死から5年が経過していた。

グユクは母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑し、父時代の功臣であるヤラワチ、チカウン、等を復位した。

そして、自身の即位を支持するチャガタイ家のイェス・モンケ(五男)を当主カラ・フレグを廃してチャガタイ家の第3代当主に任命するなど内政を建て直し 彼らを重用した。

軍事面では南宋・イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めている。

そして 自らもヨーロッパ遠征再開のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。

しかし グユク皇帝は1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面(ウルムチ市北郊)で急死した。 享年43歳。

トルイー2-1

この死は、かねてからの過度の酒色で健康を害したための病死といわれている。

しかし トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、姉であるオキ・フジン(バトゥの生母)を通じてバトゥに警戒するよう知らせていた。

この史実の記録から、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説があります。

グユク皇帝の死後、その皇后であったオルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちは オルガミシュの招請を拒否し、

約4年の間 モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治は 再び 混乱する事となった

_____ 続く _____

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