成吉思汗・トルイ一党の覇権 (4)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

オルガミッシュ

トルイー4-1

1248年新春、慶賀の祭事を終えたモンゴル帝国皇帝・グユク・ハーンは帝都カラコルムを離れ、西に進軍した。  天山山脈北麓で帝国内の諸王族を結集させ、

ジュチ・ウルス(バトゥ領地)を貫き オロス(モスクワ諸公国)を蹂躙 ウィーンに進撃する積もりの進軍であった。

と 『集史』などの史書にあり、続いて・・・

1248年4月にグユク皇帝は急死を遂げているが、ビシュバリク(ウルムチし北郊)方面にグユク・ハーンが遠征しているのを警戒するようにと 姉のソルコクタニ・ベキ(バトゥの叔母)を通じてバトゥに知らせていた。

との記述があります。 多くの歴史家は この文面より ソルコクタニ・ベキが危惧した事態を未然に摘出する意味で、バトゥが第三代モンゴル帝国皇帝・グユク・ハーンの謀殺司令を出したと考えています。

確かに遠征途上の皇帝が急に病死した と言う歴史の表現は謀殺されたと解釈すべきでしょう。 グユク・ハーンの突然の死が状況を証言しています。

オルガミッシュ

バトゥはオゴデイ家とチャガタイ家から政権を奪い、帝国で最大の勢力を誇るジュチ家とトルイ家が共同して帝国の国政再建を計画し、ソルコクタニ・ベキと連携した。 二人はグユク皇帝後の採るべき行動を密約していた。

グユク・ハーンが没した後、グユクの皇后オルガミッシュ(正嗣皇子授からなかった)が摂政となった。

オルガミッシュは次期皇帝の選出・決定という国事最高の協議・クリルタイを 後見人であるチャガタイ家のイェス・モンケと共に 開催すべく政務の最優先事項とした。

しかし、 バトゥは 再び 先手を打ちます。 ソルコクタニ・ベキやモンケ、クビライなどトルイ家の王族たちや有力諸将たちとともに  独自にクリルタイを召集、集会を開き 摂政国監・オルガミッシュはじめオゴデイ家政権の拒絶を表明した。

バトゥは このジュチ家とトルイ家が 強行に主催するクリルタイで、全会一致でモンケを次期モンゴル皇帝に指名している。

オルガミッシュ側は後継候補としてグユクの息子ホージャ・オグルを望んでおり、他のオゴデイ家やチャガタイ家の王族たちは シムレン(オゴデイ皇帝の孫、長子クチュの子、オゴデイが後継者に指名)を推していた。

しかし、シムレンやホージャ・オグルはいずれも幼少であり、バトゥらが推すモンケに比べ、モンゴル皇族や諸将の多くの支持は得られないでいた。

オルガミッシュはバトゥらの行動を非難したが、逆に当時 オノン川、ケルレン川の河源地域にあったチンギス・カーンのオルド(宮廷)で開催する2回目のクリルタイへの参加を勧められた。

グユク・ハーンによってチャガタイ家の当主になったイェス・モンケも長老・バトゥを非難したが、バトゥは広大な帝国の統治を年少者に委ねることは不可能であると書簡で論駁し、重ねてクリルタイへ出席を求めた。

ティムールー2-2

こうしてバトウ側とオルガミッシュなどそれに対抗する諸勢力は、帝国各地で支持者の獲得に奔走してさらに2年を費やしたが、

これ以上の遅滞がもたらす帝国の混乱を懸念した長老・バトゥは、トルイ家と東方三王家とも協議してオルガミッシュ側とイェツ・モンケに最後の説得を行った。

ついに体勢が不利と判断した後継候補のシムレン皇子とホジャ・オルグら自身が バトゥ主催のクリルタイに出席を表明した。

ここに至り、トルイ家当主・モンケを推すバトゥを始めとするジュチ家、トルイ家、東方三王家はクリルタイの開催を早急に準備した。

クリルタイは一月に及ぶ最高決議機関であり、諸王族・貴族、諸部族長・諸将が移動・参集する。
日夜酒宴を開き談笑、交友を深め 情報の交換を行なう。 参集指定場所には一ヵ月を要することもあったでしょう。

しかし、参加を約束したシムレン皇子とホジャ・オルグは約束の日時には指定の場所に姿を表さなかった。 また オルガミッシュ側のチャガタイ家のイェス・モンケの参加しなかった。

かくて、1251年7月1日、かねて指定されていたチンギス・カーンの大オルドのあったコデエ・アラルの地のクリルタイにおいて、モンケは全会一致をもってモンゴル帝国の第四代皇帝(カーン、ハーン、カアン)として即位した。

このときの協議事項に、後々の害になるとして、先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオルガミッシュ、さらには シムレン、イェス・モンケなど オゴデイ家やチャガタイ家への粛清 反対派の処刑が決議された。

権力闘争とは冷酷なものです。 ソルコクタニはただ頷くだけであったと史書は記す。

トルイー4-2

擁立された第四代モンゴル帝国皇帝・モンケ・ハーンは、その後 皇帝としての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタンなどに行政府を設置するとともに、

官僚のマフムード・ヤラワチ、マスウード・ベク父子を重用して財政政策に重点を置き、財政を潤わせた。

さらに次弟であるクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン・イラク方面を侵略させた。

フレグは1258年にはイスラーム世界の雄・アッバース朝を滅ぼしている。

しかし、モンケ・ハーンは有能な次弟クビライの存在を恐れて、これを一時的に更迭するなどの猜疑心を深めている。

このためもあって 南宋を早急に併合することを望むモンケ皇帝は、クビライの慎重策に不満を持ち、クビライの南宋攻略は遅れ、これに苛立った。

南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決したモンケ・ハーンは、1258年 自身の実力に恃んで軍を自ら率る親征に出立した。

ウビライをこの作戦の責任者から更迭した。

1258年初頭、自ら陝西に入って親征を開始したモンケ皇帝は、河南から四川の南宋領を転戦した。

四川方面から黄河を南下、西安・邽州・南京を目指す 南宋攻略を、帝国諸軍(クビライは北京から南下、たの一軍は雲南征圧後に南宋攻略軍に合流)に先行、突出して侵攻した。

南宋の地は河川と頑強な城郭で守られ 南宋攻略軍は 至る所で進軍に齟齬をきたしたが、モンケ皇帝軍は 翌年7月末に重慶を攻略した。

しかし、その後 合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかってモンケ・ハーンは 1259年8月11日に死去した。

≪ クビライ派による毒殺説も囁かれているのですが、それは穿った考えでしょう ≫

ソルコクタニ・ベキは1252年に他界している。

グユクの死後、ソルコクタニ・ベキはバトゥと協力してオゴデイ家の政権を否定して自らの長男・モンケを擁立し、1251年までに第4代のモンゴル皇帝として即位させた。

それを見て安心したのか、間もなく病に倒れ、1252年からモンケ・クビライ・フレグらによる遠征が始まる中で死去した。

夫・トルイが早世した後、その間に生まれた若年の息子たちを育て上げてトルイ家を盛り立て、その息子たちがいずれも王朝の王となった子息を養育する生涯であった。

『集史』は ソルコクタニ・ベキを「王国の4つの支柱として立ったチンギス・ハーンの4人の息子のような、彼(トルイ)の尊厳ある4人の息子の母」と称しています。

ソルコクタニ・ベキが世をさった四年後の1256年、モンゴル帝国の長老・バトゥが身罷った。

ジュチ一党2-4

ジュチの息子たちは総勢40人以上いたと言われている。 バトゥは彼ら兄弟を束ね、当主として その実力を遺憾なく示していた。 また

バトゥには4人の正嗣皇子たちがいた。 サルタク、トクカン、エブゲン、ウラクチである。

長子サルタクは 父・バトゥが死去したときモンケの大オルド(宮廷)にいたため、モンケ皇帝は彼にジュチ家の家督を認証したが、サルタクがジュチ・ウルスへ帰投する途中で病没してしまった。

かわりに4男で幼少の末子のウラウチに家督を継がせるよう勅が下った。

しかし ウラウチは程なく夭折し、実質的にジュチ・ウルスを統括していたバトゥの次弟・ベルケへの家督継承が勅によって認証されている。 因みに バトゥとベルケの血脈は後 数代で途絶えます。

フレグ(1218年-1265年)は、1253年、兄モンケ・ハーンの勅命により西征軍総司令に任命され、イラン方面総督であったアルグン・アカ以下アムダリア川以西の帰順諸政権を掌握し、

ニザール派、アッパース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した“フレグの西征“。

1256年にはニザール派(イスラム神秘主義、暗殺集団)教主ルクヌッディーン・フryシャーが投降、本拠地アラムート城塞が陥落。

1258年にはバグダードを征服しアッパース朝カリフ・ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた。

1260年2月にはアレッポを攻略し、同年4月にはダスマスクスを陥落さるなど、快進撃を続け次々と領土を広げる。

1259年に長兄・モンケ皇帝が没し、フレグの次兄・クビライと末弟・アリクブケが皇帝位い後継をめぐって争い“蒙古帝国皇位継承戦争”を始めた為、

フレグはカラコルムのモンゴル帝国には帰還せずに中東地域に留まり、1260年秋にイルハン朝を建国した。

この頃 ジュチ・ウルスから派遣され西征軍に従軍していた諸将・王侯があいついで謀叛・急死したため、バトゥの跡を継いだジュチ家の当主ベルケはこれを不審視し、

フレグとの間に深刻な対立を生じてしまった。 以降 数世代に及ぶ抗争を繰り返す。

1264年に後継者争いに勝ったクビライが跡を継ぐと、フレグはクビライの大ハーン(皇帝)位を支持した。

フレグは当時 アーザルバーイジャーン地方の州都であったタブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のシャーフクーフを夏営地に、現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定している。

また、アーザルバーイジャーン地方の古都であるマラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させている。

1265年2月8日にラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、ウルーミーエ湖湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。 同年4月に正嗣長子・アバカが後継者として即位している。

ティムールー2-3

クビライは、1215年にチンギス・カーンの四男トルイの三男として生まれた。 母はケレイト部族出身の正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニ・ベキとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたる。

青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。 ただ、中華文明に憧れていた。

1251年に兄モンケが大ハーンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。

1252年には自身が所領とする京兆(西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。

雲南からの帰還後は金の旧都である中都(北京)の北、南モンゴル(内蒙古自治区)中部のドロン・ノール(赤峰付近)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服の総指揮を取った。

クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。

しかし、南宋を早急に併合することを望むモンゴル帝国第四代皇帝モンケ・ハーンは、クビライの慎重策に不満を持ち、1256年に南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭した。

1258年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケ皇帝は、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死した。

南宋攻略の一翼を担い、中都(北京)方面から河南方面へ進軍していた。 他方、末弟・アリクブケは、このとき首都カラコルムにあって モンケ皇帝親征の留守を守っていた。

トルイー4-4

_____ 続く _____

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