成吉思汗・トルイ一党の覇権 (5)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

チャブイ

トルイー5-5

モンケ皇帝の急死により、モンケの年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。

三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。

アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケ皇帝の留守を守っており、兄・モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、彼がが有力な後継者候補に立った。

一方のクビライはモンケ皇帝が死んだとき長江の中流域で転戦していたので、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。

1260年、戦線から帰還したクビライは、本拠地・ドロン・ノールで クビライ支持派によるクリルタイを開き、クビライのハーン(皇帝)即位を一方的に宣言した。

アリクブカもこれに対抗してハーン(皇帝)即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人の大ハーンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。

この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦の“シトム・ノールの戦い”に勝利し、早々に中国と高原の大半を制覇した。

一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国を押さえるクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。

1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。

アリクブケ(  ?-1266年)

末子として本拠地を守る任に就くことが多かったため、戦場経験は乏しかった。

1259年に長兄・モンケ(第4代大ハーン)が死ぬと、その後継者として大ハーンに即位するが、

そのために傘下の南征軍を解体せずに保持していた次兄・クビライと、大ハーン位をめぐって争いを始める【“アリクブケの乱”/蒙古帝国皇位継承戦争】。

この争いでは、没落したオゴデイ家から独力で大勢力を構築したカイドゥや、その傘下で同盟を組むチャガタイ家を味方につけたアリクブケが当初は優位であったが、

旧金朝治下の中国を押さえ、華北農耕地帯の豊かな物資を背景としたクビライの反攻と、飢饉による自軍の壊滅など不運も重なり、1264年に降伏する。

弟ということで一命は助けられたが、わずか2年後に病死してしまった。

しかし、アリクブケの子孫であるイェスデルが1388年、北元と明との抗争の混乱下、クビライの子孫を殺害して大ハーン位を奪う事で、百年目の復讐を果たしている。

また、フレグの立てたイルハン朝において、アイクブケの次男・メリク・テムルの子孫のアルバ・ケウンがハン(君主)位に就いたことがあり、トルイ王家の血筋は逸材を多く輩出している。

トルイー5-1

クビライ皇帝は1260年に モンゴル帝国皇帝即位すると、モンゴル王朝で初めての中国風の元号を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。

アリクブケとの内紛の最中の1262年には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライ皇帝は反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。

これによりモンゴル(大元)帝国皇帝である大ハーンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。

1267年からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改めさせた。

このような一連の改革から、第五代蒙古帝国・大元帝国・クビライ・ハーン(皇帝)の改革は、モンゴル王朝の中国王朝化であり、

クビライとアリクブケの対立は、中国の文明に理解を示し中国に帝国の中心を移そうとする派と、あくまでモンゴル高原を中心と考える守旧派の対立だったと考えられます。

しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。

政治の中枢・中書省の高官は クビライの第二夫人チャブイの甥にあたるアルトンらモンゴル貴族の支配下にあり、また 所領の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。

チャブイ皇后の権勢がクビライ政権を左右した。

クビライ・ハーンはモンケ皇帝の時代に青海・西蔵地方に遠征、この地方を征圧していた。 青海地方で民衆を支えていたチベット仏教の座主がグビライに協力したことがあった。 クビライは宗教の政治力を知った。

クビライ皇帝は即位後、チベット仏教の僧・バクバを国師として招聘し、仏教を管理させている。

バクバ (1235年3月6日 – 1280年11月22日)は、チベットのサキャ派の座主。 その名は「聖者(パスパ)」とも呼ばれた。

1260年に元の帝師に任じられ、クビライ配下の文化・宗教顧問として活躍した。

バクバ国師は皇帝からモンゴル語と漢語の表記を一本化する公用語の制定を命じられて1269年、チベット文字を基礎としたパスパ文字(現代のモンゴル文字の母体)を作り上げた。

彼の文化的な貢献は、元王朝の全盛期を築く礎の一つになったばかりではなく、ラマ教のその後における隆盛を築き上げることとなった。

トルイー5-2

チャブイ( ? – 1281年)は、モンゴル(大元)帝国の世祖クビライにと嫁いでいる。 第二位の皇后として。 第一皇后・帖古倫大皇后には皇子が授からなかった。

チャブイは名族コンギラト部族の出身で、父のアルチ・ノヤンは チンギス・カーンの第一夫人・ボルテの弟である。

伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキムマンガラノガムンの4皇子を産んだ。

チャブイはチンギス・カーン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、

兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを 一族で支えて来た。 クビライの即位はチャブイの賜物と居えた。

特に同母姉が嫁いだジャライル部・ムカリの子バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ皇帝の死後のクビライのハーン(皇帝)位奪取に功があった。

また、チャブイ自身、そのオルド(宮廷)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて 勢力を拡大している。

1271年、クビライが樹立した元王朝では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガムが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治し、

中央政府では次男・チンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子で チャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。

加えて クビライ皇帝よって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され 大元朝の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。

やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり 1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。

この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム=アントンのもとに集まったモンゴル貴族(チンキム派)と漢人官僚(アムハド派)と反目を深めていった。 が、

両者の接点に立つチャブイ皇后が事あらば仲介したために、対立は決定的なものにはならなかった。

後年の1281年に、チャブイ皇后が他界すると、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年には アフマドの暗殺をチンキム皇太子が実行するに至るのです。

トルイー5-3
モンゴル(大元)帝国第五代皇帝・クビライ・カーンの統治したに於いて、実弟・アルクブケとの“蒙古帝国皇位継承戦争”の余波を受けた、

中央アジアで オゴデイ家から独力で大勢力を構築したカイドゥがオゴデイ家・チャガタイ家を収握し、元王朝の権威から離れ、本来はモンゴル皇帝の直轄領であった オアシス地帯を浸食していた。

さらに クビライ皇帝に従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。

そこで、クビライ・ハーンはチャブイ皇后との3人の嫡子チンキム、マンダラ、ノムガムを燕王、安西王、北平王に任じて 軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。

クビライ皇帝は、これらの3大皇子軍団の上に君臨した。 他方、イルハン朝の智謀将軍・バヤンをもらい受けて南宋攻略の全権を委譲した。

1276年には将軍・バヤン率いる大軍が南宋の都杭州を占領、南宋を実質上滅亡させ その領土の大半を征服する“蒙古・南宋戦争”に勝利した。

この前後に、クビライ皇帝はイスラム教徒のサイイド また チャブイ皇后の用心・アフマドらの財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、大元朝の財務を統括させている。

同時に 運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、モンゴル(大元)帝国の経済的な発展をもたらした。

これらの諸政策にともなって東西交通が盛んになり、クビライ皇帝治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(胡人・色目人)が訪れた。

中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧し、王太子に娘・クトゥルクを降嫁させて  高麗国王・忠烈王を通じた高麗支配を確立した【蒙古の高麗侵攻】。

また1289年にはビルマのバガン王朝を滅亡させ、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。

しかし、日本への2度の遠征(元寇)や、樺太アイヌ【蒙古の樺太侵攻】、ベトナムの陳朝やチャンバ王国、ジャワ島のマジャバヒト王国などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。

オゴデイー3-

同族が支配する中央アジアに対しては、1275年にモンゴル高原を支配する四男の北平王・ノムガンが一時 カイドゥが支配するチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、

翌年の1276年、カイドゥが中央アジアの諸王家を統合し モンケ・ハーンの遺児シリギを筆頭にモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家等 蒙古高原東方諸王家と連携して 公然とクビライ政権に対抗し始めた。

クビライ皇帝は、南宋征服の功臣・バヤン将軍率いる大軍をモンゴル高原に振り向け カイドゥを防がせたが、1287年には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主・ナヤンを指導者として叛いた。

老齢のクビライ皇帝自身がキピチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。

ナヤンは捕縛・処刑された。 その処刑は貴族のみに施される血を見ない袋詰めであったと言う。 諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。

クビライ皇帝は東方三王家であるジュチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えている。

カイドゥは三度この混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、 クビライ皇帝は翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。

カチウン家の王族・カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落延びてこの地域を劫掠したが、

1292年に皇孫・テルムが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した【ナヤン・カダアンの乱】。

トルイー5-4

______ 続く _____

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