成吉思汗・トルイ一党の覇権 (8)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

ダギ

トルイー8-1

テルム/イェスン・テルムは1294年5月10日に 貞淑な母・ココジンの論を諭す説得と軍事権を掌握していたバヤン将軍の擁立で 大元イルス(大元帝国)の君主として 第二代カアンに即位した。

彼は世祖クビライが夢託す皇孫の一人だが、幸運があった。 尊号はオルジェイトゥ・カアン(篤しき完者)とよばれたが、通常では皇帝になれる器でない。 29歳であった。

テルムが即位すると高原に対する西方の勢力・カイドゥの侵攻はますます強まった。

テルム・ハーンは兄の晋王・カマラに加えて従兄弟の安西王・アナンダ(安西王・マンガラの次男で世祖クビライの孫)を始めとする大軍を高原に送り込んだ。

元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねるが、しかし 次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元に投降し始めた。

これに対して焦りを深めたカイドゥは1301年、配下のオゴデイ家とチャガタイ家の諸王に総動員令を発し、全力をあげて高原に侵攻した。

テルム・ハーンは 直ちに甥のカイシャンらを追加派遣した。 ついに 元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。

カイドゥは戦傷を負い、まもなく没した。

後に、カイドゥの死を機にチャガタイ家の傀儡当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子・チャバルを説得して、テルム皇帝に服属を申し出た。

1305年、テルム/イェスン・テルム皇帝はドゥアとチャバルの服従を承認し、祖父・クビライ即位時の内乱以来分裂状態にあったモンゴルル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされた。

カイドゥの戦傷での他界と言う幸運な事態の展開であった。

テルムの政権では、先帝四代にわたって中国の行政に活躍したムスリム(イスラム教徒)官僚・サイイド・アジャッルの孫バヤン・アジャッルが中書平章政事に任命され、

中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤン・アジャッルを首席とする財務部局を構成し クビライの財政制度を踏襲した。 南宋のモンゴル否定の気運は沈静したとは言え不穏な動きもあった。

テルム/イェスン・テルムの後ろ盾であった将軍・バヤンは、テルムの即位後まもなくに亡くなったが、父・チムキン皇太子の莫大な遺産を管理する母・ココジンがテルム皇帝をよく支えた。

テルム/イェスン・テルムは飲酒と荒淫の悪癖があった。 母・ココジンはそれを諌めたが、 はや 鬼籍の人であり、皇帝を諌める人がいなかった。

テルム皇帝は 次第に病気がちとなり、チャバル(カイドゥの長子)との和平を受け入れた頃にはほとんど病床(40歳前後)に就いていた。

政務を執ることが本来 好きでない上に 飲酒と荒淫での衰弱である。

宮廷では 1300年に母・ココジンの他界以降は テルムの皇后ブルガンが勢力を拡大 テルム皇帝の代理として政務を取り仕切って 権勢を振るった。

トルイー8-2

1301年に、元寇の弘安の役の江南軍司令官の范文虎(賈似道の婿)をはじめ、将校の萬徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を、わずかに生き残った将兵が「自分たちを見捨てて逃げ帰った」と告訴した。

このことを耳にしたテルム皇帝は激怒し、皇后ブルガンは徹底的な調査を命じた。

范文虎は妻の賈氏をはじめ、家族とともに斬首に処され、萬徳彪、王国佐、陸文政の一家も皆殺しの刑に処された。

≪ 当時、大元帝国は、数パーセントのモンゴル人支配層の下 胡人(色目人)の官僚・商人が経済を左右し、南宋に属していた官僚・武人は中間下層に位置づけられ 下層部に農民がいた。

南宋の諸将は、名族と言えども自立は叶わなかった。 モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度があったようです。

このような話が伝わる「郷士の娘は婚儀が整うと、モンゴル人の地方長官宅に半月ほど滞在しなければならない」公則があったとか ≫

1307年2月10日、テルム皇帝が崩御(享年42歳)すると、皇后・ブルハンとその反対派の間で政変が起こった。

アナンダ( ? -1307年)は、テルム皇帝の父・チンキムの次弟でマンガラの次男、世祖クビライの孫にあたる。

1280年に父の死によって安西王の爵位と領地を継ぎ、京兆府(長安/西安)および開成府(寧夏回族自治区)を中心に陝西・甘粛・四川などの中国西部一帯を支配した。

1294年にアナンダの従兄弟にあたる成宗・テルムが即位し、モンゴル高原西部のアルタイ山脈方面でオゴデイ家のカイドゥとの戦闘が激しくなると、アナンダもモンゴル高原に投入された。

世祖・クビライの曾孫である懐寧王・カイシャンとともにオドデイ家と戦った。

1306年、オコデイ家に与したアリクブケ家のメリク・テルム(クビライの甥)が降伏した。 アナンダはメリク・テムルを監理下に 元の首都大都に向かった。 しかし、

その帰還途上の1307年正月、モンゴル帝国皇帝・大ハーンのテルムが病没した。

テルム皇帝の病床以前から政務をとっていた皇后ブルガンは、夫・テルムの死後も権勢を保つため、テルムの甥で 怨敵・タギ后妃の子息 後継皇帝候補第一位のカイシャン 及び その弟のアユルバルワダではなく、

テルム/イェスン・テルムの従兄弟で傍系に過ぎない彼・アナンダの擁立を画策した。

アナンダはブルガン皇后の誘いに乗り、メリク・テムルを伴ない 大都に入り、政権を奪取した。

しかし、ブルガン皇后の専横に反対する重臣たちが密かにアユルバルワダを河南から大都に迎え入れ宮中でクーデターを起こした。

アナンダは大ハーン(皇帝)への即位を前にしてブルガン皇后、メイク・テルムとともに捕らえられた。

続いてカイシャン(アユルバルワダの実兄)が自らの皇子軍を率いて、他の首都上都(冬の王宮)に到着した。

アユルバルワダは大都にて己の勢力の不利を悟り、カイシャンに禅定した。

アユルバルワダからから帝位を譲り受けた新帝・カイシャンは アナンダには死刑を宣告し、私通の罪で東安州に追放されたブルガンにも死刑を与えた。 ブルガン一党は粛清の嵐に晒された。

トルイー8-3

ダギ(  ? – 1322年11月1日)は、世祖クビライが寵愛した皇孫ダルマバラに歳若くして嫁いだ。

チンギス・ハーンの正夫人ボルテの弟で君臣・アルチ・ノヤンの曾孫にあたり、アルチ・ノヤンの四男ナチンの息子・テルムの娘であり、クビライの正皇后チャブイは大叔母にあたる。 生家は元王朝屈指の勢力を有していた。

幼少のうちから燕王・チンキム(後、皇太子)の宮廷に迎え入れられて その次男ダルマバラに近侍し、成人とともにダルマバラと結婚した。

武宗・カイシャンと仁宗・アユルバルワダを生んだ後に、夫・ダルマバラは有力な後継者候補として将来を嘱望されながらも28歳で他界した。

夫の早世後、遊牧民の間では一般的な嫂婚制(ラトビア婚;父や兄の未亡人を娶ることでその財産を引き継ぐ制度)により、夫の弟にあたる成宗・テルムとの結婚が検討されたこともあった。

が、再婚は行われなかった。 しかし 成宗・テルムの后妃・ブルガンとの確執が深まっていった。

成宗・テルムが第六代モンゴル帝国の皇帝に即位すると ブルガン皇后は不和のダギ皇妃を帝都から遠ざけた。

ブルガン皇后の生家はバヤトウ氏族であり、有力な部族ではない。 しかし、テルム皇帝の第一皇后が他界し、皇帝の生母ココジン皇后の死亡以降 宮中の権力はブルガン皇后に集中していた。

テルム皇帝の晩年、1305年に ダギ皇妃はブルガン皇后によって首都大都を遠ざけられ、次男のアユルバルワダとともに河南の懐州にある亡き夫・ダルマバラの所領で過ごしていた。

1307年、甥のテルヌ皇帝が病死すると、コンギラト氏族の勢力を排除し 権勢を維持しようと努めるブルガン皇后は傍系の王族・アナンダ(亡夫の従弟)を即位させようと目論んだ。

折りよく、安西王・アナンガは投降した世祖・クビライ皇帝への反乱者メイク・テルムを捕獲して 首都大都に帰還して来た。

ブルガン皇后は安西王・アナンガに帝位を持ちかけ、アナンダを取り込み メイク・テルムも支配下の将にした。

権勢を乱用するブルガン皇后に反対するコンギラト系の重臣たちは 秘かにアユルバルワダ皇子とともにダギ皇妃を帝都に呼び戻した。

大都に入ったアユルバルワダ皇子は、ブルガン皇后と新王・アナンダを打倒するクーデターを画策し ダギ皇妃はコンギラトの重臣たちに指示を与えた。

クーデターは成功し 長男カイシャンが第七代モンゴル帝国皇帝(第三代大元帝国皇帝)・大ハーンに即位し、アユルバルワダ皇子は皇太子として立てられ、ダギ皇妃も皇太后に立てられた。

ダギ皇太后は、かつて亡夫ダルマバラの母ココジンが領していた隆福宮を継承し、怨敵・ブルガン皇后が蓄財した全てを手に入れた。

まもなく ダギ皇太后のために興聖宮が立てられて隆福宮を併せもち その権勢は絶大になった。

興聖宮は代々コンギラト部出身の皇后によって所有されてきた莫大な財産と所領を継承し、その管理のために幾多の官庁が設けられ、それ自体がひとつの王国に匹敵するほどの規模を誇っていた。

1311年にカイシャン皇帝が30歳ほどの若さで突如急死し、ダギ皇太后の溺愛する弟のアユルバルワダ皇太子が大ハーンに即位すると、カイシャンの側近たちは突如追放された。

ダギ皇太后の寵臣テムデルをはじめとする興聖宮の重臣が権勢を振るうようになり始めた。

カイシャンが弟アユルバルワダを皇太子に擁立した時、次期皇帝はカイシャンの子のコシラとするよう兄弟の間で約束されていた。 が、

ダギ皇太后は、孫のコシラが幼くして英気があり 将来 自己を主張するであろうことを怖れ、約束を破ってアユルバルワダ皇帝の子で柔弱なシデバラを皇太子に立てさせたのです。

トルイー8-4

アユルバルワダの治世で皇帝位は名目で実力がなく、ダギ皇太后と側近たちが政治を自由に動かした。

皇帝の勅旨よりも皇太后の懿旨のほうが権威を持ち、シデバラを皇太子に立てるのもダギ皇太后の懿旨によって行われた。

1320年にアユルバルワダ皇帝がやはり若くして亡くなると、その遺児でまだ10代のシデバラが大ハーンに即位し、ダギは太皇太后に立てられた。

シデバラ・ハーンの治世ではダギ太皇太后の権勢は 益々盛んになり、アユルバルワダの末年に罷免されていたテムデルが右丞相に返り咲くなど、太皇太后の意志が押し通された。

しかし、シデバラは成長するとともに毅然として政治に乗り出そうとする傾向を見せ始めたので、ダギ太皇太后は 孫のシデハラを擁立したことを後悔しながら2年後に亡くなった。

ダギ太皇太后が死ぬとシデバラ・ハーンは、太皇太后の寵臣・テムデルの遺族を追放し、その財産を没収するなど強硬的な改革を進め、ダギ太皇太后の党派を一掃している。

≪ 有閑余話; 元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興した。

また、塩の国家専売による莫大な収入と莫大な農業生産力による穀物が国庫を支えた。

経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からも商税が得られるシステムを構築していた。 その経済政策を担当していた者の多くは色目人であった。

中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。

江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、

江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が経済史に出ています。

・・・・・折を見て 経済官僚の生き様も 後ほど・・・ ≫

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_____ 続く ______

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