成吉思汗・トルイ一党の覇権 (9)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

ブルガン

Kotor Waterfall

世祖・クビライの死後、1294年に孫のテルムが継ぐ。 1301年にカイドゥが死に、1304年に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。 テルム皇帝には幸運が付き纏った。

この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は皇帝を頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、富を生み出すシルクロード交易の活況ぶりは空前となった。

この状況を指してパクス・モンゴリカ《モンゴルの平和》と呼ばれる時代が訪れた。

元朝の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ・ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられた。

江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿易船や留学僧の渡来は絶えなかった。

1307年、皇帝テムルが世継ぎを残さずに死ぬと、モンゴル帝国で繰り返されてきた後継者闘争が忽ち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。

権力争いの中心となったのは、チンギスの皇后ボルテ、クビライの皇后チャブイ、テムルの母ココジンらの出身部族、

クビライ、テムルの2代においても外戚として権勢を握ってきたコンギラト氏族を核に結束した元朝の宮廷貴族たちであった。

テムルの皇后ブルガンはコンギラト部の出身で無いがゆえに、貴族の力を抑えるため テムルの従弟である安西王・アナンダを皇帝に迎えた。 しかし、

傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちはクーデターを起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥・カイシャンを皇帝に迎えた。

カイシャン皇帝は早世し、弟・アユルバルワダが帝位を継いだ。

しかし、アユルバルワダの治世期 また アユルバルワダの正嗣長子・シデバラの時代は、

代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者である母ダギ・カトゥン(コンギラト部出身)が 宮廷内の権力を掌握し、皇帝の命令よりも母后の命令が権威をもつと言われるほどであった。

そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が1320年に終焉し、1322年にダギが死ぬと再び政争が再燃する。

翌1323年にアユルバルワダの後を継いでいたシデバラが殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダの崩御以降 1333年のトゴン・テムルが戴冠まで、

13年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態に元朝は陥った。

この背景にはダギ・カトンが象徴するチンギス・カーン帝国の外戚・コンギラト氏族への激しい闘争、また コンギラト氏族内部での女性達の闘争があった。

一概に、モンゴルの女性は男性と対等であり 社会的な自己を主張する傾向が顕著で、寡婦の再婚相手に仏教的な論理感はなかった。

この通念に“チンギス統原理”即ち、民衆の支配者たるハーンの地位は、ボルジギン氏であるチンギス・ハーンとその男系子孫によってのみ継承されるべきとする血統原理、言い換えれば

中央ユーラシアのテュルク系遊牧民の社会において広くみられた王権の正統性に関するこの思想

チンギス統原理=アルタン・ウルク”が 皇帝・君主の継承時に 女性達の闘争・葛藤が歴史に露呈する。

トルイー9-2

さて、シデバラは成長するとともに毅然として政治に乗り出そうとする傾向を見せ始めた。

カイシャン(1281年8月4日-1311年1月27日)は、成宗テルム皇帝の早世した兄ダルマバラの長男。

ダギを母とすることから、嫡子のいないテムルの有力な後継者候補であった。

1299年 テムル皇帝にモンゴル高原へ派遣され、キプチャク親衛軍を中核とする元の高原駐留軍の指揮を委ねられた。

1301年には、総力で蒙古高原に侵攻してきたカイドゥの軍との戦いに参加し、カイドゥを敗走させた。

この戦功により1304年には懐寧王に封ぜられたカイシャンは、1306年にはアルタイ山脈方面まで侵攻してメリク・テムル(クビライに敗れたアリクブケの次男)を降すなど大きな戦果をあげた。

1307年、テルム皇帝が没すると、東に戻ってカラコラムに入ったカイシャンは、形勢を窺った。

時に バヤウト部族出身のテルムの皇后ブルガンは、テルム皇帝の有力な後継者候補であるカイシャンと弟のアユルバルワダをあらかじめ首都の大都から遠ざけた上で、

 兄弟の母タギの実家・コンギラト部の影響を排するために、コンギラトの血を引かないテルムの従兄弟・アナンダを皇帝に擁立した。

これに対しコンギラト派の重臣は密かにアユルバルワダを大都に迎え入れ クーデターを起こさせ ブルガン皇后と新王アナンダを捕縛した。

これを知ったカイシャンは自らの指揮する大軍を率いて 北方の首都上都に赴き、クーデター勢力を威圧した。

弟アユルバルワダは兄カイシャンを向かい入れ カイシャンは譲位を受け、6月21日に上都にて第7代大ハーン(第三代大元皇帝)に即位した。

カイシャンは即位において内紛を経験した経緯から、弟のアユルバルワダを皇太子として立て、母ダギを皇太后に立てたのを始め、

帝室の諸王やモンゴル貴族たちに賞与を乱発して王族から絶大な人気を得た。

トルイー9-3

1308年7月、カイシャンは 政権の基礎をおおよそ固め終わると、西方の有力モンゴル諸王家の三人の当主に、大規模な使節団を派遣させた。

チャガタイ・ウルス当主でドゥアの長子コンチェク、ジュチ・ウルス当主・トクタ、そしてイルハン朝の当主オルジェイトゥのもとへの使節団です。

しかし、歳賜の増加は世祖・クビライ皇帝以来の積年の外征による軍事費と 膨張した元王朝の経費が財政に圧し掛かかり、カイシャンの政府は財政の混乱に苦しめられた。

カイシャン・ハーンは財政を司る中央官庁の尚書省を復活させて行政担当の中書省に並立せしめるとともに、

各地の行中書省を行尚書省に改めさせて専売制に関わる業務を強化した。

また、価値が下落して信用を失った紙幣にかわる新紙幣の至大銀鈔を発行して通貨の切り下げを断行するなど、インフレーションの抑制を図るために様々な手段を講じた。

しかし、カイシャンの治世が4年にも満たなかったこと また 母ダギ皇太后が溺愛する弟・アユルバルワダ皇太子に肩入れし、協力を惜しんだこと 等等、

いずれの政策もうまくいかず、場当たりな経済政策は漢の民衆や官僚が不満を高めることになった。

更にまた、カイシャンは高原駐留軍時代からの側近を高位に取り立て、とくに腹心の精鋭部隊であるキプチャク親衛軍を始め、非モンゴル系の親衛隊を寵遇したことで、

クーデターで多大な功があったコンギラト派重臣たちへの応報を 十二分に付与しなかったことと重なり、彼らの不満が鬱積 彼らをダギ皇太后に従属させる結果になった。

1311年、カイシャン・ハーンが30歳の若さで急死し、皇太后アユルバルワダが即位すると、たちまちコンギラト派はダギ皇太后を中心に結集し、カイシャン派の重臣たちを追放してしまった。

さらにアユルバルワダの次にはカイシャンの子を皇帝とするというカイシャン生前の約束が違えられ、カイシャンの長子コシラは追放されてしまった。

キプチャク親衛軍をはじめとするカイシャン恩顧の将軍たちは、1323年にカイシャンの遺児・トク・テムルが即位するまで長らく不満を持ちつづけることになぅた。

アユルバルワダ(1285年4月9日-1320年3月1日)は、兄同様に有力な後継者候補であることから、皇后ブルガンによって首都の大都から遠ざけられ、母ダギとともに河南にある所領の懐孟に押し込められていた。

1307年 テムル皇帝崩御にともない、ブルガン皇后は怨敵・ダギ后妃の正嗣兄弟が即位することを避けるため、密かに安西王・アナンダ(従兄)を呼び寄せて大ハーンに即位させた。

トルイー9-4

 ダギ后妃を中心とするコンギラト派の策謀で アユルバルワダがクーデターに成功し 政権を覆した。  母・ダギとコンギラト派重臣らはさらにアユルバルワダをハーン位に就けようと目論んだが、しかし

モンンゴル高原に駐留していた兄カイシャンが親衛隊を核にキピチャク親衛軍の大軍を率いて南下して来た。

即位まじかのアユルバルワダは 単に摂政と称し、カイシャンを迎え入れ、大ハーンに即位した兄の皇太子となることで甘んじた。

1311年、兄の死とともに第8代大ハーン(第四代大元皇帝)に即位すると、たちまち1307年のクーデターで活躍した母のダギ后妃およびコンギラト派の重臣が政権を握る。

カイシャン腹心の重臣が汚職の疑いで追放され一掃されると、カイシャン皇帝時代の財政最優先の国家体制が改められてその中心である尚書省が廃止され、

唯一の中央行政官庁となった中書省の長官である右丞相にはダギ后妃の寵臣エムゲルが復位・就任した。

テムゲルはカイシャン時代のインフレーション抑制策の目玉であった新紙幣の至大銀鈔を廃止し、世祖クビライ時代の至元鈔に戻した。

代わりに商業税の徴収を強化するなど、徴税改革で収入増を図ろうとしたが、抜本的な改革は行われず、問題はそのまま先送りにされた。

あらゆる政策はダギ后妃を中心に懸案させ、実施された。 アユルバルワダ皇帝はお飾りに過ぎなかった。

アユルバルワダの治世が後世に名を残したのはむしろ文化的な政策であり、『貞観政要』がモンゴル語に訳されて全国に配布され、漢文による法典が編纂され始めた。

政府には漢人・非漢人を問わず儒学の素養を身に付けた知識人が集められ、1315年には合格者数がきわめて少ないという限定的なものながら、科挙が復活した。

アユルバルワダの治世にはテムゲルと、その後援者である皇太后ダギの権勢が大ハーンの権力をしのぎ、ハーンの聖旨(ジャルリグ)よりも皇太后の懿旨(ウゲ)が権威を持つと言われるほどであった。

このため、アユルバルワダはむしろ宮廷に篭りがちになったが、晩年には御史台の弾劾により,
ついにテムデルを失脚させた。

≪ この状況、 清朝末期の西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)にそっくりです ≫

しかし、アユルバルワダはまもなく1320年に36歳の若さで没すると、その子シデバラを即位させた皇太后ダギはテムデルを復職させ、その専権が続いた。

ジュチ一党2-1

シデバラ (1303年2月22日-1323年9月4日)は、第9代皇帝(在位期間、1320年4月19日- 1323年9月4日)。

叔父・カイシャン先々代皇帝と父・アユルバルワダ先代皇帝は1307年6月21日のクーデターで政権を樹立したおる、武宗カイシャン皇帝の子を皇太子に立てることを父アユルバルワダと約束していたが、

1311年にカイシャン皇帝が急死すると政変が起こってカイシャン皇帝の重臣は追放され、カイシャンの2人の遺児は遠隔地に追いやられた。 この政変は祖母・ダギ皇太后の策謀であった。

更に ダギ皇太后は、自身の実家であるコンギラト部族の者を母とする王子を次代の皇帝に擁立して 自身の影響力を高めようと画策した。

カイシャンの遺児たちは幼くして聡明であり、ダギ皇太后は自分の権勢に楯突くであろうことを恐れて 二人の息子達で交わした約定を反古ににし カイシャンの遺児を差し置いき、シデバラを皇太子に冊立させた。

このような経緯のために、シデバラ皇太子は即位の以前から ダギ皇太后を中心とするコンギラト派の重臣たちに取り囲まれた状態にあった。

1320年に父の死により18歳で即位したシデバラ・ハーンの治世には、元朝は長年の放漫財政によって財政的には破綻寸前であり、

政治的には年若い皇帝はほとんどダギ皇太后とその腹心の寵臣たちの傀儡に過ぎなかった。

ダギ・カトゥンは孫が即位するとすぐに アユルバルワダ皇帝が晩年に退けた皇太后の腹心テムデルを復帰させ、政治をアユルバルワダの治世以上に壟断した。

______ 続く ______

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