成吉思汗・トルイ一党の覇権 (10)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

バブフン  &  ブダシリ

トルイー10-1

ダギ・カトゥンは、孫のシデバラを即位させるとすぐに アユルバルワダ皇帝が退けた皇太后の腹心テムデルを復帰させ、政治をアユルバルワダの治世以上に壟断した。

皇太后の権勢はますます盛んになり、復位した禰臣・テムデルを右丞相に据えて操り、ダギの意志が押し通された。

しかし、シデバラ皇帝は成長するとともに毅然として 政治に乗り出す姿勢を示し始めた。

ダギ皇太后は寵愛した息子アユルバルワダの長子・シデバラを擁立したことを後悔しながら 1322年11月1日に身罷った。 テムデルは殉死した。

ダギ皇太后が死ぬとシデバラ皇帝はテムデルの遺族を追放し、その財産を没収するなど強硬的な改革を進め、ダギの党派を一掃した。

1322年、祖母・ガギとテムデルが相次いで没すると、20歳になっていたシデバラ・ハーンはようやく 己の手に実権を回復した。

シデバラ皇帝は世祖時代の右丞相アントンの孫でテムデルの政敵であったバイジュを右丞相に起用すると、コンギラト派を排除して新政権を樹立し、ハーン主導のもとで体制の引き締めを開始した。

しかし、テムデルの爵位を剥奪して遺産を没収し、遺児を処刑するなど、コンギラト派に対して厳しい弾圧を加えたことから、

テムデルの養子・御史大夫・テクシを筆頭にコンギラト派の貴族らはシデバラを畏怖するようになり、反逆の意思が鬱積した。

1323年旧暦8月、シデバラ皇帝が 夏の宮廷(オルド)上都から冬の都大都への季節移動の途上で南坡という場所に滞在していたとき、

テクシは部下の手兵 アスト衛兵を潜伏させて シデバラ・ハーンの宮廷を襲い、シデバラ皇と右丞相バイジュ共々 暗殺した。

シデバラ・ハーンを暗殺したテクシらは晋王・イェスン・テルムを代わりの皇帝(ハーン)に擁立する。

しかし、イェスン・テルムとその腹心たちはテクシらの傀儡となることを怖れ、先手を打ってテクシ一党を逮捕、処刑した。

この反逆劇で、コンギラト派は 結果的に一掃されてしまった。

トルイー10-2

イェスン・テルム(1293年11月28日-1328年8月15日)の父・カマラは、世祖クビライ後継者の最有力候補であった皇太子チムキンの長男。 祖父・チムキン皇太子は若くして病死した。

父カマラは 大祖父クビライによって晋王に封ぜられていた。 クビライ皇帝の死後に、実弟・テムル皇子との間で皇位継承をめぐる議論に敗れ、帝位から外れた。

カマラがテムル皇帝に先立って1302年に没すると、幼い長男イェスン・テルムが晋王の爵位を継ぎ、モンゴル高原の遊牧民諸部族を統率し、チンギス・ハーンの祭祀を行う4大オルドを領した。

その後、帝位はテルムとそのすぐ上の兄ダルマバラの子孫の間で推移し、晋王イェスン・テルムはモンゴル高原に駐留のまま、皇位継承に関わることはなかった。

1323年、英宗シデバラが御史大夫テクシに殺害される事件が起こると、元朝宮廷に力を持つコンギラト部族の娘を母とするイェスン・テルムが後継ハーンとして擁立された。

イェスン・テルムは同年末にモンゴル高原にあるチンギス・ハーンのオルド(宮廷)で大ハーン(第四代大元皇帝)に即位した。

しかし、イェスン・テルムと晋王府の重臣たちは、このまま大都に向かえばシデバラを殺害した軍閥の傀儡となることを恐れ、先手を打ってテクシ一党を逮捕、処刑した。

帝都に入城したイェスン・テルムは、側近のダウラト・シャーを宰相に起用し政権を委ね、善政を施し 較的長い5年の治世を保ったが、1328年秋に36歳の若さで病死した。

イェスン・テルムの死後、宰相ダウラト・シャーは上都においてまだ幼い皇太子アリギバを立てて大ハーンとしたが、たちまち皇帝位をめぐる「天暦の内乱」が起こった。

もともと基盤の弱かった晋王系政権はたちまち崩壊した。

天暦の内乱以降、元帝国は5年間に6人のハーンが交替する混乱期に入った。

トルイー10-3

アリキバは、父・イェスン・テルム第十代モンゴル帝国皇帝の死に伴い擁立された。 が、2ヶ月間の短い即位期間であった。

天順の元号を立てたので天順帝と呼ばれることもあるが、「天暦の内乱」で政権は崩壊した。

アリキバは傍系からハーンに即位した泰定帝・イェスン・テムルの長子で、名門姻族コンギラト氏のバブフンを母とし、幼くして皇太子に立てられた。

1328年旧暦7月、まだ36歳の若さであった父・イェスン・テムルが病気により上都で急死すると、父の寵臣で宰相である左丞相ダウラト・シャーによって後継者に擁立され、9月に上都で大ハーンに即位した。

しかし イェスン・テムルの政権はダウラト・シャーをとする一派で、モンゴル高原時代晋王だった時代からの側近たちによって構成され 彼らが王朝中央政権を牛耳った。

大元王朝の旧来からの諸管・官僚は政権非主流はとなり、不満を募らせていた。

1328年8月15日のイェスン・テムル皇帝の他界をきっ掛けてに、政権非主流派の軍閥・官僚諸将が決起した。

8月、夏営の大都に駐留していたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルが反乱を指揮して 大都の政府機関を占拠し、武宗・カイシャンの遺児の擁立を呼びかけた。

アリキバの即位したのと同じ9月、湖北の江陵にいたカイシャンの次男懐王トク・テムルが大都に迎え入れられ、アリキバの対立ハーンとして 即位した。

アリキバを擁立する上都側は反乱を押さえ込むために大都へと侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルルらの軍勢に敗北し、アリキバの軍は崩壊した。

10月になると内モンゴル東部を領する斉王オロク・テムル(チンギスの弟ジュチ・カサルの王家)が大都側に参画して 上都を囲み、アリキバとダウラト・シャーは完全に孤立した。

ダウラト・シャーは大都側に投降して処刑されたが、幼帝アリキバは忽然と足跡をけした。

イェスン・テムルの死後おこったこれら一連のハーン位争いは、トク・テムルの勝利と幼帝アリキバの没落によって この“天暦の内乱”で終結を迎えたわけではなく、

トク・テムルとその兄・コシラの間で帝位を巡る対立の導火線となった。

チャガタイー3-4-5

トク・テムルコシラ(1304年2月16日-1332年9月2日)は、モンゴル帝国第十二代(大元帝国第七代)皇帝として 二次に及び 即位した。

第一次1328年10月16日? ー1329年4月3日,第二次1329年9月8日?ー1332年9月2日。

トク・テムルは武宗カイシャンの次男。 母はタングト部の人で生家は有力部族でない。 異母兄にコシラがいた。

コシラの生母は有力氏族・コンギラトの王女であった。

1311年に父・カイシャン皇帝が急死し、その弟アユルバルワが即位したときはまだ8歳であった。

カイシャンの母・ダギ皇太后と丞相テムデルらの陰謀によって皇太后と同じコンギラト部の者を母としないトク・テムルとコシラの兄弟は遠ざけられ、シデバラが即位すると トク・テムルは海南島に流された。

1323年、英宗シデバラが暗殺され、新帝に擁立された泰定帝イェスン・テムルが暗殺者テクシらを処刑して政権を一新すると、トク・テムルは復権し 懐王に封ぜられ、建康(南京)、ついで湖北の江陵に住まわされた。

1328年旧暦7月に上都でイェスン・テムルが死去すると、大都にいたキピチャク親衛軍の司令官である僉枢密院事エル・テルムがカイシャンの遺児の擁立を訴え、反乱を起こして政府官庁を占拠した。

他方 兄コシラはダギ皇太后らによって、遠くアルタイ山脈西麓の中央アジアに追いやられていたので、彼らは手近な江陵にいるトク・テムルを大都に迎え入れ、トク・テムルは旧暦9月に大都で即位した。

同じ頃、上都ではイェスン・テムルの遺児アリキバが擁立され、大都で即位したトク・テムルを攻撃した。

しかし、エル・テムル率いる大都側の軍団は上都側の軍を打ち破り、内モンゴツから華北にいる諸軍団がことごとく大都側についたため、幼帝アリキバを擁立した上都の宰相ガラウト・シャーは降伏した。

時を同じくしてコシラがアルタイ山脈を越え、旧都カラコルムに入ってモンゴル高原に駐留する諸王族・有力部族の支持を取り付けた。

右丞相エル・テムルら大都のトク・テムル・ハーンのもとで政権の中枢にのし上がった人々は、コシラが即位すれば彼の側近やモンゴル高原の遊牧貴族たちに政権を奪われることを恐れた。

しかし、トク・テムル・ハーンの兄であり コシラの母の家柄が良い事とモンゴル高原の諸軍と内戦を続けることが難しかったため、エル・テムルらはトク・テムル・ハーンに禅定を迫った。

1329年4月 エル・テルムは、コシラに皇帝の玉璽を奉じ、ハーン位を兄。コシラに譲った。

トルイー10-4

しかし 8月、上都の郊外で兄弟が会見した直後、にわかにコシラが亡くなり、兄の皇太子となっていたトク・テムルが、そのわずか11日後に復位を宣言する。

新皇帝トク・テムルは、コシラの側近を追放処分し、大都の軍閥勢力・エル・テムルが再び政権を握った。

復位後3年にわたったトク・テムル・ハーンの治世には、エル・テムルが独裁権力をふるい、ハーンはまったくその傀儡に過ぎなかった。

内政・外政ともにエル・テムルを頂点とする軍閥間の利権政治に終始し、政治的には元朝の衰退がはっきりとし始まっていた。

そして、1332年 病弱であったトク・テムル皇帝は30歳に満たない若さで急逝した。

トク・テムル・ハーンには実子もいたが、兄の遺児を選んで後継者とするよう遺言したため、わずか7歳のコシラの次男・イリンジバルが次代の大ハーンに擁立された。

イリンジバル(1326年5月1日-1332年12月14日)は、モンゴル帝国第十四代(大元帝国九代)皇帝に即位する。 わずか二ヶ月の在位である。

父はコシラ、母・バブサはナイマン部の人で、コシラが即位以前、アルタイ山脈の西に亡命していたときに生まれた。 異母兄のトゴン・テムルは次代の大ハーンに即位する。

父・コシラが不審な急死を遂げて弟の文宗トク・テムルが即位すると、鄜王に封ぜられた。

1332年旧暦8月にトク・テムル・ハーンが病死したとき、大ハーンには実子エル・テグスがいたが、エル・テグスの母である皇后・ブダシリは夫・コシラの遺言をもとにその即位を断った。

しかし、コシラの子を次代の大ハーンに立てるように中書右丞相エル・テムルが強くに要求した。

トク・テムル・ハーンを擁立して独裁権力を握っていたエル・テムルはコシラを毒殺したと言われており、既に13歳になって分別のつく年頃であるコシラの長子・トゴン・テムルを即位させるのに難色を示した。

トゴン・テムルは 既にトク・テムル・ハーンの在世中に 都から遠く離れた広西に流されており、これに対して叔父・トク・テムルに愛された幼児イリンジバルは大都にいた。

そこで、中書右丞相エル・テムルはイジンジバルの擁立を決め10月に即位させたが、同年12月、新帝イジンジバルはわずか2ヶ月の在位で急逝した。 7歳の幼さであった。

エル・テルムは 改めて ブダシリ皇妃にエル・テグスの即位を要請したが、エル・テグスが幼いことを理由に再び固辞され、トゴン・テムルが呼び戻された。

トルイー10-5

ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に、広西で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。

しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていたキプチャク親衛軍の司令官であり中書右丞相のエル・テムルに疎まれた。

エル・テムルが病死するまで トゴン・テムルは正式に即位することができないありさまだった。

他方、 黄河の南 穀倉地帯で、積年の圧制と政権不信から自警団組織が各地で発生した。

トルイー10-6

_____ 続く _____

                                          *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/16/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/19/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中