成吉思汗・トルイ一党の覇権 (11)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

ブダシリ

トルイー11-1

ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に、広西で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであったが、

ブダシリ皇妃にエル・テグス皇子の即位を再三度 要請したが、エル・テグスが幼いことを理由に再び固辞され、トゴン・テムルが呼び戻された。

しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていたキプチャク親衛軍の司令官であり権力を握る宰相・エル・テルムに疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。

さらに、エル・テルムの死後はアスト親衛軍の司令官であるバヤン将軍がエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、

1340年にはバヤンの甥トクトが伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやほとんどが軍閥の内部抗争によって動かされていた。

そのうえ成人した皇帝も権力を巡る対立に加わり、1347年から1349年までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。

重ねて、元朝は理財派色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用時の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていた。

この政治混乱は更に農村を荒廃させた。

しかし、中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために

国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、

地方では急激に不穏な空気が高まっていき、元朝は1世紀にも満たない極めて短命な王朝としての幕を閉て行く。

トゴン・テムルは、父の明宗・コシラが ダギ皇太后が策謀する暗殺計画を逃れるため中央アジアに滞在した際に、中央アジア北東部のテュルク系遊牧民カルルク部族の族長の娘との間に長男として生まれた。

カルルクは本来チンギス・ハーン王家姻族ではなく、従って、モンゴル王族としてはトゴン・テムルの母の出自はあまりよくなかった。

1328年(天順元年/天暦元年)、泰定帝・イェスン・テムル崩御後に発生した内乱の際にはモンゴル高原を経て上都に帰還した父・コシラに従い元朝に復帰したが、

コシラの急死により弟の叔父・トク・テムルが文宗として即位すると、トク皇帝の甥であるトゴン・テムルは宮廷から遠ざけられ、はじめ高麗 次に 広西に流された。

1332年(至順3年)、トク・テムル皇帝が崩御すると皇后・ブダシリは夫・トク・テルムの遺志に従い、コシラの遺児を大ハーンに擁立することを提案、大都に留められていたトゴン・テムルの弟イリンジバルが即位した。

しかし、新帝は わずか2ヶ月で病死してしまった。

トク・テムル皇帝の即位以来政権を掌握していたエル・テムルは皇帝の子であるエル・テグスの即位を計画したが、その母であるブダシリ皇后により固辞され、ブダシリ皇后によりトゴン・テムルが広西から召還されることとなった。

エル・テムルにはトゴン・テムルの父・コシラ毒殺説もあり、既に13歳となっていたトゴン・テムルが大ハーンに即位すれば、自らの政治的権力が低下することを恐れトゴン・テムルの即位を妨害した。

そのためトゴン・テムルが大都に到着した後も約半年間即位は延期され、1333年(至順4年)春、エル・テムルの病死により、

同年の夏にトゴン・テムルはモンゴル帝国第十五代(大元帝国第十一代)皇帝に即位することができた。トルイー11-2即位したトゴン皇帝は従弟エル・テグスを立太子、その母ブダシリが太皇太后としてトゴン・テムルの後見人としたが、実際にはエル・テムルの死後も軍閥が政権を掌握していた。

中でもエル・テムルの死後軍閥中で勢力を拡大したバヤンが中書右丞相に就任、エル・テムルの遺児による反乱を鎮圧すると、元朝内に強い影響力を有するようになった。

トゴン皇帝は20歳を過ぎた頃よりバヤンの専権に反発するようになり、1340年(至元6年)、バヤンと対立していたバヤンの甥であるトクトと協力し、トクトによる政変を実行しバヤンを追放した。

この政変の影響でブダシリとエル・テグスの母子は追放され、トク・テムル以来政権を掌握してきた旧勢力は一掃されることとなった。

しかし 新たにトクトとその父マジャルタイによる政権掌握を創出し、同様の弊害に直面した。

トゴン皇帝は、トクト勢力を駆逐すべく、トクト父子の政敵であった父のコシラやイェスン・テムルの重臣を秘かに呼び集めた。

1347年(至正7年)、トクト父子を甘粛に追放、しかし新たに強大な政治勢力が生まれることを警戒し、1349年には 再び トクトを政権復帰させるなど、トゴン皇帝は重臣間の政争に積極的に関与した。

中央で政争が続く中、地方では天災と疫病が相次ぎ民心は元朝から急速に離反していった。

1348年(至正8年)には塩に対する厳格な専売制を採用したことにより、専売制に反対する塩の密売商人が中心となる反乱発生を契機に反元の反乱が各地で続発した。

特に1351年(至正11年)に発生した“紅巾の乱”は中国全土に波及する大反乱となった。

1354年(至正14年)、トクトが紅巾の乱の鎮圧に出撃する際、彼がが強大な軍事力を掌握することを恐れたトゴン・テムル・ハーンはトクトを解任して 再び 彼を追放した。

これによりトゴン・テムルは権力を回復するが、トコトら中央政府の軍閥により維持されていた軍事力が瓦解、軍事力は地方軍閥に依存する状態になった。

以後、江南を鎮圧するだけの大軍の編成がほぼ不可能となり、後の明の勃興を許す一因になった。

治世前期には重臣間の政争に介入していたトゴン・テムルも、その後は次第に朝政への興味を失い政局は混乱を深めた。

トゴン・テムルはかつて広西の配所で『論語』を学び、自ら詩文や書画を嗜むなど、漢族の文人皇帝に類似した気質があった。 皇帝は政治から遠ざかる。

そして、モンゴル王族に流行していたチベット仏教の秘儀に耽溺するようにもなっていた。トルイー11-31353年(至正13年)に立太子されていた王子アユルシリダラが成人すると、皇太子は生母奇皇后の支援を得て政権奪取を計画、

父・トゴン・テムル・ハーンに代わって朝政を掌握していたトゴン・テムルの側近たちと激しく対立し始めた。

ボロト・テムルの父タシ・バアトルは四川・雲南方面の反乱鎮圧に活躍し 元朝内の軍閥であった。

ボロト・テムルは早くから父に従って反乱軍の討伐に活躍し、父の死後にその軍を引き継ぎ 紅巾軍と戦い 河南、山東の各地を転戦し、紅巾軍を打ち破って大軍閥に伸し上った。

ココ・テムルは元末の騒乱に河南で軍閥を形成したチャガン・テムルの甥で養子でった。 1362年に叔父が山東で紅巾党との戦いで命を落とすと、

その軍閥と官職を継ぎ、山東の征伐で軍才を発揮し 一大軍閥を率いる将となった。

叔父の生前から敵対関係にあった山西・大同を本拠地とする軍閥ボロト・テムル将軍との敵対が深まり、山西南部の太原に入って ボロト・テムル軍と対峙していた。

この折、元の首都大都で トゴンウ皇帝の側近たちと、立皇太子アユルシリダラとの間で深刻な抗争が起こっていた。 ボロト・テムル将軍は反皇太子派に荷担した為 ココ・テムルは皇太子の側についた。

トゴン・テムルはこの政争の調停に影響力を発揮できず傍観していた。

1364年、皇太子派が反皇太子派を脅かした為に 反皇太子派のボロト・テルムが大同から兵を大都に進めて、トゴン皇帝を自らの掌中に置いて政権を奪取した。

皇太子アユルシリダラは都を逃れて太原のココ・テムルのもとに落ち延びた。

皇太子を迎えたココ・テムルは、皇太子親衛軍と連合してボロト・テムルとの決戦に臨み、翌1365年に大軍団で大都に迫った。 迎撃出たボロト・テムル軍は敗戦を重ね、ボロト・テムル軍中に内乱を誘発した。

ボロト・テムルは苦境に陥ると疑心暗鬼に陥って恐怖政治をひきはじめた。 当初よりその政権に不満を募らせていたトゴン・テムル・ハーンは ついに ボトロ・テムル将軍誅殺の密命を下した。

1365年7月、上都において味方が勝利したとの報を受けたボロト・テムルは、これを上奏するために宮殿に向かったが 建物の前の樹下に伏せていた刺客に襲われ、殺害された。

ココ・テムルは大都に入城し 皇太子を中央政界に復帰させた。

しかし、この内紛の間に江南では朱元璋が勢力を固めつつあった。

大都の元朝政府の政治力と軍事力は 内紛の結果 壊滅的な状況となっていた。

皇太子アユルシリダラが執政した。 トゴン・テムル・ハーンは 益々チベット仏教の秘儀に耽溺し 女官と戯れた。

1368年(至正28年)、元朝は江南で反乱勢力を統一し明朝を建てた朱元璋の北伐軍に敗退した。

ココ・テムル将軍も紅巾党・徐達により撃破され、明軍が河北に迫ると 皇太子アユルシリダラとトゴン皇帝は大都を放棄し上都に逃れた。

しかし翌年には上都もまた明軍により陥落、元朝王府はさらに北方に位置するモンゴル高原南部の応昌府に移動した(北元)。

1370年(至正30年)夏、トゴン・テムル・ハーンは応昌府で崩御し、皇太子アユルシリダラが即位した。

トゴン・テムル・ハーン崩御の段階では大元帝国はモンゴル高原を中心に勢力を維持し、東は日本海から西はアルタイ山脈まで支配下に置きていた。

他方、甘粛や雲南にも明朝に反対するモンゴル系勢力が存在し、明朝による中国支配は不安定なものであった。

トルイー11-4

【 1348年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、1351年には賈魯による黄河の改修工事をきっかけに白蓮教徒の紅巾党が蜂起した。

1354年には、大規 皇帝の権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めた。
模な討伐軍を率いたトクトが、彼が強大な軍事力をもったことを恐れたチゴン・テムル皇帝による逆クーデターで更迭、殺害され、

紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者達を打倒・収束して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。

朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都に迫った。

元朝王府のモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。

一般的な中国史では、トゴン・テムル・ハーンの北走によって元朝は終焉したと記述するが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンンゴル高原で存続した。

元朝は1368年をもって滅亡とは言えない、これ以降の元朝は北元と呼んでこれまでの元と区別するのが普通です。

だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐが、1388年にトグス・テムルが殺害されて、世祖クビライ以来の直系の王統は断絶する。

この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉える事には問題があります。

まず華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られた事によって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があり、大元帝国は騎馬遊牧民侵略国家ではなかった。

また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、

1367年に明軍に捕らえられた戸部尚書の張昶は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。

元朝に殉じた(漢民族の)官吏の数においては 激しい抵抗が行われた南宋(南宋官吏の殉死)に次いで多かったと言われる 】トルイー11-5

_____ 続く ______

*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/17/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/20/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中