成吉思汗・フレグ一党の覇権 (1) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

ジュチ一党3-1

 モンゴル帝国では 敵方であった人間集団や都市、国家を帝国側に吸収し、また友軍に成功したときに「仲間となる」という意味合いで「イルとなる」と表現した。

そのため、これに遊牧政権の君主を意味するハン(カン)を付したイル・ハン(イル・カン)は「部衆の君長」「国民の主」を意味し、

モンゴル帝国を構成する諸ウルス(領地・封地)において、必ずしもイルハン朝の君主のみが用いた称号ではなかった。

フレグは兄の大蒙古帝国第4代大ハーン・モンケにより蒙古高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征を命ぜられ、

1253年にモンゴル・カラコルムを出発、1256年に中央に送還されたホーラーサン総督に代わってイランの行政権を獲得し、イルハン朝がイラン政権として事実上成立させた。

フレグは1256年にニザール派(暗殺教団)を降伏させて イランの制圧を完了すると、1258年にイラクに入ってバグダードを攻略、アッパース朝を滅ぼしている。 西アジアの東部にモンゴル政権の確立です。

1260年、フレグはシリアに進出、 アッポレとダマスカスを支配下に置くが、兄・モンケ皇帝死去の報を受けて引き返し、さらに東アジアで次兄・クビライ(元世祖)と弟・アリクブケによるモンケの後継者争いが始まったことを聞いて イランに留まった・・・・・・・・・

ティムールー2-3

フレグはシリアから引きかえしたとき シリアに軍の一部を残したが、残留モンゴリ軍はマルクール朝(奴隷王朝)のスルタン、クトゥズとマルクール軍団の長・バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍にアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マルクール朝とは対立関係が長く続きます。

また、なし崩し的に西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とは同じノンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャン、

他方、チャガタイ・ウルスとは トランスオクシアナの支配権を巡って対立関係にあり、両ジュチ・チャガタイ・ハン国がオゴデイ家のカイドゥを 第5代大ハーン・クビライに対抗して大ハーンに推戴したため、

かえって 兄弟である クビライイの大元ウルスとフレグのイルハン国を 深い友好関係を保たせてしまった。

さらに キプタック・ハン国は マムルーク朝と友好を結んで イルハン朝挟撃の構えを見せ、対抗してイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んで 牽制していきます。

イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタイ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカ(第二代イルハン朝君主)がネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためだと言われています。

ソルコクタイ・ベキはジンギスハーンに壊滅されたナイマン王国の皇女でした。 父王・ブイルク・カンはキリスト教徒です。 東ローマとは国境を接しています。

イルハン朝は、フレグの征西にモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊で成っていた。

そのためイルハン朝の政権構造は モンゴル帝国全体のミニチュアと言って良く、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシャ人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。

君主・ハンは 本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、

また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景として たびたび激しい後継者争いが起こって行く。

その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われる状態に陥るのです。

激動の天山4-4

モンケは、モンゴル帝国の第4代皇帝(大ハーン)として推戴された。

モンケという名は、中世モンゴルル語で「永遠」を意味し、チンギスハーンの四男・トルイとその正妃・ソルコタニ・ベキの長男として生まれた。 正嗣子はシリギが一人である。 同母兄弟に次弟・クビライ、三弟・フレグ、末弟・アクリブケがいる。

若い頃から資質に優れ、父のトルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峯山の戦いで破って大勝を収めた。 1232年、父の死によりトルイ家の当主となる。

1235年、第2代モンゴル皇帝・オゴデイの下で、帝都・カラコルムのクリルタイ(王族・貴族、部族長の国会)において諸国への遠征計画が発議された。

その一つが ジュケ家の当主バトゥを総司令とするヨーロッパ遠征が決議され、各王家から次期当主クラスの王族・貴族達を選抜して 従軍させることとなった。

モンケもトルイ家当主として異母弟のボチェク(トルイの七男)とともに従軍した。

1236年に遠征が開始され、モンケは遠征軍の総司令官となったバトゥに従って、まずヴォルガ・ブルガ地方に侵入して首都・ブルガールを諸将筆頭のスベェディ(ジンギスハーン子飼いの4武将)とともに征服し、

ついで翌 1237年にはボチェクとともに キプチャク諸部族の首長・バチュマンを追い詰めて捕殺する武功をあげた。

1238年には カフカス方面に下って、オゴデイ家の六男・カダアン・オグルとともに アラン人たちの諸城の制圧に勤め、またルーシ諸国(ロシアの諸王国)征服においては 強国・キエフ攻略で戦功を挙げていた。

ジュチ一党3-2

蒙古帝国の正史・『元朝秘史』などによると、この遠征中の宴席でオゴデイの長男・グユクとチャガタイ家の王子・ブリが、総司令であるバトゥと諍い面罵したといい、

バトゥからこの報告を受けたオゴデイ皇帝は激怒して、グユクらを厳罰に処すためモンゴル本土へ召還するよう命じたと伝える。

『集史』によると、ブリは遠征軍に留め置かれたようですが、グユクは1239年の秋には軍を離れて モンンゴル本土への帰還の途に着いたといい、モンケはこれに監督者として随伴している。

遠征軍はそのまま西進してハンガリー王国、ポーランド王国への遠征を続行し、オーストリーのウィーン近郊まで接近している。

グユク、モンケの両人は 翌年には蒙古高原に到着したという。 しかし、カラコルムに到達する前に、 既にオゴデイ皇帝が死去していた。

もともと、祖父チンギスハーンの死後は、遊牧騎馬民族の習わし“末子相続”に従ってトルイがモンゴル皇帝(大ハーン)になるはずであったが、トルイが固辞したため、オゴデイが即位する経緯野中で、次期皇帝は トルイの息子であるモンケを新たな大ハーンとして擁立する約束があった。

『集史』などによると、オゴデイは生前、1236年に南宋遠征中陣没した嫡出の三男・クチュの遺児・シムレンをオゴデイ家の後継者として決めていたという。

そのため次期皇帝は このシムレンンかトルイ家の長男であるモンケを望んでいたと伝えられ、皇后・ソルコクタイ・ベキやモンケなどトルイ家の側にその旨内々に約束していたという。

≪ トルイの皇后・ソルコクタイ・ベキとジュチの皇后・ベクトミッシュ・フジンは姉妹です 従ってモンケとバトゥは従弟同士の関係で バトゥはモンケを支持している ≫

それらの約束もあり、さらに智勇兼備の名将であったことから、周囲からもオゴデイの後を継ぐ皇帝として モンケは望まれていた。

Triglav Sunset

モンケはヨーロッパ遠征軍に従軍したグユクが本国へ召還されたことに伴いこれに随伴し帰国していた。 皇位継承にいち早くその意向を示した。

しかし、グユクの生母・ドレゲネの政治工作もあって、グユクは不仲の従弟・バトゥの強硬な反対こそあったものの、モンケ陣営を抑え、

1246年8月24日、祖父・チンギスハーン即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイによって、大蒙古帝国第3代皇帝に即位した。

即位後 軍事面では南宋・イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めている。

そして自らもヨーロッパ遠征再開のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。

しかし、グユクは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面(ウルムチ北郊)で急死した。 43歳であった。

≪ この死は、過度の酒色で健康を害したための病死といわれている。 しかし ソルコクタイ・ベキが、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、

ベクトミッシュ・フジンに警戒する旨 知らせ、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を正史は示唆する ≫

モンケが 大蒙古帝国第4代皇帝に即位した。

フレグ(旭烈兀、1218年-1265年)は、イル・ハンの尊称で呼ばれた。

幼少時代については不詳であるが、1219年に早くも河南地方の彰徳路に所領を有していたようです。

1253年、兄・モンケ皇帝の勅命により西征軍総司令に任命され、イラン方面総督であったアルグン・アカ以下アムダリア川以西の帰順諸政権を掌握し、ニザール派、アッパース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した。

“フレグの西征”です。 1256年にはニザール派教主・ルクヌッデx-ン・フルシャーが投降、本拠地アラームト城塞が陥落。

1258年にはバクダードを征服し アッパース朝のカリフ・ムスタアスィム捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた。

1260年2月にはアッポレを攻略し、同年4月にはダマスクスを陥落さるなど、快進撃を続け次々と領土を広げて行った。

フレグー1-2

1258年、皇帝・モンケは 自身の実力に恃んで軍を自ら率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行、突出して侵攻した。

が、その途上、翌年7月末に重慶を攻略した後、合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって1259年8月11日に死去してしまった。

フレグの次兄・クビライと末弟・アリクブケが 皇位継承をめぐって争い=モンゴル帝国帝位継承戦争=を始めた。

フレグはアリクブケ側のチャガタイ・ウルスの通行を危険と考え、帰還せずに中東のイラン付近に留まり、1260年秋にイルハン朝を建国した。

この頃 ジュチ・ウルスから派遣され西征軍に従軍していた諸将・王侯があいついで謀叛・急死したため、バトゥの跡を継いだジュチ家の当主・ベルケはこれを不審視し、フレグとの間に深刻な対立を生じてしまった。

1264年に後継者争いに勝ったクビライが跡を継ぐと、フレグはクビライの大蒙古帝国第五代皇帝の即位を支持している。

フレグは 当時 アーザルバージャーン地方の州都であったダブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のアラタグ、コルデスターン州のシャフカーフを夏営地に、現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定しています。

また、アーザルバージャーン地方の古都・マラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させています。

1265年2月8日に マラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、ウルーミーエ湖湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。

同年4月に アバカが後継者として即位するのですが、 フレグの史跡と 彼の血脈を話しましょう・・・・

フレグー1-1

フレグー1-3

________ 続く_________

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