成吉思汗・フレグ一党の覇権 (2)  

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

フレグー2-1

大蒙古帝国第二代大ハーン・オゴデイ死去以後第三代皇帝・グユクとジュチ家当主・バトゥの対立などで一時、モンゴル帝国内で混乱が起こった。

が、モンケが第四代大ハーンに即位するとその混乱も反対派の粛清などによってひとまず収束され、再び大蒙古帝国は東西への大遠征がクリルタイで決議された。

モンケ皇帝は実弟クビライ、フレグにそれぞれ東アジア、西アジアの経略を委ねることを発表した。

イラン方面ではホラーサーン、マーザンダラーン両地方にはジンギス・ハーンの西征においてすでに一定の支配権を確立していたものの、

オゴデイの時代に設置されたイラン鎮戍軍とイラン総督府によって モンケの時代にはその影響力はイラン全土にまで及びつつあった。

そこで イラン方面で未だモンゴル帝国に服属しない二大勢力、イスマーイール派アッパス朝の打倒がこの遠征の最大の目的とされた。

フレグの目的がそれだけだとしたら、その軍勢はあまりにも多すぎるため 地中海への進出も計画していたのではないか。

『集史』には フレグがモンケ皇帝から統治権を委ねられたとする領域として、「アム川の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」という一句が頻出します。

しかし、成立したばかりのマムルーク朝のあったエジプト・カイロの征服も盛り込まれていたのではないかとも推測されるのです。

マムルーク朝;エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したアウンナ派のイスラム王朝(1250年 – 1517年)。

そのスルターン(君主)が、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれ、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。

後年、ジュチ家とフレグ家が封土問題で抗争を繰り返すおりに マムルーク朝はジュチ家と同盟する 】

フレグはイラン入りする過程で、先行してイラン方面の支配を担当していたイラン鎮戍軍とイラン総督府に加え、

ルーム・セルジューク朝、アタベク政権のサングル朝、モースル、ロレスターンなどのアタベクたち、ケルマーン・カラヒタイ朝、キリキア・アルメニア王国、グルジア王国などのイラン高原一帯の諸王侯・スルタンたちの伺候を受け、それらを支配下に置いた。

アタベク政権;テュルク系の政権の王族男子は死亡率が高く=戦闘での戦死のほか、暗殺や処刑など部下や王族同士による裏切りも多かった=

しばしば未成年の王子らが残された。 彼らを守るため有能な武将(アミール)らが後見人として指名され、ふつう王子の母親と結婚して養父となり、

王子に代わり執政し軍の指揮をとる。これがアタベクと呼ばれるものです。 彼らの中には奴隷や奴隷の息子の身分からそのまま軍の指揮官に上り詰めたものも多かった 】

さらに北インド・カシミール方面の鎮戍軍(カラウナス軍団)も モンケ皇帝の勅命によってフレグの幕下に加わり、大蒙古帝国勢力下の南西部にあった戦力のほとんどが、

フレグの指揮下となったことになり、20万以上の遠征軍となった。 全モンゴル軍の10分の1の兵士がフレグの軍に編成されていた。

フレグー2-2

アルグン・アカを首班とするイラン総督府と、バイジュ・ノヤン率いるイラン以西の鎮戍軍(タマ軍)の活動によってモンゴル帝国は イランの地の主要な拠点は押さえていたものの、

シ-ア派の一派、イスマーイール(ニザール)派の勢力が未だ蒙古軍団に反抗を続けていた。

「暗殺教団」とも呼ばれるニザール派は アラムートの城塞を中心とする難攻不落の山城群をアルボルズ山脈や南東部の山岳地域に築いていた。

それらを根拠地として、セルジューク朝時代から活動を続けていた。

一部はシリア地方にも展開しており十字軍にも恐れられたその暗殺技術によって周辺地域に絶大な影響力を誇っていた。

ニザール派第五代教主ジャラールッディーン・ハサン(ハサン3世)がイラン高原にやって来たジンギス・ハーンに臣従を誓っていたものの、

イラン支配の意図を明かにし始めたモンゴルとは次第に対立し始め、蒙古軍の部将が暗殺される事件などにより両者の関係はさらに悪化していた。

すでに、グユクの時代から 蒙古軍団によるニザール派の攻撃は計画されつつあった。

1254年、大蒙古帝国の宮廷を訪れたギヨーム・ド・ルブルク(フランシスコ会修道士)は、蒙古帝国の帝都・カラコルムに滞在中に

ニザール派の刺客400人が皇帝・モンケの命を狙って潜入したため、全市に戒厳令が敷かれたことを「東方諸国旅行記」で伝えている。

フレグー2-3

西アジア方面の経略を任されたフレグは 1253年蒙古高原を出発した。

全軍は非常にゆっくりと行軍し、1255年になって ようやくサマルカンドに到着、その後 キシュ(シャフリサブス、ウズベキスタン)でイラン総督・アルグンの出迎えを受けた。

そこで ようやくニザール派の攻撃を発表、イラン地方の諸勢力に参戦を求めた。

しかし、この頃 ニザール派第七代教主アラーウッディーン・ムハンマド(ムハンマド3世)が信徒に殺されてしまい、その後を長男ルクヌッディーン・フルシャーが継ぐと状況は一変した。

父・ムハンマド3世と違い フルシャーは蒙古帝国と妥協点を見いだし和平を結ぼうと交渉する路線をとり、盛んにフィレグに対して外交交渉を行った。

しかし、フレグは その巧みな外交手腕を発揮してフルシャーと駆け引きしつつ、1256年 ようやくアムダリヤ川を越えたモンゴル軍を動かし アラムートを中心とする山城群をじわじわと包囲させた。

フルシャーは なお フレグと交渉を続けようと試みたが、フレグは遂にイマーム及びニザール派の完全服従という無条件降伏を求める最後通牒を出し、本格的な攻勢にでた。

蒙古軍団との戦闘でニザール派側が勝利する場面もあったが、弩砲などの強力な攻城兵器が威力を発揮して籠城側の継戦意欲を挫き、ついにフルシャーは停戦を請い出城を約束する旨をフレグ側に伝えた。

フルシャーは身の安全を保障する勅書を作成するよう要請して来たため、ジュヴァイニー(13世紀後期にの政治家・歴史家)がこれを起草している。

フルシャーの出城をフィダーイー(刺客ともなる教団に献身する要員)たちが阻止するなどの動きがあったが、

1256年11月27日に 当時籠城していたマイムーン・ディズにてフルシャーが降伏・出城した。 これを機に諸城砦は次々にモンゴル軍に投降し ニザール派は事実上その活動に終止符を打たざるをえなかった。

フレグー2-4

ニザール派の教団をほぼ制圧した蒙古軍団は素早く旋回し、タマ軍と連動して動き 現在のイラク方面に軍を進めている。

バクダードを包囲する前、フレグはロイ族(イラン南西部に住むイラン人)との戦闘に勝利し、彼らを虐殺していた。

その二の舞になることを恐れたニザール派(暗殺教団)は 1256年に戦わずに難攻不落のアラムート城砦を引き渡したことは 先に述べた。

フレグはティグリス川付近で軍を東西に分割した。 アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル軍は撃退したが、東岸からの攻撃に耐えられなかった。

モンゴル軍はアッバース朝軍の後方の堤防を破壊し、水攻めを行い、アッバース朝軍の多くは成すすべ無く虐殺されるか溺死した。

フレグと郭侃(カンカク、元代の将軍 智勇兼備の名将で特に攻城戦には卓越した能力を持っていた)が率いる蒙古軍団が 1257年11月下旬に  バグダードを包囲した。

フレグー2-5

12万の蒙古軍団、カリフ陣営は5万であった。

郭侃の命令でモンゴル軍の中国人部隊が柵と溝を建築し、攻城兵器とカタバルトで難攻不落の城砦を包囲した。 フレグはカリフに降伏を勧告している。

攻撃部隊には 大規模なキリスト教徒の派遣団がいた。 主にグルジア人だった、彼らは破壊活動で活躍した。

アンティオキア公国(十字軍国家のひとつ)からのヅランク人部隊も参戦していた。 1000人の中国人の銃の専門家、アルメニア人、グルジア人、ペルシャ人、トルコ人といった現地の諸勢力を吸収したモンゴル軍は

圧倒的な戦力で二十日間に渡ってバクダードを攻めた、その攻撃には 当時でも最新の攻城兵器が使われた。

攻撃は1月29日に開始された。 モンゴル軍の攻撃は包囲攻撃の理論通りに迅速に行われ、2月5日にバグダードの城壁は モンゴル軍に破られた。

カリフ・ムスタアスィムはフレグと交渉しようと試みたが、時既に遅く、拒絶された。

バクダードは世界一の城砦都市である。 ムスタアスィムの抵抗は蓚酸を極めた。

ムスタアスィムは 1258年2月10日 降伏し 出城している。 ついに アッパース朝は降伏した。

モンゴル軍は2月13日にバグダードに流れ込み、それから1週間の間虐殺、強奪、略奪、破壊を行った。

カリフ・ムスタアスィムは 郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺、財宝の略奪を見せつけられた。

その後、蒙古軍や遠征に従軍するアルメニア王国やグルジア王国の軍などによって、一週間に渡りバクダード市街の内外で掠奪や殺戮が行われた。

カリフ・ムスタアスィムが出城して三日後に掠奪が始まり、2月16日に蒙古軍団に投降して市街地より外に出ていたバグダードの名士たちの懇願を受ける形で、

フレグが戦闘停止命令を生存者の生命・財産の安堵を布告して、バグダードの戦闘は終了した。

翌日 フレグは事後処理を幕下の将軍たちなどに命じ、自身は死臭を避けてバグダード郊外南西のワクフ村というところに陣を張っている。

その地で フレグは拘留していたカリフに処刑を通知し、1258年2月28日に カリフ・ムスタアスィムは側近たちとともにその地で処刑された。

ムスタアスィムは モンゴルが貴人の命を奪う際の方法である敷物でまかれ、軍馬に踏まれ、殺されたと伝えられています。

これは貴人に死を賜るときのモンゴル人の礼儀です。 モンゴル軍はムスタアスィムの二人の息子も殺害し、唯一生き残った息子は蒙古高原に送られた。

ティムールー2-3

多くの歴史的記述が蒙古軍団の残虐行為を詳しく述べている。 薬学から天文学まで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していた“知恵の館”は破壊された。

「蒙古軍によって虐殺された人の血でチィグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチィグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。

バグダードの城壁内に住む市民は逃げようとしたが、捕らえられ虐殺された。 兵士の死者50,000人、市民の死者90,000~1,000,000人と史書は記す。

1258年当時、バグダードは都市の運河によって数千年守られ、世界一輝かしい知の中心地だった。

蒙古軍による破壊は イスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。 既に イスラム教は保守的になっていたが、バグダードの略奪によって、イスラム教の知的な開花は消されてしまった。

古典哲学の都市・アテネが核兵器によって消滅する様を想像すれば、蒙古軍がどれだけ残虐であったか理解できるだろう。

また、蒙古軍は灌漑運河を徹底的に破壊したため、イラクは過疎化し衰退してしまったのです。

「鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。 金で作られ宝石で覆われた家具・調度品は破壊され、断片さえも粉砕された。

ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、彼らのおもちゃにされた。 蒙古軍団によって人が消え失せたのだ」 と史家は綴る。

モンゴル軍は降服を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊した。 が、降服した都市は破壊しなかった。 これはジンギス・ハーン軍団の戦術だった。

______ 続く_______

                     *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/21/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/23/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中