成吉思汗・フレグ一党の覇権 (3) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

 フレグー3-1

1258年2月10日 フレグ・蒙古帝国に占拠された以後のバグダードは イラーク・アラビー州の州都としてイルハン(フレグ・ウルス)朝の財政を支える重要な拠点となった。

さらにはイルハン朝君主の冬営地としてたびたび君主のオルド(莫舎)がバグダード郊外に営まれた。

陥落当初 アッパース朝から寝返ったカリフの宰相イブン・アル=アルカミーがバグダード行政を担当したが、程なく暗殺され、

1260年代以降は『世界征服者史』の著者でもあるアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー(フレグの秘書管長)がバグダードの知事として、亡くなるまで20年近く同地の行政を担いバグダードの復興に尽力している。

アッパース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝の支配を受けたのち、1410年にはテュルク系の黒羊朝、1469年からは同じテュルク系の白羊朝の支配を受け、

16世紀から17世紀にかけては、オスマン朝のスルタン(君主)とペルシヤ・サファヴィー朝のジャー(皇帝)とのあいだで争奪の対象となった。

すなわち、1508年にはシャーイスマーイール1世のサファヴィー朝、1534年には皇帝スレイマン1世のオスマン帝国、1623年にはアッバース1世のサファヴィー朝、1634年にはムラト4世のオスマン帝国と支配者が二転三転した。

このような支配者交替は、バグダートがトルコとペルシャの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスレムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っているのです。

しかし、この間 バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退していく。 特に ティムール朝開闢のティムールによる虐殺・強奪・略奪は激しく、城郭の形骸を残さぬ破壊であった。

フレグー3-2

フレグの旋回

遂に当時のイスラーム社会において最高の権威を誇るアッパース朝を屈服させたフレグは 一旦アゼルバイジャン方面に行き休息した後、

遠征の第三段階として 1260年 シリア・エジプト方面への侵攻を開始した。

かつての大国アイユーブ朝(エジプト、シリア、メソポタミアなどを支配したイスラム系の王朝、1169年~1342年期)の権力はほとんどなく、

まず ダマスクス(シリア)の君主アル・ナスィール・ユースフが敗れて捕虜となり蒙古軍団にくだる。 二月にはアレッポが、四月にはダマスクスが陥落した。

この時点でモンゴル軍は今までの軍に加えルーム・セルジューク朝(トルコ・アナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝)、モスル(世界有数の石油生産で知られる大都市、バグダード北西396km)のアタベク政権、

更に キリア・アルメニア王国、十字軍の諸勢力さえもモンゴル軍に参集しており、当時エジプトにはクーデターで成立したばかりのマムルークク朝があったが、もはやモンゴル軍団の侵攻を止めることは不可能に思われた。

だがしかし、アレッポを攻略したばかりの時に大ハーン・大蒙古帝国第四代皇帝モンケの崩御が伝えられた。

フレグはジュチ家当主・バトゥの欧州西征(ウィーン近郊まで侵攻)の時と同様撤退することを余儀なくされてしまう。

この時点では まだフレグは大蒙古帝国の帝位を狙おうと考えていたとも言われるが、ともかくフレグはキト・ブカを残しアゼルバイジャン方面に進軍している。

フレグはタブリーズ(テヘラン西北西約600km)に着いた折、皇帝モンケの次弟・クビライと末弟・アリクブケの抗争“大蒙古帝国帝位継承戦争”が突発した事を知ったが、

もはや自分が帝位を狙うのは不可能だと悟ったフレグは代わりに「イランの地」に遠征軍を中核として自分の勢力・帝国(フレグ・ウルス)を築こうと活動を始めた。

フレグー3-3

一方シリアに残留したキト・ブカは独自にアイユーブ朝に対して無謀な攻撃を行い、アイン・ジャールートの戦いで惨敗してしまうのですが、

さて、1253年に編成されたフレグの遠征軍は西進を続け、1258年にはバグダードを征服してスンナ派イスラム社会において最大の権威であったアッパース朝を滅ぼしていた。

遠征軍は遊牧の適地であるアゼルバイジャン方面にいったん入ったのち1260年にシリア北部へと侵攻し、アレッポを征服した。

蒙古軍には十字軍がシリアの北部に打ち立てたキリスト教徒の諸政権(下図参照、アンティオキア公国やトリポリ伯国など)やキリア・アルメニア王国、それにジャズィーラ・アナトリア方面のイスラム教徒の諸政権が服属していた。

しかし アレッポが陥落した1260年の春ごろ、フレグの兄で大蒙古帝国大ハーンのモンケ皇帝の訃報が届き、フレグの本隊は西進を中止して帰還を開始したのでした。

フレグは帰還にあたってナイマン族(アルタイ山脈東方に居住した有力部族)出身でネストリウス派キリスト教徒でもある先鋒部隊を率いる将軍・キト・ブカをシリアに残した。

キト・ビカは アイユーブ朝の政権が残っていたダマスカスを征服し、アイユーブ朝のエジプト政権にかわってエジプトを支配していたマムルーク朝に降伏を勧告する使者を送った。

しかし、マムルーク朝のアウルタン・クトゥズはこれを拒否したため、キト・ブカは麾下の蒙古軍とキリスト教徒諸侯を率い、アイユーブ朝領への侵攻を開始した。

アイユーブ朝の前には エルサレムを失ったエルサレム王国が拠るアッカー(イスラエル北部・西ガラリア地方の北部地区)があり、蒙古軍を率いるキト・ブカは この拠点城砦・アッカーに迫った。

キト・ブカ南下の報を受けたマムルーク朝のクトゥズは 配下のマムルーク(傭兵)を率い、カイロを出発した。

このマムルーク政権存亡の機に際し、追放されてシリア方面で放浪の日々を送っていたバイバルスら反アウルタン・クトゥズ派のマムルークたちはクトゥズと和解してその軍隊に加わった。

また、モンゴル軍に降ることを嫌ったアッカーのキリスト教徒たちは中立の立場を取ってマムルーク朝軍の領内通過を許した。

フレグー3-4

1260年9月3日、マムルーク朝軍とモンゴル軍は、ガラリヤの丘陵地帯で激突した。

戦場には小さな川が流れており、川はアラビア語でアイン・ジャールート(ゴリアテの泉)と呼ばれていた。

この戦闘をアイン・ジャールートの戦いと史書は言う。

先鋒隊のため1万人強の小勢であった蒙古軍に対して、数では優位にあったとみられるマムルーク朝軍は全軍を投入することを避け、まずバイバルス率いる先鋒隊のみがモンゴル軍の前に進んだ。

バイバルス隊に対して数で勝った蒙古軍は、マムルーク朝軍に突撃して一気に勝敗を決しようとし、後退を始めたバイバルス隊を追撃したが、

待ち受けていたマムルーク朝軍本隊によって包囲、攻撃され、蒙古軍団の定石を逆手に取られ 先鋒隊は壊滅した。

モンゴル軍の司令官キト・ブカは捕らえられて処刑されたとも、乱戦の中で戦死したともいう。

シリア駐留蒙古軍の壊滅により、マムルーク朝軍はダマスカス、アレッポを解放し、シリアを大蒙古帝国の頚木から奪還した。

フレグー3-5

アイン・ジャールートの戦いの後、マムルーク朝軍はシリアを北上し、モンゴル軍の残党や、シリアに再侵入してきた部隊を破りつつ シリアのほぼ全域を平定した。

しかし アレッポを回復したところで、先の戦いの功労者であるバイバルスと、総司令官であるアウルタン・クトゥズの対立が再燃した。

バイバルスは アレッポの総督に任命されてこの地方に自立することを目論んでいたが、クトゥズはバイバルスが独立して自分の地位を脅かすことを怖れ、これを拒否した。

このために アウルタン・クトゥズがカイロに凱旋する途上でバイバルスによる軍中クーデターが勃発した。

アウルタン・クトゥズが殺されてバイバルスが新しいマムルーク朝のスルターンとなった。

バイバルスはモンゴルの侵攻をはねのけた英雄として帝都・カイロに凱旋し、エジプト・シリアの王として確固たる地位を築いて行った。

その後も毎年のように行われたモンゴルとの戦争で連戦連勝を重ねたバイバルスは、中央アジアからやってきた余所者であるマムルーク(傭兵)たちを安定政権の主とすることに成功し、事実上のマムルーク朝の始祖となる。

一方、アイン・ジャールートの戦いを前に帰還を開始したモンゴル帝国のフレグはアゼルバイジャンのタブリーズにおいて、次兄のクビライと弟のアリクブケの帝位を巡って内紛が拡大し始めたことを知り、

また 帰還する途上のチャガタイ・ハン家がアリクブケ支援に回っている事を知り、この地に留まる決意を固め、イラン・イラクを勢力圏として自立した。

やがてフレグの子孫によって世襲されるようになるイランにおけるモンゴル政権をイルハン朝(イル・ハン国)・フレグ・ウルスと呼ばれる王朝を開闢する。

この“アイン・ジャールートの戦い”の結果、シリアはマムルーク朝の領域となり、その後もイルハン朝とマムルーク朝の間で この地方を巡って長く対立が続くものの膠着状態に陥った。

両国の角逐は ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)やビザンツ帝国(東ローマ帝国)、西ヨーロッパ諸国を巻き込み、13世紀の後半を通じて激しい外交戦が繰り広げられることになる。

フレグー3-6

大蒙古帝国拡大の限界点

このアイン・ジャールート戦は、マムルーク朝側の歴史家たちが残した同時代のアラビア語史料から現代の歴史研究に至るまで、ムスリム(イスラム教徒)がモンゴル帝国軍と正面から衝突して、初めてこれを破った戦いとして非常に名高いのです。

しかし、ムスリム政権の軍が大蒙古帝国軍に勝利した前例は、すでに1221年にホラズムシャー朝のジャラールッディーン(ジンギスハーンをして勇者と言わしめた)の軍団が

蒙古の将軍・シギ・クトク率いる3万騎強を撃ち破ったアフガニスタンのバルワーンの戦いがあり、厳密に言えば「初めて」ではありません。・・・・・前作 御参照・・・・・

一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシヤ語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いで記述している。

モンゴル側の立場としては、この戦いに参加した大蒙古帝国軍は、フレグの帰還にともなって シリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからでしょう。

他の大蒙古帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、“アイン・ジャールートの戦い”の戦いほどには印象が薄いようです。

“アイン・ジャールートの戦い”が印象的である理由は、恐らくその後のモンゴル側の政情が著しく変化し、シリア奪回の機会が失われ、結果的にこの地域がマムルーク朝の統治下に置かれることが確定した戦いであったからでしょう。

事実、イルハン朝では1260年以降 フレグ、アバカなどはジュチ・ウルスとはアゼルバイジャン地方で、また チャガタイ・ウルスとはハラーサーン地方での境域紛争に忙殺され、

バイバルスによる度重なるシリア境域地域の侵攻には対策が後手に回り続けているのです。

イルハン朝歴代の君主たちもガサン・ハンなど シリア地域に幾度か遠征軍を派遣しているが、大抵の場合、軍の規模もせいぜい3万前後がほとんどで アレッポ以南の地域への征服はほぼ失敗している。

クビライとアリクハブケの“大蒙古帝国帝位継承戦争”の後もモンゴル帝国自体、王家間の紛争が長期化・続発して帝国全体での軍事行動が不可能になったことも、

モンゴル側にとってのシリア地域における失地挽回の機会が失われた根本的原因であったのです。

いずれにせよ、西方におけるモンゴル帝国の際限のない拡大が停止したのが“アイン・ジャールートの戦い”のあった1260年であるのは確かであり、

その意味で象徴的な戦いでり、バトゥのヨーロッパ遠征からの撤退が世界史的なターニング・ポイントだったと言わねば成りません。

フレグー3-7

______ 続く ______

                      *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/22/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/05/24/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中