成吉思汗・フレグ一党の覇権 (4)

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

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フレグは兄の大蒙古帝国第四代大ハーン・皇帝モンケにより蒙古ル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征を命ぜられ、

1253年に蒙古高原・カラコルムを出発、1256年に帝都カラコルムに送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得した。

のちのイルハン朝がイラン政権として ホラズム・シャー朝に変わり、事実上成立した。

フレグは1256年にニザール派(暗殺教団)を降伏させてイラン制圧を完了すると、1258年にイラクに入ってバグダードを攻略、アッバース朝を滅ぼして西アジアの東部にモンゴル政権を確立した。

1260年、フレグはシリアに進出、アレッポとダマスカスを支配下に置くが、兄モンケ死去の報を受けて引き返し、さらに東アジアで次兄クビライ(元世祖)と弟アクリブケによるモンケ皇帝の後継者争いが始まったことを聞いてイランに留まり、ここに自立王朝としてイルハン朝を開いた。

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フレグはシリアから引きかえす折、シリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に“アイン・ジャールートの戦い”で敗れてシリアを喪失し、以来マムクート朝とは対立関係に入った。

また、なし崩し的に西アジア地域を占拠して自立したため、同じ大蒙古帝国内の政権ながら 隣接するジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とはホラズムとアゼルバイジャン地方で領有権問題が発生、

また チャガタイ・ウルスとはトランスオクシアナの支配権を巡って対立関係にあった。

1264年に後継者争いに勝った兄・クビライが モンケ皇帝の跡を継ぐと、フレグはクビライの大蒙古帝国第五代皇帝・大ハーン位を支持している。

更に 両ハン国がオゴデイ家(ジンギスハーンの三男)のカイドゥを第5代大ハーン(大蒙古帝国皇帝・クビライ、フレグの兄)に対抗して大ハーンに推戴したため、かえってクビライの大元ウルス(元朝)との深い友好関係を保った。

対立したキプチャク・ハン国はマムルーク朝と友好を結んでイルハン朝挟撃の構えを見せ、フレグのイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んで これに対応して行く。

【イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母・ソルカクタニ・ベキや、フレグの子で1265年にイルハン朝第二代君主となったアバカがネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためでしょう 】

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イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、大蒙古帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。

そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体の縮図・ミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、

さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。

ハン(君主)は 本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハン(君主)の座に望まれたため、

1282年のアバカ・ハンの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。

その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルス(封土・領土)そのものの崩壊の危機に見舞われるように成って行きます。

さて・・・・フレグは当時 アーザルバーイジャーン地方の州都であったタブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のアラタグ、コルデスターン州のシャーフクーフを夏営地に、

現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定している。

また、アーザルバーイジャーン地方の古都であるマラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させています。

1265年2月8日にマラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、オルーミーエ湖(綿花栽培用地下水の乱用でこの湖もアラル湖同様に今世紀中に消滅する、下図参照)湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。

同年4月に 後嗣・アバカが後継者として即位する。

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1253年に父・フレグが西方遠征軍司令に任じられると、アバカは弟・ヨシムトらとともにこの西方遠征に従軍した。

1263年暮れに ジュチ・ウルスのベルケとの不和から戦争になり、ノガイがカフカス方面から侵攻してきたが、フレグ西征軍はからくもこれを撃退した。

アバカは 一旦この後詰めとしてアゼルバイジャン地方に派遣され、再度侵攻して来たノガイの諸軍を撃退している。

その前後に フレグは西征軍が実効支配していた諸地方を諸子に統括するよう命じ、アバカをアムダリヤ川河畔に至る イラク、ホラーサーン、マーザーンダラーンの諸国の統治を委ねた。

1265年2月に父・ヒレグが没した時、彼はこのため ホラーサーン地方にいたが、ただちに弟ヨシムトが管轄していたタブリーズに上り、父・フレグの葬儀を済ませると、

同年4月に クリルタイ(皇族・貴族 有力部族長会議)を開催し、6月15日に西征軍の王族・諸将に推戴されるかたちでフレグの王位と西征軍全軍を継承し即位した。

アバカ(生没年 1234年-1282年)は、イルハン朝の第2代ハン(在位 1265年-1282年)。母は第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。

ジュチ・ウルス及びバラクとの戦い

イラン全土の諸地域をヨシムトやトブシンなどの兄弟たちに委ね、アフガニスタンやファールス、ケルマーンなどの諸地域は引き続きクルト朝やアルトゥク朝などのアタベク政権、カラヒタイ朝などの諸勢力の安堵を約束し、

財務官庁をワズィールのシャムスッディーン・ジュワイニーに、さらに バグダットの経営についてはワズィールの弟で、イラク地方へ派遣されたスンジャク・ノヤンの補佐官となった歴史家アターマリク・ジュワィニーに任せるなどして、諸地方の統治の整備をまず取掛かった。

原則的に 父・フレグの人事を追従している。

翌7月初旬にはノガイの再三に渡る侵攻に対し ヨシムトの派遣を行い、これを撃退に成功。

今度はベルケ自身が親征するところとなり、クラ川渡河のためにグルジアのティフリス近郊まで大軍を率いて迫ったが、この地でベルケが急死し、ジュチ・ウルス軍は撤退した。 北方の脅威は一端は納まった。

ノガイ; ジュチ・ウルスの有力者。 ジンギスハーンの長男・ジュチの血を引く王族。 ジュチ七男・ボアルの長男タタルの子、ジュチョチの曾孫である。

バトゥ・ハンの時代から、ジュチ・ウルス右翼諸軍に属していたボアル家の後継者として活躍し、ベルケ・ハンの時代、1260年にフレグ西征軍に参加していた同じ従兄弟であったトタルが反乱罪の嫌疑で処刑され、

シバンの4男・バラカンやオルダ次男のクリが不審死する事件が起きた。 これら一連の事態を ノガイはフレグの陰謀と見なしていた(記載済み前章をご参照して下さい) 】

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しかし 1269年、東方のチャガタイ・ウルスの当主位をムバーラク・シャーから奪ったバラクが、カイドゥとモンケ・テルムと協定を結び、そのままアムダリヤ川を渡って親征し、ヘラート近郊まで侵攻してきた。

アバカは自ら諸軍を率いて、1270年7月21日に ヘラート南部のカラ・スゥ平原の戦いでこれを迎撃・撃破し、大勝をおさめた。

この戦いに前後して アバカはカイドゥと協定を結んで休戦している。

このカラ・スゥ平原の戦いが終わり、アーザルバーイジャーン地方へ帰還した同年11月6日に、マラーゲ南部のチャガトゥ地域での宿営中に

クビライ・大蒙古帝国第五代皇帝から フレグの位を継ぎ イラン地域の支配権を委ねてハン(君主)となるようにとの旨を伝える使者が訪れ、勅令(ヤルリグ)と王冠などがもたらされている。

こうして 1270年11月26日、大蒙古帝国第五代皇帝・クビライ・ハーンの承認の許に改めてイルハン朝のハンとして同地で第二の即位を行った。

同じ時期にジュチ・ウルスのモンケ・テルムからも バクラとの勝利を祝してハヤブサや鷹などの贈物を携えた使者を接見しており、ジュチ・ウルスとの友好を一先ず回復させることが出来た。

この様に クビライ(大元ウルス)及びモンケ・テルム(ジュチ・ウルス)との友好を保ちつつも、カイドゥ(チャガタイ・ウルス)とも和平を結び東北国境の安定にも一応の成功をおさめた。

しかし、この年の暮から翌年にかけて 弟君ヨシムト、トブシン・オグルに加え、生母イェスンジン・ハトゥンが没している。

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1273年の夏に、アバカはチャガタイ家やオゴデイ家から侵攻を危惧して ブハラの住民をホラーサーン地方へ移住させるよう命じたが、ブハラに駐留していた部隊がこれを違えて掠奪と殺戮を行う事件が起きた。

アバカはこれを指揮した部隊長を処罰したが、カイドゥ陣営へ逃亡したマスウード・ベクのマドラサ(学院)なども軒並み掠奪に晒されるなどブハラの市街地とその周辺は破壊が凄まじく、復興に至るまでこの地域は7年ものあいだ無人状態に陥ったと伝えられる。

1273年7月6日には イラン・ホラーサーン総督として辣腕を振るったアルグン・アカが、翌1274年6月24日には大学者なすィールッディーン・トゥースィーが歿し、アバカの有力な参謀が他界していった。

マムルーク朝のバイバルス / カラーウーンとの戦い

1275年頃からはエジプトのマムルーク朝・バイバルスらにシリア境域を何度か侵攻を受けはじめるようになった。

1277年に バイバルスが死去して継承争いが始まるといったんは収束したが、内紛が鎮まってカラーウーンが登場、マムルーク朝の政権を担うと、彼による侵攻を受けるようになった。

1281年 イルハン朝・アバカは カラーウーンとシッリア領有をめぐって戦ったが 敗れてしまった。

そして、 1282年4月1日、モースル近郊で没し、父・フレグの墓所であるウルーミーエ湖東岸のシャーフー大禁地に埋葬された。

死因はアルコール中毒だといわれる。 もともと酒豪だったが、前年の敗戦でさらに酒の量が増したのではないかといわれている。

アバカ・ハンは 父と婚約の予定であった東ローマ帝国皇帝ミカエル8世・バレオロゴスの皇女・マリアと結婚している。

彼自身 ネストリウス派キリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったため、ビザンツ帝国(東ローマ)と結んでマムルーク朝などのイスラム教勢力と対立、インギランドド国王・エドワード1世とも交渉を持っていたのです。

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カラ・カウス平原の戦い

チャガタイ・ハン国のバラクは タラス会盟において ジュチ家の当主モンケ・テムルとオゴデイ家のカイドゥとともに、当時混乱状態にあった中央アジアを分割したものの、現状に満足せず、カイドゥに勧められるままに西方へ フレグ・ウルスへの遠征を決意した。

_______ 続く_______

                     *当該地図・地形図を参照下さい

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