成吉思汗・フレグ一党の覇権 (5)

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

チャガタイー3-4-1

カラ・カウス平原の戦い

 チャガタイ・ハン国のバラクは タラス会盟において ジュチ家の当主モンケ・テムルとオゴデイ家のカイドゥとともに、当時混乱状態にあった中央アジアを分割したものの、現状に満足せず、カイドゥに勧められるままに西方への遠征を決意した。

もともと ジュチ・ウルスなどとは違い、フレグ・ウルスは第4代大ハーン・モンケの死去とそれに伴う帝国内の混乱(帝位継承戦争)に紛れて成立したもので、正当性は薄く、

シルクロードの交易に伴うイランの富への羨望も重なって、中央アジアのチャガタイ家、オゴデイ家の諸勢力は続々とバラクに合流し、バラクの軍はたちまち大勢力となった。

一方、フレグ・ウルスはまだ成立したばかりの上、マムルーク朝やジュチ・ウルスとの対立を抱えており、動員できる兵力はバラク軍に比べ圧倒的に少なかった。

しかし、アバカはバラク軍を撃退することを優先的に決定、1270年4月 アゼルバイジャンを出発し、途中軍勢を整えながらホラーサーン方面へと進軍を開始した。

途中、アバカは一度捕らえた間諜をわざと離すことで、バラク軍に対し罠を張った。

急いでバラクの下に戻った間諜は、アバカ軍が進軍はしてきたものの バラク軍を恐れて退却を始めたと報告した。

これを裏付けるかのように、アバカがわざと放棄した天幕や食料が発見されたことで、元々あまりの大軍に浮かれていたバラク軍の首脳部は、アバカ軍の解体をあっさりと信じた。

会戦を覚悟していた将兵の緊張は緩み、酒宴が行われるなどすっかり油断した状態で進軍が続けられた。

一方、アバカはカラ・スゥという川の流れる平原を戦場に決め、バラク軍を待ちかまえた。

ジュチ一党2-2-2

突如出現したアバカ軍に バラクはさすがに動揺したが、かろうじて隊列を整えて戦いに挑み、モンゴル帝国史上屈指の規模の会戦が始まった。

戦闘が始まると、まずバラク軍の将軍・マルガーウルが戦死した。

将軍・ジャライルタイは将兵の士気の低下を防ぐため、バラクの許しを得て アバカ軍の弱点である、イラン兵を含む混成部隊である左翼に突撃してこれを潰走させ、そのまま追撃した。

しかし アバカ軍の中軍・右翼はバラク軍の攻撃にかろうじて持ちこたえ、アバカは弟のヨシュムトに命じて左翼を補強させた。

アバカは 自軍を 追撃に全力を注いでおり、隊列の乱れつつあったジャライルタイ軍に当たらせ 敵軍最強のジャライルタイ軍を撃退した。

戦況は依然として バラク軍が優勢ではあったものの、ついに アバカは全軍に総攻撃を命じた。

この時90歳を越える老将ノヤン・スニタイが戦場のさなかで床几に腰を下ろし、アバカへの報恩を説いた上で

「勝利か、然らずんば死あるのみ」と将兵を叱咤激励したことでアバカ軍の士気は大いに高まり、3度目の突撃でバラク軍は潰走を始めた。

烏合の衆となった敵軍を追撃し、その多くを討ち取ったが、ジャライルタイ軍が必死で退路を確保したこともあり、バラクはなんとか単身ブハラに辿り着いた。

しかし、残った部下の多くは彼を見限ってカイドゥに服属し、バラク自身も再び対立関係に戻ったカイドゥとの会談の前夜に急死した。

こうして 中央アジア方面は再び混乱状態に戻ったものの、逆にフレグ・ウルスはその勝利によって基盤を強固なものとなった。

【 尚、バラクの死には、カイドゥに毒殺されたとする説が有力です 】

フレグー5-5

テグデルは 1265年にフレグ・ハンが没した時、モンゴル本土からアバカの生母イスンジン・ハトゥンが アバカのいるイラン方面へ到着したとき、

自らの母であるクトゥイ・ハトゥンや兄テクシン、甥・ジュシュケブ、キンシュウといった兄弟・親族達とともにこれに付き従ってアバカ宮廷に迎えられた。

1282年4月にフレグ・ハンの長男・アバカが没した後、イルハン朝内部では後継者を巡り クリルタイ(王族・貴族、有力部族長の国会)で対立が起きた。

テグデルの異母弟であるアジャイ、コンクルタイ、フラチュらやフレグの次男・ジョムクルの遺児であるジュシュケブ、キンシュウといった王族たち、および彼らの幕僚たちはテグデルの推戴を望んだが、

一方でアバカの長男であるアングルを推すアルクやブカといった譜代の部将たちなどのアバカ家のグループ、
さらにフレグの第四正妃であるオルジェイ・ハトゥンは自子でフレグの十一男・モンケ・テムルを推すなど、三つのグループに別れて後継者の選定は紛糾した。

しかし、モンケ・テムルが アバカの没後一ヶ月を待たずに急死する。

このためオルジェイ・ハトゥンはアングンの推戴に賛意を表したが、ヤサ(ジンギスハーンが制定した法典)の規定では君主位の継承は 宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった。

これは特に先代のアバカの即位の例を意識したものであった。

フレグ・ハンがモンゴル本土の第四代蒙古帝国皇帝・モンケの許に残し、当地のオルド(幕営地・宮廷)の管理を任せていたフレグの次男・ジョムクルは1264年に既に没しており、3男・ヨシムト、4男・テクシン、5男・タラガイ、6男・トプシンらも没していた。

結局 アングン陣営で譲歩する動きがあり、モンケ・テムルの死の10日後にあたる 1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテクデルは即位することとなった。

テクデル(生没年 ? -1284年)が イルハン朝の第3代君主(在位1282年-1284年)戴冠した。

初代君主・フレグの7男、フレグの第3正妃であったコンギラト部族出身のクトゥイ・ハトゥンとの息子であり、同母兄に4男のテクシンがいる。

フレグ家の王族でムスリム(イスラム教徒)になったことが確認できる最初の人物でもある。

フレグー5-1

戴冠の翌月 1282年6月21日に再度王族、諸侯、諸将からの忠誠の誓約によって玉座につき、イスラームを信奉していたことにより、スルターン・アフマドと称することが宣言された。

テグデルは即位すると、自らのイスラームに対する信奉を内外に表明することに努め、マムルーク朝のスルターン・カラーウーンに親書を送ってこれと友好を築こうとし、バグダードのモスクやムスタンスィリーヤ学院などの諸所のマドラサ(学院)に多大なワクフ(寄付・寄進)を進めている。

また、讒訴によって投獄されていたバグダードの長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー(アバカ・ルハン朝に仕えた政治家・歴史家)を釈放して 再びバグダードの管理を任せている。

これらの政策のため、アルメニアやネストリウス派などの国内のキリスト教勢力や仏教勢力は保護年金の打ち切りや、寺院などをモスクに改修する命令などが出されたと伝えられています。

1284年、ハラーサーンを領有していたアルグン(アバカの長男)は 自らの即位を望んでテグデル・ハンに対して叛乱を起こした。

これはアルグンが ホラーサーンのみならずイラーク・アジャミーやファールス地方の王領地を譲渡するように迫ったのをテグデル・ハンが拒否したことがきっかけだったが、

テグデル・ハンとしてはこの要求は到底受け入れられないものだった。

テグデルは自らの即位に功績のあった弟・コンクルタイがアルグンと内応して 自分を謀殺しようとしている、という情報を得たためにコンクルタイを処刑した。

アルグンがホラーサーン、マーザンダラーンの諸軍を率いてテグデル・ハンのいるアゼルバイジャン地方に迫ったが、カズヴィーン郊外でテグデル・ハンの娘婿でもあったアリナク率いる1万5000騎と交戦した。

この戦いでアルグンは敗退した。 テグデルもモンゴル軍、アルメニア軍、グルジア軍などの8万の諸軍を率いてタブリーズから出征し、アルグンを訴追しようとしたが

アルグンは アナリクが自らの所領を略奪したために出征したのであり、テグデル・ハンとの対立は望んでいないと釈明した。

またカラウナス軍団(諸侯勢力)はアルグンを支持しており、テグデル・ハン陣営もアルグンを支持する勢力の多さからこれと和議を結ぶべきであるという主張がされた。

このため テグデルはアルグンと和平を結んでいる。

しかし、1284年6月 テグデルはアルグンが友好の印として白馬を献じるために宮廷に参内した折、歓待したが 彼の臣従の誓いを認めたものの アルグンを拘束しアリナクの監視下に置いた。

7月、アルグンの幕僚であるブカが王子ジュシュケブとフラチュに、テグデル・ハンはイスラームの信仰に染まってジンギスハーン家を絶滅させようとしている、と偽ってアルグンを救出する計画に加担するように説得した。

アルグンは夜中にブカの配下のたちに救出されて アルナクを殺害し、王子アルク、フラチュらはアルグンを擁護した。

フレグー5-2

テグデル・ハンは秘かにアルグンが救出された知らせを受け、これを再度討伐すべく軍を編成させたが、幕僚の要将たちがすでに殺害されているという知らせを受けると彼は母后クトゥイ・ハトゥンのオルドがあるサラーブまで逃走せざるをえなくなった。

しかし、クトゥイ・ハトゥンのオルドでは 既にアルグンが王族10人と高位の将軍たち60人からの支持を受け、この地はアルグンが支配していることが知られていた。

彼ら王族たちによって テグデル・ハンへの逮捕命令が出ていたこともあって、テグデルは拘禁されてしまった。

カラウナス軍団がクトゥイ・ハトゥンのオルドに到着し、テルデル・ハンは彼らの手に拘引され、クトゥイ・ハトゥンのオルドは掠奪を受けた。

アルグンらは遅れて到着し 混乱を収束させてテルグル・ハンを尋問した。

アルグンはハラーサーン領有に満足していたためテルグル・ハンに叛意はなかったことを表明し テルグル・ハンを責め、謝罪を要求している。

また、テルグル・ハンの母クトゥイ・ハトゥンは非常に尊敬を受けていたため、アルグンや諸将は彼を赦免するつもりだったが、

フラチュ、ジュシュケブらがハマダーンで兵を集結させているとの知らせがあり、さらに 即位に功績のあったコンクルタイ(テルグル・ハンの腹違いの弟)の母親・アジュージャ・エゲチや彼の諸子らが復讐を強く望んだためもあり

アルグンは 事態の早期集結を臨み、コンクルタイ処刑の報復として 1284年8月10日に テルグル・ハンの処刑を言明した。

その処刑方法は自らの背骨を折られるというものだったという。 モンゴルの王族・貴族に対する血を流さない儀礼であった。

フレグー5-3

アルグンは一時離反した叔父のフラチュと和解すると、弟・ガイハトゥらの推戴を受けて、マラーガ近傍のハシュトルード川とクルバーン・シラとの間にあったカムシウンという夏営地においてクリルタイを開催し、1284年8月11日に即位した。

イルハン朝の第4代君主(在位1284年8月11日-1291年3月10日)。 第2代君主・アバカの長男。 アバカの側室の1人カイミシュ・ハトゥンの息子。 第5代君主・ガイハトゥの兄で、第7代君主・ガサン・ハン、第8代君主・オルジェトゥの父です。

1286年2月24日、大蒙古帝国皇帝・クビライ(大元ウルス創始者)から勅書を奉じた使者が来訪し、アルグンにハンの称号を与え、アバカの君主位継承が追認されたている。

フレグー5-4

______ 続く_______

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