成吉思汗・フレグ一党の覇権 (7) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

チャガタイー3-5-1

1284年、アルグンが イルハン朝第四代皇帝に即位すると、弟ガイハトゥやアルグンの長男・ガサンなど自らの即位を擁護した王族たちを各地に分封し、バイトゥもバグダードの統治権を任された。

1291年3月、アルグンが低地のアッラーン地方で幕営地中に没した。 その直後、バグダードに居たバイトゥはルーム地方(アナトリア、小アジア)にいた実弟・ゲィハトゥよりも早くその訃報を受けた。

バイドゥは 麾下の諸将から推戴を受けたものの、アルグンの弟・ゲィハトゥからの報復を怖れて警戒し、「チンギスハーンのヤサ(規範・憲法)に従えば、先主の後継者にはその子か兄弟に帰するべきであり、自分には相応しくない」と述べて辞退した。

ゲイハトゥに服従の誓約書を差し出し、彼がイルハン朝第五代皇帝に即位するのに同意した。

1295年、従兄弟でイルハン朝の第5代君主であったゲイハトゥ・ハンが失政を続けて人望を失っているのを見て、バイドゥは反乱を起こして イルハン朝第四代皇帝・ゲイハトゥ・ハンを捕らえて処刑した。

そして、自ら第六代の君主として即位した。

しかし、即位からわずか半年後、ガサン(第4代君主アルグンの子)に反乱を起こされて廃位された上、処刑されてしまった。

バイドゥ・ハンの息子は、キプチャク、アリー、ムハンマドの3人が後嗣として知られている。

この内、キプチャクはバイドゥ・ハンとともに処刑されたが、他の子息たちは免じられ 放免された。

後年に このバイドゥ・ハンの息子アリーの子がアブー=サィード(イルハン朝第9代君主)が没した後に イルハン朝の君主位を争った王族のひとり、ムーサーである。

ムーサーは イルハン朝の第11代君主(在位:1336年 – 1337年)。 イルハン朝第6代君主・バイドゥ・ハンの子アリーですが、イルハン朝を崩落への坂道に誘うことになります。

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カザン・ハン

カザン・ハン(生没年、1271年-1304年)は、イルハン朝第七代君主として自らのクデターで先代君主・バイドゥ・ハンを葬り、即位・戴冠した。

第4代君主・アルグン・ハンの長子で、第8代君主・オルジェイトゥの兄に当たる。 彼の在位期間は1295年より1304年と史書は記す。 24歳で君主の座に座り、9年間の施政である。

意欲的な施政であり、イスラーム世界に身をおく現実を捉え 改宗をも決断する。

1291年に父アルグン・ハンが没した後、父の弟であるゲイハトゥが後を継いで君主となったが、 失政を続ける君主・ゲイハトゥ・ハンの政治に憤り・不満を覚えたバィドゥは ゲイハトゥ・ハンを殺害した。

1295年の事件であり、バィドゥはゲイハトゥ・ハンの従兄弟に当たる。

カザンはその半年後、バィドゥ・ハンに対して反乱を起こして彼を滅ぼし、イルハン朝の第七代君主として即位したのですから、君主継承に関する権力闘争の伏流があった。

ガサンは、父・アルグンが即位する以前の1284年には 既に チャガタイ家の王族ウマル・オグル(チャガタイの次男モチェ・イェベの次男で、フレグの西征に参加したネグデルの長男)とともに、多数のアミール(武将貴族)らと、

父・アルグンと君位継承闘争を続けていたアフマド・テグデルへの和平工作に臨んでおり、早くからオラーサーン方面の諸軍を統率する立場にあった。

施政者であるモンゴル部族の有力者・諸アミールの中に在って、父・アルグンの即位以前から ホラーサーン方面を統括していた実績の上に、

テグデル・ハンの討滅によって自ら即位することになったアルグン・ハンの愛息子として、ガザンは父に成り変わり東方領域の統括をも任される事となった。

アルグン・ハンは1284年の即位のおりにイルハン朝の諸地方をフレグ家の諸子に分封している。

すなわち、バグダードの統治権従兄弟の王侯バイドゥに、ディヤールバクル方面の統治権は同じく従兄弟でフレグの次男ジョムクルの嗣子・ジュシュケブに、

ルーム方面はフレグの十二男フラチュに、グルジア方面はフレグの八男アジャイに 等々り、そして アルグン・ハン自らの嗣子・ガサンには

ホラーサーン、マーザンダラーン、レイを含むクーミス地方が与えられ、その副官(ナーイブ)にジュシュケブの弟である王侯・キンシュウとアルグン・アカの息子で東部カラウナス万戸隊長であったノウルーズを付けている。

バイドゥ、ノウルーズらは ガザン・ハン登極までに ガザンとイルハン朝内部の覇権を争った人物であり、先君・アルグン・ハンの治世中でもその動向は不穏でありたびたび叛乱・離反をくり返していた。

ガザン・ハンは王族・諸部族長同士の紛争が絶えなかったフレグ・ウルスで、成人したばかりの十代前半からその渦中に少年青年時代を生きたのです。

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ガザンは、本来 父・アルグンの影響で仏教を信仰していた。 フレグ家がイスラームに改宗する以前は、チベット仏教などに多大な寄進を行っていたことが判明しており、また 元朝などはチベットの高僧を国師に迎えている。

ガザンの封領・ホラーサーン地方のハブーシャーンにおいて数座の仏寺が建立され、また首都タブリーズにおいては フレグ時代に遡る仏寺の遺跡が二ケ所現存している。

ガザン・ハンのイスラームへの改宗は バイドゥとの王位継承戦において、先のノウルーズが苦境に陥っていたガザンに、ガザン自身がイスラームに改宗する事によって イスラーム教徒の支持を受けられることが出来ると力説した話が伝えられている。

当初 ガザン・ハンはこれを即決出来なかったようだが、再びノウルーズからフジュラ暦690年(西暦1290年)代に「イスラームの帝王」が出現しイスラームの宗教と民衆を復興するだろうという予言を聞くに及んで、改宗の決断をしたと史書にあります。

1294年6月16日(ヒジュラ暦694年シャアバーン月1日)に ラル・ダマーヴァンド平原の父ゆかりのクーシュク(亭舎の類)において、沐浴と衣替えなどの決斎ののち玉座のもと、特別に設えた王族用のテント式移動用モスクでシャハーダ(信仰告白)を行いイスラームに改宗した。

このシャハーダを先導したのはクブラヴィー教団の高名なシャイフ(部族の長老、首長、崇拝される賢人)であったシャイフ・サドルッディーン・イブラーヒームという人物だったことが知られており、これにならってガザン・ハン麾下の諸将および兵士諸軍が イスラーム教への改宗に連なったという。

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1295年10月4日に ガザンは 父親同様に バィドゥ・ハンに対して反乱を起こし バィドゥ・ハンを討ち破りイルハン朝の第7代君主即位した。

ガザン・ハンは即位にあたって公に「イスラームの帝王」を自称し、ムスリム名として“マフムード・ガサン”を名乗った。

これに伴い即位初年の勅令(ヤルリグ)は イスラーム以外の主要建造物、すなわち仏教寺院(ブトハーネ、マラブード)、ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発せられ、

キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙ったという。

既にテグデル・ハンの時代に テグデル自身も含め モンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、このガザン・ハンの治世によって、イルハン朝は既存のモンゴルの国家体制や慣習などを維持しながらも国家規模のイスラーム化を推進していくこととなる。

さらに1298年、改宗したユダヤ徒の一族に属すであるラシードゥッディーンを宰相にして財政改革やイルハン朝の支配体制強化に努めた。

また、ガザン・ハンは1300年、ラシードゥッディーンにガザンの治世に至るジンギスハーン家諸王家と、大祖父フレグの遠征以来イルハン朝領内に展開していたテュルジュ・モンゴル系諸部族の歴史をまとめた『モンゴルル史』の編纂を命じた。

これはカザン・ハン没後の1310年に次代のオルジェイトゥ・ハンの命で再編集・完成して14世紀以降、イラン・中央アジアで最大規模の歴史書である『集史』となり、その後のオスマン朝を含むこれらの地域の歴史叙述に決定的な影響を及ぼした。

これらの施政によって政治的・文化的にイルハン朝は大いに発展した。

1304年5月17日、しかし 若干 34歳の若さで病死してしまった。

遺骸はタブリーズへ運ばれ、生前タブリーズ郊外のシャンブの地に建設したガーザーニーヤという名のワクフ複合施設の廟墓に埋葬された。

ムハンマド=ガザン・ハンの後は、弟のオルジェイトゥが兄の指名通り君主(ハン)位を継いだ。

この英明・ガザン・ハンと後を継いだオルジェイトゥ・ハンの 2人の名君の時代に、イルハン朝は全盛期を迎えることとなったのだが、彼ら兄弟はいずれも寿命と在位期間が短かったことが、その全盛期を短期間で終焉させ、イルハン朝を滅亡へと迎えさせる一因となってしまったのです。

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ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー

1301年に、ガザン・ハンの特命によってモンゴル史の編纂を命じられた。 ガザン在世中に この編纂業務は完成せず、次代のオルジェイトゥ・ハンの時に『幸福なるガザンの歴史』として献呈された。

オルジェイトゥ・ハンは、さらにこの「モンゴル史」の部分を第1巻とし、古代やアラブ、中国、インド、ヨーロッパ(フランク)などの「世界史」の部分を第2巻として集成することを命じた。

増補改定版を新たに編纂するよう命じられたラシードゥッディーンは、十三年の年月を費やし 1314年に 復命・完成した。 これが歴史書『集史』です。

この歴史編纂事業は、ガザン・ハンの改革の大きな柱のひとつであり、アバカ・ハン(イルハン朝第二代君主、創建者フレグの長男)の没後 =1282年以降153年間に四名の君主が相克した=

長らく続いた内紛によって解体し掛かっていたイルハン朝領内のモンゴル王族とモンゴル諸部族の系譜の再認識と、内戦に打ち勝った自政権の正統性の主張を志向したものであったと現在考えていいでしょう。

ラシードゥッディーン・が『集史』で述べるところによると、ガザン・ハン自身から直接ジンギスハーン家の王統について口述し、

大元朝からの使者として派遣されゲイハトゥ以来 イルハン朝に仕えるようになったブーラード・チンサンから東方の諸王家の動静について、

モンゴル諸部族の伝承については古老などから、インドなどについてはカシュミール出身の仏教僧などから、

また王家の宝庫に秘蔵されていたジンギスハーン家の歴史書『アルタン・デブテル(黄金の秘冊)』の閲覧を許可されて編集に用いたという。

当時、いや 以降も この“アルタン・デブテル”はジンギスハーン直系の“アルタン・ウルク”以外は手にして読むことだ出来ない秘冊なのです。

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実兄ガザン・ハンの存命中、ハラーサーン方面全域の統括を任されていたオルジェイトゥは 兄が掲げるイルハン朝国家の大規模な改革政策を良く理解し、全面的にこれを補佐した。

カザン・ハンも弟・オルジェイトゥをよく信頼しており、わずか9年の治世であったが、軍政などの諸改革に邁進できた背景には近親であるオルジェイトゥらの助力が大きい。

1304年5月に ムハンマド=ガザン・ハンが没した時、オルジェイトゥは任地・ホラーサーンでその訃報に接した。

ゲイハトゥ・ハン(イルハン朝第5代君主)の嗣子アラーフランク擁立の動きを察知すると、ただちに討滅させている。

そして、同1304年7月に、アゼルバイジャン地方のウージャーンの地で王妃王族、部将たち、廷臣らを参集させてクリルタイを開き、イルハン朝第五代君主に推戴された。

23歳の青年君主であった。 行動力に富む駿馬であった。 が、座位い期間は12年 兄・ガザン・ハンの9年よりも長かったが 惜しまれて他界する。

その施政は 兄の目指したイラン・イスラーム的なモンゴル国家像によるイルハン朝再建の政策を引継ぎ、国内の財政と軍政、宗教問題などの安定化、モンゴル帝国諸王家との融和政策にも取り組んだ。

その過程で シーア派改宗宣言をしたことでも知られる。

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_____ 続く ____

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