成吉思汗・フレグ一党の覇権 (8)

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

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 オルジェイトゥ・ハンの生没年は(1281年 – 1316年)です。イルハン朝の第八代君主、英明な君主(ハン)であった。 オルジェイトゥ・ハンの在位は1304年に始まり、1316年に退位している。

 第4代君主・アルグンの第3子で、第7代君主・ガザン・ハンの弟に当たり、兄の目指したイラン・イスラームム的なモンゴル国家像によるイルハン朝(フレグ・ウルス)再建の政策を引継いだ。

国内の財政と軍政、宗教問題などの安定化、モンゴル帝国諸王家との融和政策にも取り組んだ。

その過程でシーア派改宗宣言をしたことでも知られる。

オルジェイトゥは アルグンと、建国者・フレグの妃であったドグス・ハトゥンの兄・サリジャの娘ウルク・ハトゥンとの子である。

誕生時にはオルジェイ・ブカと称し、邪視を避ける慣習によりテルデルと改名している。 王子時代はペルシャ語で「ロバ曳き」を意味するハルバンダと呼ばれていたらしい。

即位にあたり誕生名オルジェイ・ブカにちなみオルジェイトゥ・ハンを号した。

勅書などにおいてはオルジェイトゥ・スルターンを称号とする事を宣言し、またハルバンダにちなみアラビヤ語のアブドゥッラー(神・アッラーの下僕)のペルシャ語による訳語である「フダーバンダ」と代え、

兄・ガザンがマフマードと称したようにムスリム改宗名としてのムハンマドを加え、スルターン・オルジェイトゥ・ムハンマド・フダーバンダなどを称している。

中古モンゴル語の「オルジェイトゥ」とは、「幸福(オルジェイトゥ)持てる」という意味であるのです。

兄ガザン・ハンの存命中は、ホラーサーン方面全域の統括を任されており、兄が掲げるイルハン朝国家の大規模な改革政策を良く理解し、全面的にこれを補佐した。

ガザン・ハンも弟・オルジェイトゥをよく信頼しておりわずか9年の治世であったが、軍政などの諸改革に邁進できた背景には近親であるオルジェイトゥらの助力が大きかった。

1304年5月にガザン・ハンが没した時、オルジェイトゥは任地ホーラーサーンでその訃報に接した。 ガイドゥ・ハンの嗣子・アラーフランク擁立の動きを察知すると、ただちに 対抗勢力を討滅させている。

そして、同1304年7月に、アゼルバイジャン地方のウージャーンの地で王妃王族、部将たち、廷臣らを参集させてクリルライを開き、イルハン朝の第八代君主に推戴され 即位した。

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オルジェイトゥ・ハンは 基本的に兄ガザン・ハンの政策をそのまま引き継いだ。すなわち 政務ではガザン・ハンの下した“ヤサ”を規範とし、あわせてイスラームの戒律を遵守するように命じた。

また、モンゴル軍民の管轄は大アミール(王族・貴族)のクトルグ・シャーとスルドス部族の当主・チャバンらに任せている。

財政は引き続き 兄の信任者 ラシードゥッディーン、サアドゥッディーン・サーベジェーら宰相として留任させ、またガザン時代に施行されたワクフ関連の事業や税制も追認された。

またマラーガ天文台の長官にナスィールッディーン・トゥースィー(13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な数学者、天文学者、哲学者)の息子アスィールッディーンを着任させた。

オルジェイトゥ・ハンの時代は カイドゥ(オゴデイ・ハン国)と大蒙古帝国皇帝・クビライが相次いで死去したことで一時的に中央アジアの争乱が解消され、

即位した年の9月には、大元朝のテルム・カアン、カイドゥの跡を継いだチャバル、チャガタイ家の当主・ドゥアからの使節が祝賀のために謁見を受けている。

オルジェイトゥ・ハンの治世中には、ケルマーンのカラ・キタイ朝(中国・金帝国に滅亡させられた遼帝国の王族が西走 建国した王朝)が所領を没収されて財務当局の管理に移され滅亡した。

カラ・キタイ朝の幼君シャー・ジャハーンはシーラーズで隠遁して生涯を終えている。 また、永年放置されていたギーラーン(カスピ海南部地方)が1306年に征服され、イラン全土がイルハン朝の統治下に置かれるようになった。

1307年にチャガタイ家のドゥアが死去すると、ホラーサーン地方以東はチャガタイ家内部の後継紛争の余波を受けるようになる。

オルジェイトゥ・ハンは イルハン朝の東北部領域であるメルヴ、ガズナ、スィースターン方面と東方のカラウナス軍団を統括していたクトルク・ホージャの動向を常に警戒しており、情報網を張り巡らしていた。

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クトルク・ホージャの息子・ダーウード・ホージャが チャガタイ家の実権を握ろうとし策謀していることを知ったオルジェイトゥ・ハンは、

1311年の春 チャガタイ家内部でダーウード・ホージを放逐しようとする一派と気脈を通じ、ハラーサーン方面軍をアム川の境域(チャガタイ・ハン国の経済的中核地域)に派遣した。

この地域の安定を見定めた後の1313年に、嫡子・アブーサィードに後継者として ホラーサーン地域の統治を委ね 国内を安堵させている。

しかし、1315年にジュチ家の王族でイルハン朝に帰順していたバーバが ジュチ・ウルスの領土であったホラズム地方を侵犯した。

さらにこれを好機とみたエセン・ブカ(チャガタイ家当主)も ジュチ家への挑発行動を行い、ウズペク・ハン国に侵略した。

ウズベグ・ハン(ジュチ家の皇統)はこれに怒って使節を オルジェイトゥ・ハンのいるソルターニーイェに派遣し、善処のない場合はアッラーン地方からの侵攻もありうると言上させた。

オルジェイトゥ・ハンは 帰順したバーバの独断であることを認め、バーバを処刑している。

同年4月にはさらに マムルーク朝軍が侵攻して 西方地域のマラティヤ、キリキアを相次いで掠奪したが、大アミール・チョバンに援軍を引率させ進軍させ、マラテイアの住民を救済し、キリキア地方も開放している。

この西方の混乱に乗じ、1315年前後に エセン・ブカは元朝軍との交戦のあいまにも、1113年の報復として たびたびダーウードやケベク、ヤルサルらの軍でハラサーン地方へ侵攻している。

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オルジェイトゥ・ハンの治世によって財政は安定化しつつあったが、ガザン時代にも生じていたシャーヅィー派やハナフィー派などの法学派間やシーア派、スンナ派間の対立が再燃した。

オルジェイトゥ・ハンは最終的にガザン・ハンが表明できなかったシーア派に帰依することを決めたことで知られています。

彼の時代に鋳造されたディナール銀貨にはシーア派初代イマームの 三人、アリー、ハサン、フサイン親子の名を刻ませたが、スンナ派であった ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー
やチョバンらを罷免すると言うことはしていない。

轍名なオルジェイトゥ・ハンの治世中に ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー
はカザン・ハンから編纂を命じられていた『集史(ジャーミウッタワーリーフ)』が完成し、1307年4月に献呈された。

オルジェイトゥ・ハンはなおモンゴル帝国全土が久方ぶりに和平したことを祝して、さらにガザン・ハンによって定められた「モンゴル帝国史」のみならず、「諸国史」、「諸民族系譜図」をそれぞれ追加するように命じ、1314年にこれが脱稿したとされている。

従来のイルハン朝宮廷の冬営地と夏営地は イラクのバグダードやアゼルバイジャン地方にあったが、オルジェイトゥ・ハンは新たにジャバール地方に夏営地としてソルターニーイェという都市を建設した。

1316年に聖地・マッカの統治者で聖裔家の出身でイッズッツディーン・フマイザが、彼の弟アサドゥッディーン・リマイサを後援するマムルーク朝のスルターン・ナースィルによってマッカを逐われて イルハン朝に亡命して来た。

イッズッツディーン・フマイザは、後にマッカに帰還すると、オルジェイトゥ・ハンの後を継いだ後嗣・アブー・サイードの名前でフトバ(神の賛歌)を唱えさせ、オルジェイトゥ・ハンに対する敬愛の念をイスラーム世界に知らしめている。

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【 オルジェイトゥ・ハンがフランス国王フィリップ四世に宛てたウイグル文字を転用したモンゴル語による1305年5月13日付けの書簡が現存しています。

ルハン朝とフランス国王との交流はアルグン・ハン(第四代君主)に始まるが、19世紀 ジンギスハーンが末裔・パープルが開闢したムガル帝国の滅亡の折、

最後の皇帝・バハードゥル・シャー2世(1775年10月24日-1862年11月7日)がフランス皇帝・ナポレオン・ボナパルトに イギリス帝国軍の抑制及び救援の書簡を送っています。 これらの史実から、ジンギスハーンの“アルタン・ウルク”の血筋が視野は 誠に地球規模、雄大な構想を持つものですね 】

1316年12月16日、オルジェイトゥ・ハンは 自ら建設を進める新都・ソルターニーイェで病没した。 享年35歳。

即位翌年の1305年春に オルジェイトゥ・ハンはソルターニーイェを着工している。

1305年8月29日に スルターニーヤ市内に建設された城塞で催されたオルジェイトゥ・ハンの大宴がその竣工式だったのではないかと考えられている。

元々、シャルーヤーズと呼ばれていたところで、東南はアブハル川、西北はザンジャーン川の分水嶺となっており周囲を遠望できる広大で緩やかな丘陵地帯、

モンゴル遊牧部族民によって好適な夏の放牧地として親しまれていた。 このため、第二代君主・アバカ・ハン以来、歴代君主の夏の幕営地のひとつとして重要視され、特に第四代・アルグン・ハンは夏営地として好み、

タブリーズ近郊に建設した都市アルグーニーヤに匹敵する新しい都市の建設を構想していた。

アルグン・ハンこの地の東にあったスジャース山中に自らの墓所を営み、山域一帯を禁地と定めていた。

彼は オルジェイトゥ・ハンがが建立したオルジェイトゥ廟に葬られている。

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建設されたソルターニーイェの規模について、オルジェイトゥ・ハンの息子アブー・サイードの財務官・はムドゥッラーフ・ムスタウフィー・カズヴィーニーが著した地理書『心魂の歓喜』によると、

前近代の他の中央アジアから中東一帯の諸都市と同じく、ソルターニーイェも市街地と城塞の部分から成り立っていた。

当初、アルグンが築いた城壁は周囲12,000歩であったが、オルジェイトゥは在世中に完成せずに終わったものの市街地を囲む外城壁はこれの2.5倍にあたる30,000歩にまで拡充し、周囲2,000歩の城塞を切り石作りの城壁で囲ったという。

城塞の内部は宮殿の他に病院やマドラサ(イスラム教大学)など、オルジェイトゥ以外にもモンゴルの王族たちも様々な建物を建て、大理石や焼成レンダ、漆喰などの各種タイルで覆われていた。

さらにこの城塞内部に オルジェイトゥは自らの墓廟を建設し、これにモスクや祭礼時の宴会場、サイイドのための宿泊施設などを附設した宗教センターをワクフとして寄進した。

この寄進複合施設の中核となった墓廟は八角形のドームで、1片が約57m、高さは114mであったと伝えられている。

この墓廟が 現存するイラン・中央アジアでも最大規模のドーム建築であるオルジェイトゥ廟であり、実際には直径38メートルの中央ホールに全高50メートルの二重構造の巨大ドームを備えている。

ソルターニーヤはイランの東西南北を結ぶ交易ルートの交点にあたる土地で、宰相となったアリーシャーらもバザールを建設するなどし首都として繁栄したが、アブー・サイードの没後、イルハン朝の衰退とともに衰微していく。

オルジェイトゥ・ハンは即位後、君主の夏営地として ほぼ固定され オルジェイトゥ・ハンの治世13年間のうち11回におよぶ宮廷・オルドの夏営を当地にて設営していますから オルジェイトゥ・ハンがいかにこのソルターニーヤを愛したかがわかります。

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______ 続く ______

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