成吉思汗・フレグ一党の覇権 (10) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

フレグー10-1

イルハン朝の解体

1316年、オルジェイトゥ・ハンが死ぬと息子・アブー・サイードが即位するが、新(君主)はわずか12歳であった。

スルドス部族のチョバン(先君・オルジェイトゥ・ハンの最有力将軍)が実権を握った。 摂政として・・・・、

1327年、成人した イルハン朝の第九代君主・アブー・サイード・ハンは 驕り高ぶるチョバンを、結婚問題もからんで1326年に その討伐を決意し殺害した。

その一族から実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。

子のなかったアブー・サイード・ハンは1335年、ジュチ・ウルスのウズペグ・ハンが来襲する中で陣没し、フレグの王統は ここで断絶した。

これをもってイルハン朝の滅亡といえるのですが、

アブー・サイード・ハンが陣没したとき、 ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー(歴史家、哲学者、政治家 先君の宰相)の息子で宰相のギヤースッディーンは、

建国者・フレグの弟アリクブカの玄孫にあたる遠縁の王族・アルバ・ケウンをハン(君主)に推戴させた。

しかし、アルバ・ケウン・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・バーディシャーに敗れて殺害され、

以来 イランは様々な家系に属する“アルタイ・ウルク”あるたチンギスハーンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて また 次々とハンの改廃される混乱の時代に入った。

1353年、乱立したハン(君主)の中で最後まで生き残りホラーサーンを支配していたトガ・ティムール・ハンが殺害され、イランからはチンギサハーン一門の君主は消滅した。

アブー・サイード・ハンの死去以来、イランの各地には遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していたが、

これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった(前記載済み、『ティムール伝』参照)。

フレグー10-5

アルバ・ケウン・ハン(生没年 ? -1336年)は、イルハン朝の第10代君主(在位:1335年 – 1336年)。

1335年11月、第9代の君主・アブー・サイード・ハンがカスピ海南西のアッラーン地方のカラバグで陣没した。

前年、ジュチ・ウルスのウズベグ・ハンがカスピ海西岸のダルバンド経由で南下し、イルハン朝の領域に侵攻を準備しているとの知らせから親征したものだったが、

アブー・サイード・ハンには嗣子が無かったため、彼の死によって建国者・フレグの嫡流が断絶してしまった。

このため、ラシードゥッディーン(政治家、歴史学者、哲学者 史書の著者)の息子でアブー・サイード・ハンの宰相(ワズィール)だったギヤースッディーン・ムハンマドらは

イルハン朝の諸臣はジュチ・ウルスとの戦いで軍が動揺することを恐れて、遠縁にあたるアルバ・ケウンを即位させた。

アルバ・ケウン・ハンは 即位直後に アブー・サイード・ハンの妃の1人であるバグダード・ハトゥンが自分を軽蔑していることを知り、

ジュチ・ウルスとの戦闘に先立ち、アブー・サイード・ハンの毒殺と敵将・ウズベグ・ハンとの内通の疑いを バグダード・ハトゥンにかけて、彼女を処刑してしまった。

蛮勇でいきり立つアルバ・ケウン・ハンは イルハン朝軍を率い、一致団結してジュチ・ウルスの軍勢を撃退している。

その戦後に 先々代君主・オルジェイトゥ・ハンの王女で、チュバンの寡婦であったサティ・ベグを娶り、宮廷で権力を固めはじめた。

しかし、即位の経緯のために重臣の権力が強く、君主権は弱く 先行独進 王圧的な専従を強行するようになる。

このためファールス州の王領地(インジュウ)を管轄していたマフム-ド・シャー・インジュウなどの、高位の身分や財産を持つ人物たちに対して様々な口実をもうけて処刑してはその財産を没収するなどした。

ファールス州に権益も持っていた他の将軍たちも併せて処刑するつもりだったが、宰相・ギヤースッディーン・ムハンマドらの諫言によって止められた。

1336年に バグダードを管轄していたアブー・サイード・ハンの母方の叔父、オイラト王家の後裔・アリー・バーディシャーは 自分が参加していないクリルタイで擁立されたハンの即位を不服として、

創国者・フレグ・ハン系の傍流で生き残っていたムーサーを擁立、任地のバグダードで反乱を起こした。

アルバ・ケウン・ハンは自ら討伐軍を率いて鎮圧に向かったが、味方の多くが裏切って大敗し、自らも敗走中に捕らえられる。

そして、かつて手にかけたマフム-ド・シャー・インジュウの一族に引き渡され、処刑された。

フレグー10-2

イルハン朝第10代君主・アルバ・ケウン・ハンはが恐怖政治を行ないった。

アルバ・ケウンの即位に反対するオイラト部族のアリー・バーディシャーによって、ムーサーは 1336年に擁立された。 イルハン朝の第11代君主として戴冠、在位は1336年から1337年の一ヵ年であった。

イルハン朝第6代君主・バイドゥの子・アリーの息子である。

アルバ・ケウン・ハンが処刑された後 単独のハンとなるが、他の傍流一族であるムハンマド(フレグの十一男モンケ・テムルの玄孫)を君主(ハン)に擁するタージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン)と戦ったが敗れ、

ムーサーは後ろ盾のアリーの戦死で孤立し、大ハサンが即位する。

ムーサーは大ハサンの即位後、擁立されたトガ・テムル(ジンガスハーンの実弟・ジュチ・カサルの末裔にあたる)と同盟、合流して大ハサンとの戦闘に向かうが、

マラーガ近郊で大ハサンの軍に遭遇すると、トガ・テムルは戦闘前に軍を連れて逃走した。

ムーサーは部下のオイラト部族とともに抗戦するが戦死してしまった。

ムーサー(生没年 ? -1337年)は、イルハン朝の第11代君主として名を留めるが史跡は何も残していない。

アルバ・ケウン・ハンの死後、ジャライル部の有力者・タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン、ジャライル朝の創始者)によって、

ムハンマドは、1336年にハンに擁立され 推戴されて、イルハン朝の第12代君主として戴冠した。 が、

ムーサーを君主(ハン)に擁するアリー・バディシャーを破った大ハサンは、ムハンマド・ハンを伴いダブリーズの宮殿に凱旋し、移り住んだ。

1338年7月10日、ムハンマド・ハンはアゼルバイジャンでシャイフ・ハサン(イルハン朝の大将軍・チョバンの孫、通称小ハサン)と対陣する。 陣営は大ハサンが指揮を執っていた。

自軍の将軍ビール・フサイン(チョバンの孫、シャイフ・ハサンの従兄弟)が敵と内通していることに感づいた大ハサンは 直ちに タブリーズに撤退した。

ムハンマド・ハンは 退かずに小ハサン・シャイフ・ハサンと戦うが敗れ、捕殺された。 没時、まだ成年に達していなかったと史書は追記している。

ムハンマド・ハンはイルハン朝の創始者フレグの子・モンケ・テムルの玄孫に当たり、ヨル・クトルグの子であった。

フレグー10-3

ジャハーン・テムル

ジャハーン・テムル(生没年不詳)は、イルハン朝の最後の君主(在位:1338年-1340年)と言える。 イルハン朝の第5代君主・ガイハトゥの孫。 父はアラーフランクであった。

1338年に タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(大ハサン)が擁していたムハンマド・ハンが戦死したため、ジャハーン・テムルが君主(ハン)に擁立された。

1340年に シャイフ・ハサン(小ハサン)との戦いに敗れた大ハサンは バグダードに帰還した後、自らの王朝・ジャライル朝が建国した。 ジャハーン・テムル・ハンは廃され、フレグの皇統王朝は消滅した。

イラン高原東部・ホラーサーン地方にトガ・テルム・ハン(在位:1337年 – 1353年)が イルハン朝の血脈を継承するのみで イラン東部はジンギスハーンの継承王朝は壊滅した。

【 ジャライル朝 ;  1340年 – 1411年の期間、イラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラム王朝。 王朝の名は、モンゴル帝国を構成した有力部族のひとつジャライル部から王家が出たことに由来している。

イランにおけるジャライル部は、その先祖・イルゲイ・ノヤンのとき、フレグの西征に従って西アジアの各地を転戦し、戦功によって 代々イルハン朝に最上位の重臣として仕える有力部族集団となった。

イルハン朝のフレグ家最後の君主・アブー・サイード・ハンのとき、アブー・サイードの祖父・アルグンを外祖父とし、君主(ハン)とは従兄弟の関係にあたるジャライル部当主シャイフ・ハサンが宮廷の有力者として台頭し、権勢をふるった。

だが、アブー・サイード・ハンが力づくでシャイフ・フサンの妻・バグダード・ハトゥンを奪って自分の妃にした事から、両者の間に確執が生じた。

1335年にアブー・サイード・ハンが没し、フレグ家の血統が絶えると、それぞれにチンギスハーンの血を引く傍系の王族を擁立した有力者同士の抗争が激化するが、

中でも イルハン朝の中心地であるアゼルバイジャン・タブリーズ地方の草原地帯を巡ってジャライル部のシャイフ・ハサン(大ハサン)と、スルドス部の指導者で同名のシャイフ・ハサン(小ハサン)の間で熾烈な抗争が起こった。

しかし、1338年に行われたジャライル部とスルドス部の直接衝突は新興勢力であるスルドス部の小ハサンの勝利に終わり、

ジャライル部の大ハサンはゼルバイジャンを追われてバヅダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、1340年にイラクを中心に自立し アゼルバイジャンのスルドス部に対抗した。

やがて、1357年に、100年来アゼルバイジャン草原の領有権を巡ってイルハン朝と対立関係にあったジュチ・ウルスがアゼルバイジャンに南下し、スルドス部を破ってアゼルバイジャンを占拠した。

大ハサン・シャイフ・ハサンの後を継いでいた子のシャイフ・ウヴァイスは、これを好機としてアゼルバイジャンに進出、タブリーズを奪還し、イラン西部を制覇して旧イルハン朝の西半を覆うジャライル朝の最大版図を実現した。

フレグー10-4

 自身が優れた文化人であったウヴァイスの宮廷には詩人や音楽家、美術家が集まり、モンゴル帝国時代の東西交流に刺激されて

イルハン朝のもとで発展していたイラン・イスラム文化が継承され、その深化が見られた。

その一方で、国制は基本的にイルハン朝からモンゴル式のものを受け継ぎ、モンゴル帝国の後裔である遊牧民たちを基幹軍隊とし、遊牧民の慣習法を取り入れた政治が行われた。

しかし、シャイフ・ウヴァイスが1374年に死んだ後には、ジャライル朝は遊牧国家の宿弊である王族内の君主の座を巡る争いが起こり、1382年にウヴァイスの長男のフサイン1世が弟のアフマドによって殺害されるまで内紛が続いた。

さらに、同じ時期には中央アジアにおいてモンゴル系遊牧勢力を統合したティムールがイランへと進出してきていた。

アフマオ・ハンは、東部アナトリアを支配するトルコ系の遊牧部族連合黒羊朝と結んでティムールに対抗したが、圧迫されてタブリーズからバグダードに退却し、さらにティムールに敗れてバグダードを奪われた。

フレグによる征服による荒廃から立ち直りつつあったバグダードは、このとき再び大規模な破壊を受けることとなる。

アフマド・ハンは バグダードから逃れてオスマン朝、次いで マルムーク朝のもとに亡命した。

ティムールの没後、アフマドはイラクに戻って旧勢力を回復し、タブリーズの奪回につとめたが、英主・カラ・ユースフのもと勢力を急速に拡大していた黒羊朝との戦いに敗れ、捕らえられて処刑された。

これにより事実上、ジャライル朝は滅亡した。

アフマド・ハンの死後も、ジャライル朝の一族はアゼルバイジャン方面で活動を続けたが、王族間の継承争いをはじめ、15世紀を通じてこの地方を争奪した黒羊朝やティムール朝、白羊朝の間で埋没していった 】

エピローグⅢー14-6

______ 続く ______

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