成吉思汗・フレグ一党の覇権 (11)

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

フレグー11-1

イルハン朝の最後の君主(ハン)

 トガ・テムル(生没年 ? -1353年)はイルハン朝の君主(ハン)を称した人物の中で最後に没した、イルハン朝の事実上最後のハン(在位:1337年 – 1353年)である。

チンギスハーンの弟ジュチ・カサルの末裔、”アルタン・ウルク/黄金の家”の皇統ではない。 フラーサーン、マーザンダラーンを統治した。

ムハンマド・ハン(イルハン朝の第12代君主、トガ・テムルは ジャライル部の有力者・タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン、ジャライル朝の創始者)に擁立されて君主(ハン)になった。

その大ハサンの政敵・アリー・ジャファル、ホラーサーンの統治者・シャイフ・アリーを中心とする貴族によってトガ・テムルはハンに擁立された。

トガ・テムル・ハンは アルバ・ケウン・ハン(在位:1335年 – 1337年)が殺害されて 先に君主(ハン)を称したムーサー・ハン(第11代君主、在位:1336年 – 1337年)と共同戦線を張って ムハンマド・ハンの陣営、大ハサンとの戦いに挑むが、

マラーガで大ハサンの軍隊と遭遇すると一戦も交えずに逃亡してしまった。

大ハサンとトガ・テムルの擁立者・ハサン・チュチュク(小ハサン)の和解が成立した後、

大ハサンはトガ・テムル・ハンのハンの地位を承認し、イラクの帝都・バグダードにトガ・テムル・ハンを招いた。 イルハン朝の融和を共に図っている。

トガ・テムル・ハンは 宰相の意見に従って増税と給与の削減を行うが、この政策は大ハサンの意図からは外れたものであり、シャイフ・ハサン・小ハサンの策謀の離間策にかかって大ハサンとの関係は完全に決裂し、彼はホラーサーンに帰国した。

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当時の1338年に タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(大ハサン)が擁していたムハンマド・ハンが戦死したため、ジャハーン・テムルが君主(ハン)に擁立されていた。

また、1340年に シャイフ・ハサン(小ハサン)との戦いに敗れた大ハサンは バグダードに帰還した後に自らの王朝・ジャライル朝が建国し、ジャハーン・テムル・ハンは廃され、フレグの皇統王朝は消滅していた。

1341年にトガ・テムル・ハンは 弟アリー・ケウンに説かれて3度のイラク遠征を敢行するが失敗している。

フレグ・ウルスの西部は大ハサンのジャライル朝や 地域は新興勢力・サルバダール政権に浸食され、トガ・テムル・ハンはイルハン朝の再興、フレグ・ウルスの領土挽回に東走西奮の様子が覗える。

しかし、1353年 アストラバード付近で、サルバダール政権の君主ヤフヤー・ケラヴィによって暗殺された。

この時点で フレグの皇統王朝は中央アジアから その姿を消した。

エピローグⅠ-1

 ティムール朝は、中央アジアのトランスオクシアナ(ウズベギスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 – 1507年)。

その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はガンジス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつての大蒙古帝国の西南部地域を制覇した。

ティムール王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人・チャガタイ人の一員であった。

ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。

これらは最終的に16世紀初頭にウズベグのシャイバーン朝(ジュチの子孫)によって中央アジアの領土を奪われるが、

ティムール朝の王族の一人ホパーブルは アフガニスタンのカブールを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。

フレグー11-3

ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルジャンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いた。

とくに、自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったティムールの孫・ウルグ・ベグがサマルカンド知事時代に行った文化事業は名高く、彼がサマルカンド郊外に建設したウルグ・ベグ天文台では当時世界最高水準の天文表が作成されていた。

また、都市には優れた宗教・教育施設が建設され、サマルカンドのグーリ・アミール廟、ビビ・ハヌム、ウルグ・ベグ・マドラサ(イスラム学院)や、現在のカザフスタン南部テュルキスタンのホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟などが名高い。

しかし、このように都市文化に親しみ都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも一方では遊牧民の末裔であって、

都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中でくつろぐことを好んだ。

こうして大小さまざまな庭園が建設されたが、サマルカンドのそれはこの町で生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事なさまが今日に伝えられている。

このようにティムール朝の時代に栄えた中央アジアの宮廷文化が頂点に達したのが、15世紀後半のヘラート政権のスルタン・フサインの宮廷においてであった。

ヘラートの宮廷では、モンゴル時代のイランで中国絵画の影響を受けて発達した細密画の技術が移植され、芸術的にさらに高い水準に達した。

スルタン・フサインや、その乳兄弟で寵臣として宰相を長く務めた有力アミールのアリーシール・ナヴァーイーは非常に優れた文化人で、彼らの文芸保護によって文学が繁栄した。

当時の中央アジアでは文化語はペルシア語であったが、ナヴァーイーらは当時テュルク語にペルシア語の語彙と修辞法を加えて洗練された「チャガタイ語」を用いた文芸、詩作をも好んで行い、

ティムール朝のもとでチャガタイ語をアラビア語やペルシア語と比肩しうるレベルまで文学的な地位を向上させた。

チャガタイ語散文文学のひとつの頂点を示すのが、先にも触れたティムール朝の王子・バーブルの著書『バープル・ナーマ』です。 現代も愛読されている。

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ティムール朝では王朝側による修史事業もまた盛んに行われた。

シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になった。

シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルーらに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、あわせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とジンギスハーン家の関係を強調した。

この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者・ムハンマド(マホメット)との血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。

この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったが、ティムール朝ではより鮮明にされるようになった。
この影響は、後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていく。

またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、スルタン・フサインの治世にンサヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンドや、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出している。

これらの高い文化の影響は、ティムール朝の中央アジア領をそのまま引き継いだシャイバーン朝のみならず、西のサファヴィー朝、南のムガル帝国にまで及んだ。

こうしてティムール朝の滅亡後も、東方イスラム世界と呼ばれる一帯の文化圏で優れたイスラム文化が続いてゆく。

また、ティムール朝時代の進んだ文学や科学が言語を同じくするアナトリア(小アジア)のトルコ人たちの間にもたらされたことが、当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化に与えた影響は大きい。

この様に、ティムール帝国で形成され花開いたイスラーム文化を、特にトルコ=イスラーム文化と言われ、今日まで継承されている。

フレグー11-4

さて、ティムールに関して、また 彼の王朝系譜は前作“ティムール伝”にて詳細を記載しておりますが、ティムールの事跡概略を俯瞰して フレグ一党の話はこれで筆を置きます。

次回からはジンギスハーンの三男・オゴデイと彼の一党について書き綴りましょう。

・・・・・ ティムールはジンガスハーンの築き上げた世界帝国の夢を理想としていた。 その帝国再現の為に、外征を繰り返した。

ホタズム・ッペルシア遠征 ;ティムールはマーワラーアンナフル統一を果たした後の10年間にモグーリスタン・ハン(チャガタイ・ハン)国が支配する東トルキスタンへ遠征を繰り返し、コンギラト部族が支配するホラズム地方を併合

1378年 ジュチの末裔トクタミシュを支援して、彼をジュチ・ウルスの君主(ハン)に据え周辺の諸勢力を自己の影響下に置いた。

トクタミシュは 1380年に、“黄金のオルド/ジュチ帝国”からの独立を図ったママイを クリコヴォの戦いで破り、1382年にはそのままモスクワ大公国へ進撃し、戦勝に沸く勢いで モスクワをも焼き払った。

トクタミシュはティムールの大恩を忘れ 権勢を拡大した。

1380年からティムールは イルハン朝解体後分裂状態にあるイランに進出してハラーサンを征服した。

3年戦役

1386年から始まる3年戦役で ティムールはアフガニスタン、アルメニア、グルジアなどまで支配下に置いた。 そして、大恩を忘れたトクタミシュと対決する。

トクタミシュとの戦い
1388年、トクタミシュが“3年戦役”の隙を突いて遠征遠中のティムールを見透かすように、ティムール領を攻撃したのをきっかけにティムールは 遠征を打ち切り、帰還し 3年戦役を終了して、直ちに北上 トクタミシュを追撃した。

トクタミシュは西方に逃れ、カフカス北方域を占有して、再起を図った。

5年戦役
1392年から始まる5年戦役でイランへの遠征を再開した。 ムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れ、バグダードに入城してマムルーク朝と対峙した。

ティムールはさらに北上してカフカス山脈を越え トクタミシュと対峙 トクタミッシュを破り、ヴァルガ川流域に至ってジュチ・ウルスの帝都・サライを破壊、ルーシ諸国まで侵入し、16年に帰還した。

インド遠征
1398年、インド遠征を決行し、デリー・スルタン朝を破ってデリーを占領し、西北インドを支配した。

7年戦役
1399年に始まる7年戦役では、アゼルバイジャンで反乱を起こした三男・ミーラーン・シャーを屈服させ、グルジア、アナトリア東部からシリアに入ってダマスカスを占領、さらにイラクに入りモースルを征服した。

オスマン帝国との戦い
1402年、中央アナトリアに転進したまた ティムール軍は“アンカラの戦い”で バヤズィト1世率いるオスマン朝軍を完膚無きまで破ってオスマン朝の拡大を挫き、

アナトリアのオスマン領をバヤズィト1世に領土を奪われた旧領主へ返還して 帰還した。

この遠征でかつてのモンゴル帝国の西半分がほぼティムールの支配下に入り、オスマン朝、マムクール朝がティムールに名目上服属、ティムールの支配地域は 更に大きく拡張した。

中国遠征
1404年末、20万の大軍を率いて明を破り、元の旧領奪還を目指し中国遠征を開始した。

しかし、ティムールは1380年代末より患っていた病のため、遠征途上の1405年2月18日の夕刻、オトラル(天山山脈西北西)で病没した。

臨終の言葉は「神の他に神なし」と伝えられている。

禁断の棺
グリ・アミ-ル廟にある彼の黒石の棺の裏には

「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」というような言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。

しかし、1941年6月19日になってソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。

しかし、そのわずか3日後、バルバロッサ作戦が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。

のちに畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない。

ジュチ一党1-6

________ 続く _______

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