騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (1)

 = 漢の劉邦が恐怖した匈奴の勃興と衰退 =

匈奴ー1-5-

“王昭君”の陵墓は 内蒙古自治区フフホト市の郊外にある。

この陵墓には 三度訪れている。 稀娜嬢の案内で友人達と初めて行き、以降 大召・万部華厳経塔(白塔)等案内してもらった。 フフホト市に滞在していた折の事、彼女はチンギス・ハーンの子孫であることを 暫くして 後に知った。

内蒙古自治区には成吉思汗の子孫は ごろごろ いる。 友人の三人もそうだ。 35・36代目である。 家名が“包”姓であれば チンギス・ハーンの血筋である。

ただ、稀娜嬢はチンギス・ハーンの末子・トルイの子孫、調べればトルイの孫は130人以上と記録にあるから どの血統なのか しかし

訪れたシリンホト市(ゴビ砂漠の東)で成吉思汗の血縁が参集した折に 父君が先導役を務たことから また 母方が名のある将軍と言うからには 家柄としては本流であろう。

彼女は二十歳前であった。 蒙古族の歴史を話してくれた。 以来 モンゴル・ウイグル・匈奴と興味つきることなく、未だに 歴史の森を彷徨っている。

匈奴ー1-1-

匈奴(キョウド)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。

北方では東胡(東部の遊牧民族),月氏(東・中央アジアの遊牧民族 国家名)が強力であった時代、 単于頭曼は秦に勝てず北方に移動した。

十年余りが過ぎ、始皇帝や蒙恬が死に、諸侯は秦朝に叛き、中国は動乱の巷と化し、秦が遠方の地に出した流刑兵(国境防御策)は みな還り去ってる。

単于(遊牧民の君主)の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。

頭曼には太子がいた。 名を冒頓といった。 紀元前200年頃 冒頓は頭曼単于の長子として生まれた。 後に頭曼の寵愛する閼氏(エンシ:単于の妻 この家系が五胡十六国時代まで中国を支配する)が末子を生んだ。

頭曼の関心がこの異母弟に向けられると、太子・冒頓は邪魔者扱いされ、 緊張関係にある隣接勢力の月氏の元に 和平のための人質として送られる。

間もなく、頭曼は 月氏が無礼であるとの理由で、戦争を仕掛けた。 嫡子を差し出したことの油断を突くことと、 冒頓が月氏の手で殺害されるのを見越しての行動です。

月氏は激怒し 冒頓を殺そうとした。 しかし この危機を悟った冒頓は、間一髪のところで月氏の駿馬を盗み 脱出に成功 父のもとに逃亡した。

頭曼は彼の勇気に感心し、また 見込みがあると考えを変え 一万の騎兵を私兵として 冒頓に与え 統率させた。

冒頓はいずれ殺されると、クーデターを考え、その一万の騎兵からさらに自分の命令に忠実な者だけを選び出している。

冒頓は 私兵を秘密裏に養成していた。 私兵を率いて「自分が鏑矢を放たば 直ちに同じ方向に矢を放て」と命令・訓練を重ねている。

冒頓は まず野の獣を射た。 矢を放たない部下を彼は斬った。 次いで自らの愛馬に向かって射た。 同じく放たないものは斬り殺した。

更に 彼は訓練の仕上げに 自分の愛妾を射て、同じく放たないものは斬り捨てた。

そして 頭曼と狩猟に出かけた際、父に向けて鏑矢を放った。 父の愛馬を射るときには 全ての配下の私兵も大量の矢を浴びせていた。

これがクーデターの端緒となった。 王庭に戻った冒頓は 継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。

紀元前209年に 冒頓は この反乱を起こしている。

匈奴ー1-2-

即位直後、東胡から使者がやってきて「頭曼様がお持ちだった千里を駆ける馬を頂きたい」と言った。 即位直後の若輩のため、甘く見てのことだった。

冒頓単于は部下を集めて意見を聞いた。 部下達は「駿馬は遊牧民の宝です。 与えるべきではありません」と言ったが、冒頓単于は「馬は何頭もいる。 隣り合う国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」といい、東胡へ送った。

後年 東胡は、再度使者を送り「両国のため、冒頓様の后の中から一人を頂きたい」と言った。 部下達は「東胡は巫山戯すぎています。 攻め込みましょう」と言ったのだが、冒頓単于は「后は何人もいる。 隣り合う国なのに、一人の后を惜しむべきではない」と言い、東胡へ送った。

また東胡から使者がやってきて、「両国の間で国境としている千余里の荒野を、東胡が占有したい」と言ってきた。

先の件では一致して反対した部下達も、遊牧民故に土地への執着が薄いのか 二分された。 その一方が「荒地など何の価値も有りません。 与えても良い」と言った途端、

冒頓単于は激怒し「地は国の根幹である! 今与えて良いと言ったものは 切り捨てろ!」と言い、馬に跨り 「全国民に告ぐ! 遅れたものは斬る!」と東胡へ攻め入った。

一方の東胡は 完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。 物は奪い、人は奴隷とし、東胡王を殺し、東胡を滅亡させている。

冒頓は続けて他の部族にも 攻勢を掛け、月氏をも西方に逃亡させた。 勢力範囲を大きく広げ、広大な匈奴国家を打ち立てるのに成功した。 月氏はパミール高原の西方まで追いやられている。

匈奴ー1-3-

紀元前200年、40万の軍勢を率いてを攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信(劉邦の漢王朝創建の功労者)を寝返らせた。

前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は、負けたふりをして後退を繰り返した。

追撃を急いだ劉邦は少数の兵とともに 白登山で冒頓単于に包囲された。 この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平(項羽などに仕官、紆余屈曲後 劉邦に仕えた智将)の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功 窮地を脱している。

その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。 匈奴は前漢から毎年贈られる膨大な財物により、経済上の安定を得て増々隆盛になって行く。

韓王信や盧綰(彼のみが、劉邦の寝室に自由に出入できた猛将)等の漢からの亡命者をその配下に加えることで 更に 勢力を拡大させ、北方の草原地帯に 一大遊牧国家を築き上げて行く。

他方、成立したての漢王朝は 対抗する力を持たず、 前195年6月1日に高祖劉邦が崩御する。

冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉(高祖劉邦の皇后 ※)も周囲の諌めにより、婉曲にそれを断る手紙と財物を贈らざるを得なかったという。

≪侮辱的な親書 ; 高祖劉邦が他界した時、冒頓単于は「一人寝るのは寂しくて身が持たぬであろう、姥桜とて 慰めてやろう。 我が閨に来るもよかろう」との文面を差し向けている》

その後、前漢王朝が安定し 国が富むに至り、武帝(前漢・第7代皇帝 在位:紀元前141年-前87年 高祖劉邦の曾孫)はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。

幸運にも 試に機会を与えた衛青霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴は より奥地へと追い払われ、匈奴帝国は 約60年続いた隆盛も終わりを告げた。

匈奴ー1-4-

(リョチ)は、漢の高祖劉邦の皇后。 父は呂公(山東省の有力者)。 幼名は蕭何。 第二代皇帝・恵帝の母。 夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。

「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前があげらている。

当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際 蕭何に「進物一万銭」と はったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけた。

人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、始皇帝が巡幸した際に 身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、

呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「劉邦の周囲には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。 これらが噂となり、劉邦に仕える者が多く成った と史書にあります。

翌紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。 しかし、 前195年6月1日に高祖劉邦が崩御する。 宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。

この状況の下で、自分の実家の呂氏一族、重臣の助けを借りて、我が子 皇太子・劉盈を第二代皇帝・恵帝に擁立した。

だが、高祖の後継を巡る争いは根深く、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王・劉肥、趙王・劉如意の殺害を企てている。

≪ 女性の嫉妬心からであろう ≫

斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害した。 趙王・如意を殺害後

呂后は 戚夫人(高祖の第三皇后)の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせ 晒し者にしている。

この人彘を見せ付けられた皇帝・恵帝は 強いショックを受け、政務を放棄し 酒に溺れ 間もなく 23歳で死去してしまう。

我が子の葬儀で激しく嘆くも 涙しなかった呂后は 孫の少帝恭(恵帝の遺児)を第三代皇帝に立てた。

しかし この頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して 外戚政治を執り、強権政治を推し進めている。

また 自分に反抗的な少帝恭皇帝(孫)を殺害し、弟の少帝弘を立てる等の行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買う。 元勲たちは 暗殺を恐れ、ろくに仕事をしなくなった。

呂后自身 このことには気が付いていたようで、日食が起きた時には周囲の者に「私のせいだ」と 天地異変に懺悔しているのですが、

死ぬ数ヶ月前 青い犬に脇の下を引っ張られる幻を見たため占い師に占わせ 少帝恭の祟りだと告げられるも、更に 呂氏一族を中央の兵権を握る重職に就け 万全を期した後に死去しています。

なお、新末後漢初の動乱の際、赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚し 屈辱したという。

しかし、宮中の生臭さとは裏腹に、呂后の治世に関しては「天下は安泰で、刑罰を用いる事は稀で罪人も少なく、民は農事に精励し、衣食は益々豊かになった」と 客観的な史観を持つ司馬遷に絶賛されている。

匈奴ー1-6-

_______ 続く _______

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