騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (9)

= 匈奴の末裔・アッチティラの欧州侵攻 =

江上 波夫教授は 1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジュウムで

 騎馬民族征服王朝説を発表された

その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が

東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって

4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と述べられ

騎馬民族国家』(中公新書)を出版されている

教授が野外調査に歩かれた ゴビ砂漠やアフガニスタン・中央アジア等 私も彷徨

 教授はモンゴル族の文化・民俗学を追い、 私は ただ 莫とした興味で旅をした

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欧州・アッチティラの動乱(1)

 フン族は 民族大移動を誘発し、西ローマ帝国崩壊の要因となった。 フン族はアッティラの元で統一帝国を築いたが、453年に彼が死ぬとその翌年に帝国は瓦解した。

同じ名称の後裔または後継者が おおよそ4世紀から6世紀に東ヨーロッパと中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。

4世紀にヨーロッパに現れたフンー族と 漢王朝を属国のように扱い、新興のウイグル族に 1世紀にモンゴル高原から追われ、移動した北匈奴と同一民族とする説が非常に有名ですが【フン=匈奴説】、詳細は不明です。

私は この「フン=匈奴説」に基づき 過日の文章を書き綴ってきた。 私の大前提です。 しかし この説・仮定への 決定的な証拠はいまだに在りません。

遊牧民の集団は 血統を重視するため首長家の婚姻や政治的連合によっても 主要な中枢集団の構成要素は容易に変動しないのですが、

フン族集団全体として 中国北方から西走した匈奴国家の部民が、元の体制のまま 西方にフン族として登場した可能性には 疑問もあります。

西ゴート族(ドイツ平原の古民族の一部が バルト海南部から黒海沿岸部に移住したゲルマン系の民族)を襲撃した史実以前のフン族について、正確に分かることは何も無いのが現状です。

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フン族は4世紀に 初めてヨーロッパに現れた(史実上)。 彼らは370年頃に黒海北方に到来した。 フン族はヴォルガ川を越えてアラン族(紀元前1世紀頃にカスピ海北岸からウクライナの草原地帯にいた民族)を攻撃して彼らを服従させた。

史書には・・・「バランベルに率いられたフン族はグルツンギ(東ゴート族)の集落を襲撃した。 グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメールが後を継いだ。

376年、 ヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。 この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した。

ヴィティメールの息子のヴィデリックはまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウスとサフラスクに委ねられた。 難民はドニエストル川西方のテルヴィンコギ(西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。」と書かれている

また更に 「逃げ出した東ゴート族の一部に続いて フン族はアタナリック王の西ゴート族の領土に入った。 アタナリック王はドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。

ゴ-ド族はカルパチア山脈へ後退した。 ゴート族の難民たちは東ローマ帝国領内のトラキアへ そしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。

395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた。 フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッバドグアを却略した。

また 彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキア市を脅かし、ユーフラテス属州を通って 東ローマ帝国に押し寄せた。 皇帝テオドシウス1世(古代ローマ帝国の皇帝、在位 379年 – 395年)は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく バルカン半島北部で暴れ回りった。

ローマ帝国は 398年に宦官エウトロベがローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて フン族を撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。・・・・・・」とローマ帝国は史実を記している。

一時的に 東ローマ帝国から フン族が逸れた間、

405年 ラダガイスス率いるの蛮族の集団がイタリヤ侵攻や 406年のヴァンダル族(ローマ帝国末期に欧州中央部に侵入してきた系統不明の民族、北アフリカのカルダゴを中心にヴァンダル王国を建国)のローマ帝国への侵略 また、

スエビ族(バルト海南部を故地とする民族 ゲルマニアに住む民族のうち最強の民族)の侵略 そしてアラン族のガリア侵入(“ガリア戦記”で有名)等々の発生に証明されるように フン族ははるか西方に移動しており、ヨーロッパの民族移動を誘発した。

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他方では 多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。

史書に 初めて現れたフン族の人物ウエルディンに関して 「フン族とアラン族の集団を率いて イタリアを守るためにラダガイススと戦った。

また ウエルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族の族長ガイナスの首を斬った。 ガイナスの首は贈物と引き換えに 東ローマへ与えられてコンスタンティノーブルで晒された。」と フン族の戦士を記している。 しかし その史書には

408年、東ローマは ウエルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。 ウエルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。 それから、ウエルディンはトラキア一帯を略奪した。

東ローマはウエルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。 これによりウエルディンの陣営から多数が脱走し、 ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた。 それから程なく、ウエルディンは死去した。 と追記している。

更に フン族の軌跡を史実の上から 見ると・・・・・・・

☆ 西ゴート王アラリック1世の義弟アタウルフは、409年にジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていた。 彼らは皇帝ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。

☆ 409年後半に西ローマ帝国は、アラリック軍を防ぐために イタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。

☆ 410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した。 フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ。

☆ フン族は 西ローマ帝国の将軍アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって 帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。

☆ 433年、フン族は 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・ブラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア地方の支配を西ローマ帝国に認められた。

等々 漢の劉邦が少数の兵とともに白登山で冒頓単于(匈奴の君主)に包囲され、7日間食べ物がなく窮地に陥った劉邦皇帝が苦肉の策で脱出して以来 漢王朝を見下した匈奴とは異なるようですが

アッティラの出現で ヨーロッパに於けるフン族の状況は一変する。

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アッティラ統治下の統一帝国

アッティラの指導の元で フン族は複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立していった。

フン族は ローマ諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲビート族(東ゴート族の支流)、スキール族、ルギイ族、サルマタイ族(イラン系遊牧民族)、東ゴート族を従え その従属部族の忠誠を維持していた。

434年にルーア王(432年即位のフン族唯一の統治者)が死去して、甥のブレタとアッティラの兄弟が共同王位に就いた。

即位直後に ブレタとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、440年に和平を破って東ローマ帝国へ侵入して バルカン半島一帯を荒らしまわった。

東ローマ帝国軍は敗退し、443年に皇帝テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。

445年頃にブレタが死に、アッティラの単独統治となった。 447年、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。

451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。

カタラウヌスの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。

翌452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返えした。

≪ 実際には、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られています ≫

ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っています。

パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した。

この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパ全域を その後1,000年近く続く中世の暗黒社会、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるエポック・メーキングに成った。

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フン族はこの時代の他の蛮族と異なり、ヨーロッパに入ってからも定住生活を行わず、遊牧による移動生活を続けていたようです。

アッティラの時代になると、フン族社会の経済は遊牧ではなく、略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられています。

445年頃 共同統治者のブレダが死ぬと単独の王となったアッティラ。

ブルグンド族などのゲルマン系諸族を征服し、バンノニアに本拠を置いて 東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げたアッティラ。

451年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉フノリアからの求婚を口実にガリアへ侵入したが カタラヌスで、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマー=西ゴート連合軍と戦い敗れて撤退したアッティラ。

翌452年にイタリア半島へ侵攻して、ミラノ、アクレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退したアッティラ。

治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死するアッティラ。

息子たちの間で内紛が起き、築きあげたフン帝国が瓦解したアッティラ。

とは どんな人物だったのでしょうか・・・・・

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_______ 続く _______

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