騎馬遊牧民族国家・ジュンガリア(1)

ジュンガリア = 最後の騎馬遊牧民国家(オイラート・モンゴル) =

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オイラトは、モンゴル帝国成立以前の12世紀にバイカル湖西部のアンガラ川からイェニセイ川に掛けての地域、現在のモンゴル国西部のフブスグルからトゥヴァ共和国の地にかけて居住していた部族集団。

13世紀初頭、オイラト部族集団の首長のひとりとしてクダカ・ベキの名が知られている。

『元朝秘史』によると1200年頃に 一時アルチ・タタル氏族、グチュト・ナイマン氏族、メルキト部族などの諸部族の盟主となったジャムカが

オン・ハーン、テムジン(後のジンギスハーン)の連合軍に敗れた“コイテンの戦い”において、ジャムカ勢の先鋒としてクダカ・ベキも参加している。

その後、ナイマン,キルギスなどの周辺諸勢力が征服されたことから、1208年夏にクチュルクおよびメルキト部族連合の盟主・トクトア・ベキらの追撃に イルティシュ川周辺に親征してきたジンギスハーンに、クダカ・ベキは 自ら赴いて帰順した。

この時、彼・クダカ・ベキは チンギスハーンより オイラト部族4個万戸隊の長に任命され自治権を安堵された。

併せてこの時の帰順によって、クダカ・ベキの一門は ジンギス家の皇女の降嫁を受けて駙馬(キュレゲン)家、つまり ジンギス家の婿・姻族となり、モンゴル帝え国の有力部族集団となった。

クダカ・ベキはジュチに従って「森の民」と呼ばれるブリヤト、キルギス、コリ・トマトなどシベリア南部の狩猟民の征服に協力し、さらにクチュルク、トクトァ・ベキの連合軍を撃破して トクトァ・ベキを戦死させている。

その後もジンギスの諸子や孫たちと皇女の降嫁や婿などを交換し、各地の遠征には子息たちも従軍するなどモンゴル帝国の中枢で活躍していった。

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姻族クダカ・ベキ家の発展

オイラト族のクダカ・ベキ家は13世紀を通じて コンギラト部族などと並ぶジンギスハーン家の主要な姻族となった。 部族として その勢力を高める。

クダカ・ベキ自身はその後 トルイ(ジンギスの末子四男)の右翼軍の幕僚となったが、彼にはイネルチとトレルチという二人の息子がおり、

その妻としてジンギスハーンは イネルチには長男・ジュチの次男・バトゥの姉妹コルイ・エゲチを与え、トレルチには皇后・ボルテとの間に儲けた第二皇女・チチェゲンを降嫁させている。

モンゴル帝国の最後のイラン総督であったアルグン・アカも クドカ・ベキ家ではないがオイラト部族の出身であった。

トレルチの娘たちは ジンギス家との姻戚が特に多く、最初 トルイに嫁ぎ後に モンケ(トルイの長男)の第一正妃となったオグルガイミシュ皇后(夫・トルイの他界後再婚)、や

フレグ(トルイの三男)の第四正妃・オルジェイ・ハトゥン、ジュチ・ウルスのバトゥ当主の次男・トクカンに嫁ぎ モンケ・テムル、トデ・モンケの生母となったクチュ・ハトゥンがいる。

また、チチュゲンとの娘には チャガタイの嫡孫・カラ・フレグに嫁ぎムバーラク・シャーを産んで、一時 チャガタイ家の監国となったオルクナ・ハトゥンや アリクブケの第一正妃・イルイガミシュ、フレグの第二正妃・グユク・ハトゥン 等々 “アルタン・ウルク/黄金の家”にクダカ・ベキ一族が深く関わっている。

蒙古高原からかなり離れたイラン・イラク地方に王朝を構えたフレグ一族でも、コンギラト部族と並んでオイラト王家との姻戚関係が強かったことでも知られている。

例えば、特に上記のクドカ・ベキの嫡子・トレルチ・キュレゲンとジンギスの第二皇女・チチュゲンとの娘グユク・ハトゥンは、後に フレグの第二正妃となっている。

チチュゲンは 他に後嗣のブカ・テムルなどを儲けているが、このブカ・テムルは妃となった姉妹たちとともに万戸隊(テュメン)を率いて フレグの西方遠征に参加しており、イルハン朝の重鎮・将軍に成っている。

更には 彼・ブカ・テムルの姉妹オルジェイが フレグの後嗣アバカの正妃となり、アバカの兄弟ジュムクル、テクシらはブカ・テムルの娘を娶っている。

また、イルハン朝のオルジェイトゥ・ハンの第四正妃であるハージー・ハトゥンは、ジュチ家バトゥの筆頭部将であったオイラト部族のチチャク・キュレゲンの娘で、イルハン朝のアブー・サイードの母となった人物ですから、

オイラト部族とジンギスハーン一族の姻戚関係の繋がりは 世代を超えて濃密になる。 しかし・・・・

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クトカ・ベキの後裔を中心とするオイラト部族の将軍たちは、ジンギス家の姻族として帝国の各地に移住し、イルハン朝下のイランで活躍したものもあらわれたが、原住地のモンゴル高原ではふるわなかった。

モンゴル高原のオイラト部族は、上述のようにジンギスハーンの末子四男トルイの末子アリクブケの一族と姻戚関係を結んでいたが、

1264年にアリクブケが兄クビライとの後継者争いに敗れたために アリクブケ一門が政治的にふるわなくなり、オイラト部族もその影響を受け 閉塞状態に陥った。

オイラト部族連合形成

14世紀後半以降、モンゴル帝国が解体してゆく過程で アリクブケの後裔・イェスデルが、クビライ家正統継承者である北元のトグス・テルム・ハーンを殺害して皇帝(ハーン)位を奪取する事件を起こした。

14世紀の末から15世紀の前半にかけて、当時のモンゴル高原では 西部域の諸部族、中でもアリクブケ一門支持派の基幹部族であるオイラトの力が高まっていた。

オイラト勢力は 陰山山脈南部の草原 ゴビ砂漠東西の牧草地帯から 万里の長城を超えて、明の領内を侵略・略奪を繰り返した。

15世紀初頭には、オイラト部族長・マフムードは高原でもっとも有力な勢力となっていた。

興安山脈南部から南侵を繰り返すアスト部族のアルクタイを 明の永楽帝が攻撃するのにマフムードは協力し、一躍 高原最大の勢力に拡大した。

北方の騎馬遊牧部族を互いに戦わせ 相殺させる戦略の中 永楽帝は今度はオイラト追撃に万里の長城を北にこえた。

1414年 永楽帝自らが親征を断行、 肥大したオイラト部族の覇権を阻もう進撃し マスムードを追討している。 以降、永楽帝の親征は十数回に及び オイラト部族は衰退を余儀なくされる。

1415年以降は オイラトのフムードとアストのアルクタイは 永楽帝の介入を巻き込んでモンゴル高原を左右する争いを続けている。

この騒乱の結果、モンゴル北元朝の皇帝(ハーン)が次々に改廃され、部族集団が陣営を集合離散する大混乱が起こり、部族の再編が進んだ。

こうして形成されたのが四十モンゴル(中国史料では韃靼いう)と四オイラト(瓦剌)と呼ばれる二大部族連合であり、オイラト集団はケレイト,ナイマン,バルグドなどを含む部族連合集団に変容した。

エセインの覇権

永楽帝の死により明の圧力が弱まったあと、勢力を拡大したマフムードの子・ドゴンは1434年にアルクタイを滅ぼし、北元ハーンを自らの傀儡に擁立して四十モンゴルを従えた。

ドゴンおよびその子エセンは西ではモグーリスタン(チャガタイ)・ハン国やウズベグといった遊牧国家と戦って勢力を拡大し、ついにモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至った。

ドゴンが没すると、エセンはトグス・テムルの横死以来50年ぶりに訪れた統一を背景に 明に対する侵攻を開始し、

1449年に迎撃してきた正統帝の親征軍を撃破して、正統帝を捕虜にした“土木の変”。

この戦果は、明側が正統帝の弟景泰帝を即位させて徹底抗戦の構えを見せたために エセンに十分な利益をもたらさなかったが、これに力を得たエセンは1453年に傀儡のハーンを滅ぼして 自らハーンに即位している。

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しかし、ジンギスハーンの子孫ではないエセンの即位には モンゴルの間ではきわめて不敬とみられて評判が悪く、

また同輩中の第一人者であったエセンが君主として君臨しようとしたことはオイラト部族連合内の諸部族長が募らせていた不満を爆発させた。

エセンは即位からわずか1年ばかりのちの1454年に殺害され、オイラトの覇権は挫折した。

この混乱により、モンゴルの王族・貴族の数多くが殺害され、生き残ったのは わずかにオイラト部族の母をもつ数人の王子だけという状況となり、モンゴル高原の混乱はさらに続いた。

エセン没落後のオイラト

エセンの死後、オイラトは勢力を大幅に後退させた。

それでも幾人かの有力な首長はモンゴルのハーン位争いに介入し、オルドス(黄河大湾曲部)などモンゴル高原の西部を制する勢力を誇った。

しかし、1487年にダヤン・ハーン(本名はバト・モンケ、ジンギスハーンの末裔、ホルジギン氏族)が即位すると モンゴルの再編統一が行われ、オイラトの勢力はダヤン・ハーンの子孫によって次第に西に追いやられた。

16世紀半ばにはダヤン・ハーンの孫・アルタン・ハーンに敗北し、世紀の後半にはダヤン・ハーンの別の系統の子孫であるハルハ部のハーンたちに オイラトは服属することを余儀なくされた。

やがて モンゴルがダヤン・ハーンの後裔たちの間で分割相続が進み、アルタンの死から後はモンゴル全体を統一する権力が消滅した結果、

1623年になってオイラトはモンゴルより独立を果たした。

この時代のオイラト人の間では モンゴルとは別個の集団としての自意識の形成が進み、モンゴル文字をオイラト方言を記しやすいように改良したトド文字が考案し アイデンティーを高めている。

同じころ、満州に勃興した後金が内モンゴルの諸部族を服属させ、国号を大清と改めた。

これに対して清の脅威にさらされた外モンゴルのハルハとオイラトの各部は同盟を結び、1640年に「オイラト・モンゴル法典」を制定して部族間関係を調整、ハルハとオイラトの抗争は終止符を打つ。

しかし オイラトの内部では、やはり同じころ、部族間の力関係が変化し、内紛が絶えず起こっていた。

1632年、ケレイトのオン・ハンの後裔を称するオイラトの有力部族・トルグートは内紛を避けて西方に移住し、 ヴォルガ川下流域に移住した。

彼らの後裔が現在のカルムイク共和国に住むカルムイク人なのです。

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グーシ・ハーンのチベット征服

17世紀のオイラト族は、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部のジュンガリアにかけての草原地帯に割拠し、ホシュート部族が有力となっていた。

1630年頃の内紛の後、ホシュート部の首長となっていたグーシ・ハーン=トゥルバイフは、帰依していたダライ・ラマの宗派ゲルク派が チベットにおいて政治的に危機に陥っているのを救うという名目で、

1636年にオイラト軍を率いて出動、1637年初頭、チベット東北部のアムド(現青海省)を制圧、その後 ラサに上って ダライ・ラマ5世より「シャジンバリクチ・ノミン・ハン、テンジン・チューキ・ギャルボ」の称号を授かっている。 世上の支配君主の称号です。

オイラト各部の首長たちは ジンギスハーンの子孫ではなかったため ハーン(君主)になることができず、従来は 全オイラトを統べる実力者であってもタイシ(中国語の太師)などの称号を名乗っていた。

が、ダライ・ラマから称号を得たグーシ・ハーン以後、時代ごとに、オイラトの有力指導者の一人にダライ・ラマがハーン号と印章を授けるという手続きを経て、ハーンを名乗ることができる慣例が生じた。

グーシ・ハーン=トゥルバイフは 1638年より1639年にかけ、傍系の兄弟たち、オイラト各部の首長家の傍系者らをその配下とともに呼び寄せ、彼らを率いて残るチベット各地の征服に乗り出した。

グーシ・ハーン=トゥルバイフの軍は1642年までに チベットの大部分を制圧、ホシュート本領は兄の子で正統継承者のオチルトに譲り、チベットにおいてグーシ・ハン王朝を樹立した。

グーシ・ハーン率いるオイラト軍団はアムドを主として チベット各地に配置され 駐屯したが、彼らのうちアムドに居住する者たちが、のちに青海モンゴル族と呼ばれるようになった。

また、一部のオイラト部民は ラサ北方100キロ付近のダム地方に移り住み、グーシ・ハーン=トゥルバイフ王家に仕える直属部隊となったが、これらの人々の後裔がチデットのオイラト人として現在も続いている。

片や ジュンガール盆地に進出したオイラトは・・・・・・

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______ 続く _____

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