シルクロード夜咄・運命の綾(1) 

= アレクサンドロス大王に敵対し、暗殺された少数民族 =

スピタメネス (前編)

夜咄ー11-1

スピタメネス

紀元前370年 – 紀元前328年の頃、アケメネス朝ペルシャ時代のソグデリアはバクトリアの豪族。 ソグド人。

ダレリオス3世の死後、バクトリアの総督・ベッソスとともにアレクサンドロス大王に敵対したが、その後 ベッソスを裏切って、彼をアレクサンドロス大王に引渡し降伏した。

スポタメネスは その後更にアレクサンドロス大王に反旗を翻したが、最後は妻に暗殺される・・・・・

夜咄ー11-2

アケメネス朝末期のバクトリア総督であったベッソスは、アレクサンドロス大王の東征が始まるとダレイオス3世によって招集されて軍の指揮を執った。

アレクサンドロスの遠征中最後の大会戦となった紀元前331年のガウガメラの戦いでは、騎兵を中心とするバクトリア兵やスキタイ兵によって構成された左翼部隊の指揮を執り、

マケドニア軍を大いに苦戦させたが本隊が壊走し、最後はマケドニア軍の勝利に終わっている。

ガウガメラの戦い

ペルシャ軍は先に戦場に到着した。 ダレイオスは事前に戦場の樹木を刈り払って戦車部隊の障害とならないようにしておいた。

軍勢の中央にはダレイオス3世と最精鋭の歩兵部隊が布陣した。 両翼は騎兵部隊であり、左翼をベッソス、右翼をマザイオスが指揮した。 戦車隊は騎兵の前に配備された。

ペルシャ軍がマケドニア軍の両翼を攻撃するため進撃するのに応じて、アレクサンドロスも攻撃に出た。

彼は自分の率いる部隊をくさび状に編成し、自ら突撃の先頭に立った。

その後ろには援護のため軽装歩兵が続いた。 アレクサンドロスは騎兵の大半を率いてダレイオスの前線と並行に移動し、戦場から離れていった。

ダレイオスは前線の騎兵にアレクサンドロスを食い止めるように命じた。

この騎兵はアレクサンドロスの後衛の軽装歩兵に防がれ、アレクサンドロスはペルシャ軍に向かって急転回して、ベッソクスの左翼とダレイオスの中軍の間にできた裂け目に突入した。

アレクサンドロスはダレイオスを追撃するつもりだったが、バルメニオン(古代マケドニア王国の武将)、から必死の救援を求める伝令に接した。

マケドニア軍が崩壊する危険を犯してまで追撃を続けるか、左翼・バルメニオンを救援するかの選択に迫られたアレクサンドロスは結局バルメニオンを救援し、その後で ダレイオスを追撃することにした。

マケドニア軍の左翼と中央の間に大きな裂け目ができており、ペルシャ軍の中央にいたペルシャ騎兵とインド騎兵(傭兵部隊)はその裂け目から マケドニア軍の戦線を突き破った。

が、彼らは背後に回りこむよりも、マケドニア軍の宿営地に進軍して物資を略奪するほうを選んで 戦場を離れた。

ダレイオスの中軍が崩壊した。 左翼・マザイオスも右翼・ベッソスも 同様退却を始めたが、彼の部隊はまもなく潰走状態となった。

アレクサンドロスの騎兵は続いていまや弱体化したペルシャ軍の中軍を襲い、ダレイオスの近衛兵とギリシャ人傭兵部隊を撃破した。

左翼のベッソスはガレイオスから切り離されてしまい、アレクサンドロスの騎兵に攻撃されるのを恐れて退却した。

ダレイオスも包囲されるのを恐れて退却したが、そのためペルシャ軍の中軍は潰走することとなった。

夜咄ー11-3

ベッソスはダレイオス3世らとともに戦場から離脱して東へと逃げたが、大軍を擁しながら敗北を続けたダレイオス3世の権威は既に失われており、

紀元前330年、ベッソスは仲間と共謀してダレイオス3世を暗殺し、ソグデイアナの有力者・スピタメネスや総督のオクシュアルテスらと同盟を結び、自らペルシャ王を名乗って名前をアルタクセルセスと改名した。

しかし アレクサンドロスはダレイオス3世の死体を発見すると盛大な葬儀を執り行って、ダレイオス3世を葬り その仇を討つという名目によってベッソス追討の命令を出し、更に東へと進んだ。

アレクサンドロスがヒンドウークシュ山脈を越えてバクトリアに侵入すると、ベツソスは抵抗を諦めて逃亡し、スピタメネスやオクシュアルテスとともにオクサス川(アムダリヤ川)の船を焼き払ってアウタクへと逃れた。

ベッソスを追討しつつ中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは 330年の春 オクサス川渡り、ソグデイアナ地方にへと進軍し ベッソスを追跡した。 アレクサンドロスは前年にタシュ・クルガンと バルフを無血占領している。

ソグデイアナではスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。

アレクサンドロスがソグデイアナの地に足を踏み入れてからまもなくして、ベッソスの武将・スピタメネスからの使者が陣営に訪れた。

スピタメネスの伝言は、彼らがベッソスを指導者とは認めずに捕らえたこと、ベッソスをアレクサンドロスに引き渡したい事を提案する内容であった。

ベッソスから取り上げたダレイオス3世の王冠と衣服が使者からアレクサンドロスに手渡され、アレクサンドロスは直ちに 将軍・プトレマイオスが率いる大部隊を派遣した。

彼らは、普通10日はかかる道程を四日で駆け抜け、スピタメネスの陣営に到着した。しかし、そこには少数の兵士に守られたベッソスだけが居て、スピタメネスらはソグデイアナの奥地・天山山脈の懐に消えていた。

・・・・・・ この地方の旅は 誠に楽しかった。 紀行拙文“汗血馬の故里へ”を参照下さい・・・・

アレクサンドロスはベッソスを裸にし、手枷と首輪が一体の鉄具をつけて ギリシャ・マケドニアの将兵の前 市街の婦女の前 バザール内を引き回し、ダレイオス3世の皇后・皇女・親戚の前で鞭打たせ、その身柄を王子に引き渡した。

彼らはベッソスを八つ裂きにした。 ベッソスは、かって彼がダレイオス3世にしたと同じことを、今度は自分自身に加えられて他界した。

マケドニア軍は紀元前329年から紀元前327年まで ソグデイアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。

クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めていた。

アレクサンドロスは、将兵に強奪・略奪を禁じていたが 性のはけ口としてペルシャ人との結婚を奨励し、集団見合いを各地で実施させている。

自らも、紀元前328年に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘・ロクサネを妃としている。

夜咄ー11-4

【  クレイトス;古代マケドニア王国の武将で、アレクサンドロス3世(大王)の友人、側近将校の一人。マケドニア貴族・ドロビデスの子、アレクサンドロより年上で 姉・ラニケはアレクサンドロの乳母であった。

クレイトスは アレクサンドロス3世によって騎兵親衛隊長に任命され、グラニコス川の戦いでアレクサンドロスに背後から襲い掛かったペルシャの武将・マザイオスの腕を斬り落として王の命を救った。

その後ガウガメラの戦いで王とともに騎兵隊を率いて敵陣に突入し、フィィロタスの処刑によって空席となったヘタイロイ騎兵の隊長にヘファイスティオンとともに任命されるなど、優秀な指揮官であった。

しかし伝統的なマケドニアの風習を重んじていたため、ペルシャ風の宮廷儀礼を導入したり異民族との融和を重んじるをアレクサンドロスの政策に異を唱え、王に阿諛追従する近習たちの言動を遠慮なく糾弾した。

紀元前328年にソグディアナのサマルカンドでペルシャ人のバクトリア総督・アルタバゾンが老齢のため辞任を申し出たのを受けて、王はクレイトスを後任のバクトリア総督に任命し、祝賀の宴を開いた。

しかし、上記のようないきさつでクレイトスとアレクサンドロスとの間に かねて緊張関係が生じていたため、酒宴の席上でクレイトスはアレクサンドロス大王と東方政策をめぐる口論をはじめた。

、酔った王はクレイトスの挑発的な言動に激怒して、彼を槍で刺し殺した。

その後酔いが醒めたアレクサンドロスは自分の行為に激しい衝撃を受け、三日三晩にわたって部屋にこもったまま慟哭し続けたという。

オクシュアルテス;バクトリア地方の有力者。 紀元前331年のガウガメラの戦い後、ダレイオス3世を暗殺してペルシャ王を称したバクトリア総督・ネッソスにアレクサンドロスに対抗した。

しかし、ベッソスはバクトリア地方で満足な抵抗が出来ないままソグディアナへ逃走した。

オクシュアルテスはその後、ソグディアナの岩砦の守備を勤めたが、同じくベッソスとともに戦っていたスピタメネスらと共にベッソスを裏切った。

ベッソスの身柄をアレクサンドロスに引き渡し、彼に降伏した。

その後、アレクサンドロスに娘・ロクサネが嫁ぐ事になり(紀元前327年)、紀元前324年の集団結婚式では娘・アマストリネが アレクサンドロス大王の騎兵隊長・ヘファイスティオンの妻となっている。 政治家である 】

夜咄ー11-5

紀元前331年のガウガメラの戦いでアレクサンドロス率いるマケドニア王国軍によってペルシャ軍が破れ、宰相・ベッソスはダレイオス3世を暗殺し自ら王を称したが、

バクトリアの豪族・スピタメネスは、ベッソスとともにアレクサンドロスに対抗したが、ベッソスはは呆気なくバクトリアを追われ、スピタメネスも彼とともにソグディアナに逃走した。

彼は逃走途上でベッソスが将の器でない事を知った。

そこで仲間のオクシュアルテスとともにベッソスを捕らえ、彼の身柄をアレクサンドロスに引渡して降伏した。

その後、アレクサンドロスは サマルカンドを占領、更に シルダリア川方面へと向かったが、スピタメネスは間もなく 姿を隠していた天山山麓からソグディアナに現れ 反乱を起こした。

紀元前329年の春です。

アレクサンドロスはシルダリア川近辺の現地人との戦いで重傷を負いつつもこれを平定してアレクサンドロス・エスタタ市を建設していたが、スピタメネス反乱の知らせを受けて将軍・バルヌケスに鎮圧の命令を出した。

スピタメネスはサマルカンドを包囲したがバルヌケス率いるマケドニア軍が救援のために送られたことを知ると包囲を解いた。

その後、深追いしてきたバルヌケス軍歩兵2,000、騎兵300をスピタメネスは全滅させ、勝利を収めた。

この敗戦の報告を受けたアレクサンドロス大王は、部下に対し敗北の知らせを外部に漏らさないように指示を出すと、自らサマルカンド奪回へと向かった。

スピタメネスはアレクサンドロスとの直接衝突を避け、その到着前にサマルカンドを引き払って行方をくらました。

夜咄-11-6

_____ 続く _____

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】  http://ameblo.jp/thunokou/

※ 前節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/06/25/

※ 後節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/06/27/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います