探検家・冒険家 =4-①=

 3D投影システムで再現する現代の探検家 = アルバート・ユーミン・リン =

~チンギス・ハーンの墓を求めて~

ユウミンー1-

スターケーブ;

 探検家はチンギス・ハーンの墓を目指して「スターケーブ(StarCAVE)」のドアを開ける。  一歩踏み込むと、そこはどこを向いても荒野の世界。

 彼は足元に並ぶ岩に気付いて身をかがめる。 どうやらきっちりと長方形に並べられているようだ。 灰色の堆積物の斜面に緑色のコケ類が不規則に生え伸びた中で、岩が形づくる秩序は異彩を放つ。

 メモを記した後、はるかかなたの山の峰に顔を向ける。次の目標を見定めた探検家は、時速数百キロに加速して山頂の古代神殿へ飛ぶ。

  もちろん、これは現実ではない。 5面の壁に囲まれたスターケーブが作り出すイリュージョンだ。

 スターケーブは、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)内、最新の耐震設計が施された研究室に鎮座している。 中に入ると、巨大な3D投影システムが、コンピューター合成の分子構造や、建築CAD図面、今回のようなモンゴル北部の高解像度衛星画像を映し出す。

 その世界に完全に入り込むことができる「没入型」のバーチャル技術である。 探検家がしゃがんで調べるのは岩ではなくピクセル単位のデータであり、移動する場合も実は立ったままだ。スターケーブ内では、何も現実には存在しない。

 ただし、探検家だけは“本物”だ。 アルバート・ユーミン・リン(Albert Yu-Min Lin)、30歳。

 精悍に日焼けした相貌は、研究室よりも大草原を馬で疾駆するのが似合い、かつてユーラシア大陸を駆けめぐったモンゴル騎兵の血がなお残っているかと思わせる。

 「いつの時代も先駆者は、最新のテクノパワーを以て先端を切り開いてきた。 私たちの研究チームも、最新のアプローチで古くからの難題に挑戦している。 誰も到達できなかった場所を目指す。

 目標は私も同じだ」とリンは言う。 「環境・文化・政治的な障害のため、探検の難しい地域が存在する。 しかし、今日の技術があれば、古い障害を乗り越えるチャンスが生まれる」。

 ユウミンー11-

 チンギス・ハーンの墓;

 2009年にリンらの調査隊が探査したモンゴルの“立ち入り禁止地帯”は、まさにそうした対象だった。 一般の地図には記されていない。 軍の機密施設のように。

 実際、ソ連支配の時代には“軍事施設”に指定されていた。 モンゴル北部ヘンティー県の奥深く、「イフホリグ(Ikh Khorig)」の地。 「大いなる禁忌」という意味で、通常は立ち入りが禁止されている。

 1227年にチンギス・ハーンが没してから1991年まで、約230平方キロの立ち入り禁止地帯は世界のどの場所よりも接近し難い場所だった。

 死の直後、残されたモンゴルの将軍たちは、50家族からなる百戦錬磨の集団「森のウリヤンカイ」に対し、「この地に住み、あらゆる侵入者を殺せ」と命じた。 例外は、この場所への埋葬が許されていたチンギス・ハーンの直系子孫の葬列だけだった。

 こうした過度な秘密主義から、多くの人は「遺体はこの一帯のどこかにある」と推測してきた。

ユウミンー10-

 チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。 『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。

 また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないように家臣達へ遺言したとされる。

 チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。 四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。

 元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。 15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部(オルドス・内蒙古)に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。

 オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。

 一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。 現在中華人民共和国の内モンゴル自治区に「成吉思汗陵」と称する施設があるが、これは毛沢東が延安に移動させた後、1950年代に中国共産党が八白室を固定施設に変更して建設されたもので、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。

 ※; 私は二度、オルドスを彷徨った。 しかし、訪れた八白室は文化大革命で破壊され建物だけが寒風に晒されていた。 チンギス・カンゆかりの遺品・往時の生活を偲ぶ諸備品は持ち去れた空間のみが無言であった。

追記すれば、大日本帝国・関東軍が五族協和策推進の為 満州・興安盟に建造した“成吉思汗陵”の遺品・諸備品を延安に移管させた後、オルドスに関東軍設計とほぼ同一の“成吉思汗陵”を建設したのです。

激動の天山4-3

  冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。 しかしモンゴルでは、民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が、外国人に発掘されることに不満を持つ人が多いという。

 2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。

 調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。

 また2009年、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始したと言う。

ユウミンー2-

 チンギス・ハーンが築いた帝国の広大さは、ナポレオンとアレクサンドロスの帝国を合わせても遠く及ばない。 そうとうな財宝が遺体と一緒に埋葬されていると考えられる。 1924年にソ連がモンゴルを支配下に収めると、チンギス・ハーン崇拝はナショナリズムを喚起するとして危険視された。

 祖国の英雄にまつわるさまざまな要素が排除され、「森のウリヤンカイ」もソ連軍によって一掃されてしまう。 ただし、イフホリグの監視体制は、極秘の軍事施設として維持される。

 70年近く後の1991年、ソ連崩壊に伴ってようやく規制緩和が始まった。 しかし、封鎖から800年近くがたった今日でも、ここに入れるのはごく限られた考古学者、生物学者、環境学者だけである。

 調査に対する規制は為政者によるものだけではない。 モンゴル人にとって、チンギス・ハーンの墓は極めて神聖な場所である。 地面を掘って墓所をあばくことは、歴史の解明より前に、冒涜であると考える人は多い。

 墓を荒らせば、終末をつかさどる霊が解き放たれ、世界に終わりがもたらされると信じる住民もいる。

ユウミンー3-

・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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