探検家・冒険家 =14-④= 

海洋探検家 =ジェームズ・クック(James Cook)= 

~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・海図製作士官 に ~

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最初の南太平洋冒険・第1回航海(17681771

1766年、王立協会は、クックを「金星の日面通過」の観測を目的に南太平洋へ派遣することにした。 金星の日面通過とは、金星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象で、19世紀まではこれが太陽系の大きさを測定するためのほぼ唯一の手段だった。

そのため国際的なプロジェクトとして欧州各国で観測隊が結成された。 クックは18世紀に起きた2回目の日面通過にあたる、1769年の現象観測のため、英国からタヒチに送り込まれたわけです。 ちなみに、20世紀は0回、21世紀は2004年が通過の年にあたり、次回はその8年後、すなわち昨年2012年。

英国海軍航海長(士官待遇だが、公式の指揮権を有さない)の階級にあった38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官である海尉(Commanding Lieutenant)に任じられ、HMSエンデバー号(HMS Endeavour)の指揮官となった。

もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、大きな積載量、強度、浅い喫水、どこを取っても、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。

エンデバー号には、様々な人物が調査員として乗り込んだ。 熱帯の珍しい植物の採集のために、貴族で植物学者のジョセフ・バンクス(Joseph Banks)、カメラのない時代であったことから、詳細な記録を素描する画家にシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)、金星の観測のため、天文学者のチャールズ・グリーン(Charles Green)などが選ばれた。  さらに、黒人の召使いやペットの犬までが持ち込まれた。

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※;サー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks, 1st Baronet,(1743年2月2日 − 1820年6月19日)は、イギリスの博物学者、植物学者、プラントハンター、準男爵、王立協会会長。科学の擁護者としても知られ、自然史の父とも言うべき存在でもある。 ジェームズ・クックの第一回航海(1768 – 1771年)に同行し、南太平洋地域に関する多くの博物学的知見を西欧にもたらす。航海で収集された膨大な新種のうち、75種の命名にバンクスの名が遺る。

ユーカリ、アカシア、ミモザを西欧にはじめて紹介した。植物属バンクシアも、彼の名に因んでいる。 1967年から発行されていた5オーストラリア・ドル紙幣の表面に肖像が使用されていた。

※;シドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson、1745年頃 – 1771年1月26日)は、スコットランドのクエーカー教徒で、博物画家である。

1762年にパーキンソンはジョセフ・バンクスによって記録画家として雇われ、ジェームズ・クックのエンデバー号による第1回の太平洋航海に参加した。 バンクスやダニエル・ソランダーが集めた数千の植物や動物の博物画を描いた。 何百という標本に囲まれた狭い船室で暮らし、絵を描いた。 タヒチでは絵の具にたかるハエの大群に悩まされた。 パーキンソンはケープタウンへ向かう途中のジャワ島沖で赤痢にかかり、船上で没した。バンクスは彼の親族に多くの報酬を払った。

パーキンソンを記念して、クロミズナギドリ(Procellaria parkinsoni)に献名された。パーキンソンの描いた図は1988年に35巻のAlecto Historical Editionsとして出版され、ロンドンの自然史博物館によってデジタル化された。1986年オーストラリアで肖像が記念切手として発行された。

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 8月初旬に乗員94人で英国を出帆したエンデバー号は、南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチには翌年の1769年4月13日に到着した。

クックはタヒチに到着する前に、現地の住民と友好的にすること、彼らの生活習慣を尊重し人間的に扱うこと、そして勝手に船内の機材を物々交換に使用しないことなどを船員たちに言い渡した。 これは命令であり、背いた場合は罰則が科せられた。

日面通過は6月3日で、クックは小さな居館と観測所の建造を行った。

異文化や人権尊重の立場からというより、自分たちの命を守るためであったと思われる。 食料の調達や日面通過の観測を安全に行うには、現地のタヒチ人の協力が不可欠だからだ。

彼らとのやり取りはほとんど身振り手振りで行われた。 双方がおっかなびっくりの状態で、小競り合いなどはあったものの、タヒチ人は総じて好意的に接してくれたようだ。

6月3日の金星の日面通過はクックを含む3人が同時に観測したが、それぞれ別に行った観測は誤差の範囲を越えていた。 観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。 観測を担当したのは、王室天文官(グリニッジ天文台長)ネヴィル・マスケリンの助手、天文学者チャールズ・グリーンであった。

観測の目的は、金星の太陽からの距離をより正確に算出するための測定であった。 もしこれが成功すれば、軌道の計算に基づいて、他の惑星の太陽からの距離も算出できるはずであった。

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 金星の日面通過の観測当日、クックはこう記している。

「6月3日土曜日。本日は期待通り観測に好適な日和となり、雲一つなく、空気は完璧に澄んでおり、金星の日面通過の全経路の観測にはあらゆる好条件が備わっていた。 金星を取り巻く大気あるいは薄暗い影があまりによく見えたので、金星と太陽の接触、とくに第2接触の時刻の観測がきわめて困難になってしまった。 ソランダー博士とグリーンと私は同時に観測したが、それぞれが観測した接触時刻は思っていたよりもかなりずれていた・・・・・・・」

しかし、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれ別に行った観測は誤差の期待範囲を越えていた。 観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。 観測結果は別の場所で行なわれた結果と後に比較検討されたが、やはり期待したような正確な観測結果ではなかった。

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タヒチからニュージーランドへ

天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての英海軍からの秘密指令を開封した。 それは、南半球にあるという、北半球の大陸と同サイズの土地、伝説の南方大陸テラ・アウストラリス(Terra Australis) を探索せよ、という指令であった。

金星観測を理由にすれば、英国にとってこの航海は、ライバルの欧州諸国を出し抜いて南方大陸を発見し、伝説の富を手に入れる絶好の機会となる、と王立協会は考えたのである。 この説の特に熱心な信奉者が王立協会会員のアレキサンダー・ダルリンプルであった。

南太平洋の地理に詳しいタヒチの青年、トゥパイア(Tupia)の助力を得て、1769年10月6日、クックはヨーロッパ人として史上2番目(1642年のアベル・タスマン以来)にニュージーランドに到達。

海岸線のほぼ完全な地図を作製し、クックは、いくつかの小さな誤り(バンクス半島を島としたり、スチュアート島を南島の一部と考えるなど)はあるものの、ニュージーランドが南方大陸の一部ではないことを確認する。

また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡も発見し、これは現在クック海峡と呼ばれている。

※;メガラニカ、マガラニカ、マゼラニカ(Magallanica、Magallánica)は、かつて南極を中心として南半球の大部分を占めると推測された仮説上の大陸のことである。

テラ・アウストラリス(ラテン語 Terra Australis、南方大陸)ともいうが、この語はのちにオーストラリア大陸を指すようになり、現在でも雅語・文語的に使われることがある。未発見であることを強調し、テラ・アウストラリス・インコグニタ(Terra Australis Incognita、未知の南方大陸)ともいう。

「メガラニカ」は、南方大陸の一部と思われたフエゴ島を発見したフェルディナンド・マゼラン (Magallanes)にちなんだ、比較的新しい名である。形容詞として使って、テラ・マガラニカ(Terra Magallanica、メガラニカ大陸)ともいう。漢字表記は墨瓦臘泥加・墨瓦臘尼加だが、1708年に日本で出版された「地球万国一覧之図」には誤って黒瓦臘尼加と書かれている。

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・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =14-③= 

海洋探検家 =ジェームズ・クック(James Cook)= 

~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・海図製作士官 に ~

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 この頃、時の英首相ウィリアム・ピット(William Pitt)はフランスが北部新大陸(現カナダ)をあきらめるよう、様々な形で重圧をかけていた。

1759年、ケベックをめぐる戦いには著名な英将軍ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が参加する。

※;ジェームズ・ウルフ(James Wolfe, 1727年1月2日 – 1759年9月13日)は、イギリスの陸軍士官。カナダでフランス軍に勝利し同地におけるイギリスの支配の確立に貢献した功により知られる。

1756年、イギリスとフランスとの間にあからさまな敵意が燃え上がり、翌年、ウルフはフランス領の大西洋岸の軍港ロシュフォール攻略作戦に参加した。 セントローレンス川対岸の岬に築いた砲台からの徹底的なケベック市街への砲撃に続けて、市の西側の急峻な崖からの大胆で危険な上陸作戦をウルフは指揮した。 1759年9月13日の早朝、ウルフの部隊は小さな砲を2門携えて崖をよじ上り、ケベックを直接見下ろす高地に陣取り、その崖からの登攀は不可能だと考えていた、カナダ防衛軍総司令官モンカルム侯率いるフランス軍を驚愕させた。

フランス軍は、その高台からの砲撃が始まれば市の城壁もついに持ちこたえられないと覚悟し、アブラハム平原の戦いによる決戦に打って出た。 フランス軍は敗れたが、ウルフは胸部を撃たれる。 ウルフは「敵が逃げて行きます」との報告を聞き、イギリス軍の勝利がなったことに満足して死んだ、と伝えられている。 ケベック攻略戦の勝利によって、翌年にはイギリス軍のモントリオール上陸がもたらし、モントリオールの陥落によって、北米におけるフランスの支配は、ルイジアナとサンピエール島・ミクロン島を除いて、終りを告げた。

クックの作成した先の海図を利用したウルフは、川対岸の岬に築いた砲台から徹底的なケベック市街砲撃を行い、フランス軍を驚愕させる。 クックの作成した綿密な海図が、ウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦を成功に導いたのだった。

この英仏戦争の結果、北米に置けるフランスの支配は実質的に終わりを告げる。 その点から見ても、この勝利は英軍にとっての歴史的な出来事であった。 そして、今回の測量による貢献でクックは一躍、英国海軍本部と、王立協会(Royal Society)から注目を受けることとなる。

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 クックは引き続き1762年まで北米で任務を続け、英国帰還の機会が訪れた時、クックは33歳になっていた。英国へ戻った彼は、まず結婚相手を探し始める。

ハンサムで有能な航海長だけに相手探しに困った形跡がない。 彼はポーツマス港からロンドンに到着したおり、水兵の町として知られるシャドウェル(Shadwell)で、当時20歳のエリザベスと出会う。

1年のほとんどを海上で暮らすクックに、どれ程ロマンティックな恋愛の観念があったのかは分からないが、2人は同年12月21日に出会いから約1ヵ月というスピードで結婚。 そして東ロンドンのマイル・エンド(Mile End)に所帯を持つが、その3ヵ月後には早くもクックに測量士としての出発命令が下る。

彼はそれからの5年をカナダ東部の島、ニューファンドランド(Newfoundland)島海域の測量に費やしたのだった。 クックのこの測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。

彼は従来の船乗りとは異なり、最新の科学的測量を実行したと言われている。 従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけだったのが、クックは四分儀と経緯儀、測鎖を使って、三角測量と天体観測を行ったのだ。

船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船を頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量するという根気のいる仕事を繰り返した結果、クックの作成した海図は、現代のこの地域の海図と比べても、ほとんど遜色のない見事な出来だという。

こうした科学的業績が評価され、彼は王立協会の会員にも選ばれ、大きな名誉を手にしている。 ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」とクックは記した。

そしてその願いに応えるかのように、次の大きな冒険が待ち受けていたのです。

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 ※; クックの家族

クックは34歳で、13歳年下のエリザベス・バッツ (1742-1835) と1762年に結婚し、6人の子供 ジェームズ (1763-1794)、ナサニエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772)、ヒュー (1776-1793) を儲けた。

陸での住まいはロンドンのマイル・エンンド(貧民街)にあった。  クックの子供たちは、いずれも子孫を残さずに夭折したため、クックの直系の子孫はいない。

※; クックの海上健康管理法

長期の船旅では新鮮な野菜や果物が不足することから、船員の間に壊血病が蔓延した。 これは皮膚や歯肉からの出血、骨折や骨の変形などに始まって、肺に水が溜まり、最後は高熱を伴い死に至る病とされる。

16世紀から18世紀の大航海時代は、この病気の原因が分からなかったため、船員の間では海賊よりも恐れられたという。

当時の壊血病予防法はガーリックやマスタード、トナカイの血や生魚など、ほとんど呪術的といってもよい様相を示していた。  そんな中、英海軍の傷病委員会は食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物を摂ることによってこの病気の予防が出来ることを突き止めた。

その先例として、クックは航海中出来るだけ新鮮な柑橘類をとるよう命令を受ける。それが功を奏し、第1回南洋航海では、ただ1人の船員も壊血病で死者が出なかった。 これは当時の航海では奇跡的な成果であった。

航海中は新鮮な柑橘類の入手が困難なことから、海軍は抗壊血病の薬にと、麦汁やポータブルのスープ、濃縮オレンジジュース、ザワークラウト(酢漬けのキャベツ)などをクックに支給した。

クックはこれらを食べるように部下に促したが、当時の船員は新しい習慣に頑強に抵抗し、最初は誰もザワークラウトを食べなかったという。 そこでクックは、ザワークラウトは自分と士官に供させ、残りは希望者だけに分けることにした。

そして上官らがザワークラウトを有り難そうに食する姿を見せると、1週間も経たない間に、自分たちにも食べさせろという声が船内に高まったという。

これだけに限らず、クックは食事を残す者に対して厳しい処罰を与えた。 しかしながら長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まず、ビタミンCと壊血病の関係がはっきり明らかになったのは、1932年のことです。

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※;イギリス海軍(Royal Navy)は、イギリスの海軍。英海軍とも表記される。 英語で特に国名を冠さず単に”Royal Navy”(ロイヤル・ネイビー)とする場合、通常イギリスの海軍を指す。 Navy は本来艦隊を意味する言葉であり、イングランド国王が保有する艦隊であったが、やがてイングランドの海上戦力に係る組織全般を意味するようになった。

”Royal Navy”の呼称は1660年に与えられたものであるが、イギリスが連合王国となったのは1707年である。 つまり、日本では1707年以前の”Royal Navy”或はそれ以前の”Navy”も”イギリス海軍”と表記しているが、これらは本来イングランド海軍と呼ぶべきものである。

ロイヤル・ネイビーの呼称は、現役の水上艦隊 (Surface Fleet) ・潜水艦隊 (Submarine Service) ・艦隊航空隊 (Fleet Air Arm) の3隊の集合体を指す場合に使用される。 また、それら現役の3隊に加え、補助艦隊 (Royal Fleet Auxiliary) ・予備艦隊 (Royal Naval Reserve) を包括する概念を指す場合には、ネーバル・サービス(”Naval Service”, 海軍)の呼称が用いられる。

イギリスは島国のため海軍の歴史は比較的古い。 海軍は帆船を主として擁し、ガレー船の類は用いなかったようである。 対外戦争で度々海戦を行っておりその多くにおいて勝利を収めた。 世界のあらゆる場所でイギリスの艦船が行き交い世界一の海軍として並ぶもののない存在であった。

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・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =14-②=

海洋探検家 =ジェームズ・クック(James Cook)= 

~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・海図製作士官 に ~

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 海への第一歩

ジェームズは、漁村ステイテスの雑貨店での奉公中に 店の窓の外を眺めているうち海に魅せられたという。

ある時、ジェームズは雑貨店で客の支払った代金の中に、サウス・シー・シリングといわれるジョージ1世のシリング硬貨を見つける。 これは新大陸のスペイン領との貿易を目的に設立された、英国の南海会社(サウス・シー・カンパニー)の記念硬貨で、表面にSSCと記されていた。

光り輝くその硬貨に魅せられたジェームズは、こっそりレジからサウス・シー・シリングを抜き取ると、代わりに自分のポケットから普通の1シリング硬貨を入れて 交換してしまった。 だが彼は、店主に呼ばれ、泥棒の疑いを掛けられてしまう。

慌ててことの経緯を説明したおかげで疑いは晴れたものの、ジェームズはこれを機会に店を辞めようと決意・・・・・・ 雑貨店に奉公に来て1年半が経過していた。

「それで、これからどうするつもりだね?」と店主に聞かれたジェームズは、迷わず 「海に出たいのです」と答えていた。 親切な雑貨店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビー(Whitby)のウォーカー兄弟にクックを紹介する。 ウォーカー家は当地・ウィトビーの有力な船主で商家であった。

ヨークシャー北部のステイテスでの丁稚奉公から、移り住んだ港町ウィトビーのウォーカー家は有力な船主で商家で バルト海を差配し、ロンドンへもその商圏を広げていた。

18歳の時のことである。 ジェームズは晴れて「海の男」としての第一歩を踏み出したのです。

1746年に、ジェームズは英国沿岸の石炭運搬船団の見習い船員として雇われたのです。 この間、操船に必要不可欠な代数学、三角測量法、航海術、天文学の勉学に励んだのです。

彼は雇い主のウォーカー宅に寝起きしながら、測量法や天文学、数学や航海術などの船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通った。 ウォーカー家の年老いた女中は熱心なジェームズをかわいがり、彼が夜遅くまで勉強できるよう、椅子と机、キャンドルなどを率先して用意してくれたという逸話も残っている。

イギリス北西部の小さな港町ホイットビーのウォーカー社に雇われ、雇い主の意向でロンドンへの石炭運搬の仕事に組み込まれた。 ジェームズは船乗りの下働きとなり、ロンドンへの石炭運搬船に乗り込み 航海を経験して行く。

1747年2月、ジェームズはキャット(Cat)と呼ばれる小型船の見習い(apprentice)として、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験する。  ロンドンへ石炭を運ぶこの船には10人の見習いが乗船していたが、ジェームズは中でも最も未経験な1人だった。

本人が望んで船乗りとなったのか?いきさつは不明ですが、ジェームズ・クックには元々航海士としての素養があったらしく、ウォーカー社でめきめき腕を上げていった。 更に翌年は大型の石炭貿易船である「スリー・ブラザーズ号」で1年半の間、海上の人となる。

ミドルズバラ、ダブリン、リヴァプール、そしてフランダース(現在のベルギー)などを訪れたが、この体験は最初の本格的な航海として、ジェームズ・クックに深い印象を残したという。

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 1750年、3年間の見習い期間を終了した彼は、晴れて「水兵」(seaman)と認められ、2本のマストを持ち、バルト海を中心に活動する貿易船「フレンドシップ号」で働き始める。

ジェームズ・クックはこの後1752年に「航海士」(mate)となるための昇進テストを受け、優秀な成績で合格。 「フレンドシップ号」の航海士として3年を過ごしている。

3年間の徒弟奉公を終えたジェームズ・クックはバルト海の貿易船のブリッグ「フレンドシップ号」で働き始め、1755年にはフレンドシップ号の航海士に昇進していた。 そして、間もなく ウォーカー社の持ち船だったフレンドシップ号の船長にまで昇進しています。

ジェームズ・クックは27歳に達し、そろそろ自分がベテランの域に達しつつあると感じ始めていた。 仕事の合間に読むオランダ人やポルトガル人の書いた海洋旅行記などから、まだ見ぬ東洋や米国への憧れも芽生えていたが、彼は地中海にすら行ったことがないのだった。

そんな時期に、雇い主のウォーカーが、ジェームズにフレンドシップ号を与えようと持ちかけて来た。 これは航海士にとっては独立のチャンスであり、大きな幸運だといえる。 ジェームズがいかに雇い主の信頼を受けていたの証明であり、彼の高揚がかがわかるだろう。

ところが、ウォーカーはひどく落胆させられることになる。 ジェームズはその申し出を断り、「海軍に入隊して、世界を見たいと思います」と答えたのです。

もし海軍に入れば、船長どころかせっかく獲得した航海士のランクですらない、水兵からやり直しだというのに・・・・・・・・。

だが、ジェームズに愛情と信頼を寄せるウォーカーは驚きあきれつつも、入隊のための紹介状を書き、彼を送り出すのです。 ジェームズにとって、フレンドシップ号がバルト海との往復である限り、その立場が船長だろうと航海士だろうと、大きな違いはなかったのだった。

世界を見るためなら海軍でも海賊でも構わなかったのではないかとさえ言えよう。

ともあれ、ジェームズには幸いなことに、当時の英国海軍は7年戦争に備え軍備を強化中であり、大々的に志願兵を募集していた。

彼は両親のもとを訪れ暇乞いをすると、ロンドンのワッピングを目指す。 そこには英国海軍のHMSイーグル号が停泊していた。

1755年6月17日、ジェームズ・クックは「熟練水兵」(able seaman)として入隊する決意を改めて、英国海軍の門を潜った。

1755年の英国海軍は、七年戦争に備えて軍備を強化していた。 ジェームズ・クック(以下クック)は、海軍に入った方が出世できるだろうと考えたらしい。

クックは、水兵の身分から瞬く間に准士官たる航海士に昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757年には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格した。  この時、クックは29歳であった。

イギリスはフランスとの戦争(7年戦争)に突入したので海軍増強のため水兵の徴用を発令した際、クックは海軍に志願し砲術練習船イーグル号に配属されたのです。

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 海軍での活躍と新たな才能

水兵の身分から瞬く間に准士官たる航海士に昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757年には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格している。  この時、クックは29歳であった。

イーグル号の艦長ジョセフ・ハマー(Joseph Hamar)は憂鬱な気分だった。 前回の対フランス戦で多くの乗組員を失ったばかりで、満足に人員を集められないまま再び出動命令を受けていたのだ。

「人数不足なだけではない。 ブリストルから来た25人は水兵ですらない。 こんな状態で出航する船は他にないだろう」 と嘆く手紙が残っている。 そんな中で経験も情熱も備えたジェームズ・クックがどんなに光って見えたことか。 彼は乗船後1ヵ月もしないうちに、一等航海士(master mate)の地位に就く。

イーグル号の任務は英仏海峡周辺の警備だったが、クックは2度の大きな対仏戦に遭遇している。 2度目の戦いでは多くの味方を失い、「マストはボロボロ」という厳しい状態だったが、フランス船を拿捕し、チームは御賞金を受け取る活躍をみせた。

この戦いはクックにとっては昇進のためのテストでもあったが、彼の勇気と能力が十分に発揮され、最高レベルの成績で士官待遇の航海長(master)へと昇進。 1759年には29歳で大型船「HMSペンブローク」号(HMS Pembroke)を任されるに至るまで成長していた。

ちなみに航海長とは「複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職」であった。

正規の指揮権は有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかったという。

ペンブローク号は彼がウィトビーで見習いだった頃、まさに夢見ていたような大型船でもあった。 クックはこの船で念願だった大西洋横断を果たし、カナダへと向かう。

この間、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランド(Samuel Holland)から本格的な測量を学ぶチャンスを得る。

もともと数学を得意とした彼は、すっかり測量の魅力にはまってしまい、ホランドの助手として測量に同行するほか、艦長の許しを得て自分だけでケベックのセントローレンス(St Lawrence)川河口、ガスペ(Gaspe)湾の綿密な測量も行い、優れた海図を制作した。

戦時中の敵地での測量である。 昼間でなく夜半にフランス軍の警備の目をぬって行う、命がけの仕事であった。

この七年戦争(1756年~1753年)で、クックは、英国軍艦Solebay号の航海長として1759年のケベック包囲戦に加わっている。  既に測量及び海図作成の技量を認められていたクックは、セントローレンス川河口の測量と海図作成を任され、包囲戦の趨勢を決したウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大いに寄与しのです。

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・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =14-①=

海洋探検家 =ジェームズ・クック(James Cook)= 

~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・海図製作士官 に ~

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ヨークシャーの港町でロンドンへ石炭を運ぶ船を眺めては、

彼方への憧れを膨らませていた少年時代のジェームズ・クック。

「遠くへ行ってみたい」という想いは彼を航海士にし、

やがてはキャプテン・クックとして知られる名船長へ成長させる。

ハワイの発見を始め、彼が海洋冒険家として成し遂げた、

文字通り世界の地図を塗り替えた経緯を紹介しよう・・・・・・・

Capten_Cook-1-

 欧州の人々が外洋に出るようになり、時代が進むにつれて航海技術は上がっていきました。

特に測量の技術は1763年にジョン・ハリスンが発明したクロノメーターによって飛躍的に向上します。

それまでの航海では緯度は正確に把握する技術があったようですが、経度の測定が出来ず大雑把な位置情報しか得られませんでしたので、以前海図に記録されていた島があったとしても、再上陸の為には周辺をくまなく探しまわるしかありませんでした。

クロノメーターの発明は経度の測定を可能にしましたので、緯度と経度の交わる点をピンポイントで知る事が出来るようになり、正確な海洋図が作成可能になったのです。 これによって「未知の海を探検」する航海から「科学的に調査する」航海に変わっていくことになりますが、その初期を担った代表的な探検家がジェームズ・クックです。

2011年に最終飛行を終えたNASAのスペースシャトルと、月面着陸のために作られたアポロ15号は、いずれも「エンデバー(Endeavor)」号と名付けられている。

これはクックの第1回南太平洋探検の時に使われた帆船の名前にちなんでいる。  エンデバー号が1768年にロンドンのドックランズから船出した時、南半球には「北半球にあるのと同等の、大きな大陸があるのではないか」と考えられていた。

そんな時代にあっての海洋探検は、スペースシャトルによる宇宙探索にも等しい期待や危険を伴っていたのではないだろうか。

新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代に生まれあわせた、ジェームズ・クックという一人の男性の波瀾万丈の生涯を辿ってみよう。

Capten_Cook-3-

※; エンデバー号(HMB Endeavour)は、18世紀のイギリスの小型帆船で正式名称は国王陛下の三檣帆船エンデバー号。ジェームズ・クック海軍大尉 (後に海軍大佐 (ポスト・キャプテン) ) による、南太平洋への第一回探検航海の船として名高い。第二回と第三回航海の後継船はレゾリューション号。

エンデバー号は、もとは商業用の石炭運搬船アール・オブ・ペンブローク号で、ノースヨークシャー州ウィトビーで1768年はじめに建造された。 エンデバー号は三檣帆船で、積載量の大きな頑丈な造りであった。 速度は遅かったが、平らな船底は浅い海域を航行するにはうってつけで何より石炭運搬業務に適っており、イギリス北東沿岸を航行する他の帆船と同様、石炭積み降ろしのために接岸しやすい構造だった。全長32.3 m、全幅8.9 m、重量397トン。

1768年2月、王立協会は国王ジョージ三世に南太平洋の探検を請願した。 探検の名目は金星の日面通過の観測であったが、真の目的は、クックに海軍省の追加命令により伝達された。 即ち、南方大陸 (テラ・アウストラリス、Terra Australis) を求めて南太平洋を探索することであった。

王立協会の請願は承認され、新造船が海軍省によって2307ポンドで購入され王立協会の探検に充てられた。 探検航海に適うように、1768年にテムズ川河畔のデプトフォードで、船体の防水や第三甲板の増築など大規模な改造を施された。

当初、王立協会のアレキサンダー・ダルリンプルが航海の司令官として推薦されたが、ダルリンプルは海軍の乗組員を統制するために艦長の任命を受けることを求めた。 しかし、海軍大臣エドワード・ホークはこれを拒絶し、国王陛下の船をただの一隻でも海軍以外の者に委ねる命令に署名するくらいなら自分の右手を切り落とす、と言い出すほどであった。

ニューファンドランド島とラブラドールにおける測量で業績を上げたジェームズ・クックを、フィリップ・ステファンスが推薦したことによって行き詰まりは打開された。 海軍省は推薦を受け入れ、1768年5月25日にクックを海軍大尉に昇進させた (だからクックは海軍における階級としてはキャプテン(海軍大佐) ではなかったのだが、船の指揮官として乗員にはあたりまえにキャプテンと呼ばれた)。ダルリンプルはこの決定に憤慨した。

主要な乗員には、イギリスの博物学者ジョゼフ・バンクス、フィンランドのヘルマン・スペーリング、スウェーデンのダニエル・ソランダー、天体観測の責任者であったイギリスの天文学者チャールズ・グリーンらが挙げられる。

Captain_Cook-7-

 さて クックは、英国、ノースヨークシャー州マートンに生まれた。 スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。

キャプテン・クックことジェームズ・クック(James Cook)は、1728年10月27日、ヨークシャー北部のマートン(Marton)という小さな村に生まれたのです。

当時の英国はイングランドとスコットランドが連合したばかりで、「グレートブリテン王国」が誕生してから20年。 次第に「英国」としての国力を高めつつある、上昇の機運に富んだ時期にあった。

この時代に多くの優秀なスコットランド人がイングランドへ移住したが、父親のジェームズ・シニアもまたスコットランドの辺境出身で、よりよい暮らしを求めてイングランドにやってきた一人だった。

彼はマートンではハンサムで性格のいい働き者の小作人として知られ、妻のグレイスとの間に5人の子供をもうける。 後のキャプテン・クックとなる次男のジェームズは、8歳から兄と共に農場仕事を手伝い始め、勤勉な親子の姿は村でも有名だったといわれる。

特に利発で明朗闊達なジェームズ少年に感心した領主は、彼を学校にやろうと申し出、ジェームズは農場で働きながら初等教育を修めるチャンスを得る。 そして17歳になったところで、両親の勧めもあり町へ奉公へ出ることになる。単なる「勤勉な肉体労働者」以上の人間になるように、というのが彼らの願いであった。

しかしジェームズが家族と別れて向かったのは、ステイテス(Staithes)というヨークシャー北部の漁村にある雑貨店だった。

ここで商売に関してのノウハウを学ぶというのが、ジェームズの父親と店主との間で交わされた約束だったらしい。 幼い頃から農場で働いていたジェームズは、17歳にしては非常に背が高く、父親譲りの彫りの深い顔立ちをした逞しい青年に成長していた。

当時を知る人々によれば、ジェームズの生涯を通して変わらない「自分を信じ、断固とした決断をする」という独立独歩の姿勢は、この頃すでに現れていたという。

そんな彼にとって、雑貨店での丁稚奉公は何とも単調な日々だったようだ。 よく働くので雇い主にも顧客にも好かれたが、物足りない気持ちを抑えることは出来なかった。

ジェームズは暇さえあれば港に向かい、漁船やロンドンへ石炭を運ぶ商業船などを眺めていたという。 仕事帰りにパブへ行き、そこで漁師たちの交わす様々な話に耳を傾けるうちに、次第に彼は海や見知らぬ土地に対する憧れを募らせていく。

1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビーのウォーカー兄弟にクックを紹介する。 ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。

Captain_Cook-14-

・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =13-③= 

仏教学者・真理の追究者 = 河口 慧海 = 

~ 梵語の原典を求めてヒマラヤを越え 潜伏し仏典入手 ~

慧海ー16-

 『第二回チベット旅行記』から抜粋しておこう。 当時の英国とロシアの戦略が覗える そして 清国の西蔵政策が・・・・・

「(明治)三十七年英領印度政府はチベツトへ遠征軍を送つた。そして、その年の七月には、ラサの近くへ來襲したのである。法王達頼喇嘛(ダライラマ)は遠征軍の捕虜となるのを惧れて、首府ラサを後にして北方に蒙塵(筆者註:皇帝等が變事に際して難を避けて逃るる事)した。その考へでは蒙古から露西亞へ行く氣であつた。そして露西亞の助力を得やうといふつもりであつた。露西亞とチベツトには秘密條約が締結されてある間柄であるし、また、かういふ話もある。

現露西亞皇室には、はじめ内親王ばかりで皇子がなかつた。これ實に九重の雲深きところの憂ひであつたが、露西亞の蒙古族でブリヤツド州に佛教徒の一族がある。その中にツアンニー・ケンポ(教論師)のンガワグワン・ギヤムツオといふ者がある。このンガワグワン・ギヤムツオが、法王達頼喇嘛の祈禱に堪能なことをたたへて、皇子誕生の祈禱を献策した。

ところが、達頼の祈禱効を奏して皇子誕生があつて、露西亞皇室から法王に多くの贈り物があつた。これらのことから達頼喇嘛自身の考へでは、露西亞には信任同情ありと思つたので、北行を志した次第であつたが、法王の露西亞へ行くことは支那の畏怖するところであつた。

そこで露西亞の國境まで進んだけれども支那のために引き戻されて、久しく蒙古から支那を流浪した。露西亞行きに失敗した達頼喇嘛は、清國のご馳走政策に逢着した。すなはち北京に來て活佛に任命せられたのはこの時である。

(明治)四十一年の十二月に久しぶりでチベツトの首府ラサに戻つて來たが、その時支那は活佛にチベツト支配の爲に兵隊二萬を送るから、これを養ふやうにと申しこんだ。しかしながらチベツトにはそんな資力がないからと答へて辭したが、支那ではかまはず兵士をおくりこんできた。

しかしてその軍隊は、攻撃的手段に出で、ラサの東方へせまつたものであるから、法王は前と反對に南を指して、ふたたび蒙塵の憐れな身の上となつた。達頼がラサにとどまつたのは、わづかに二箇月ばかりであつて、(明治)四十二年の一月に印度へ來たのである。これに於いて予(慧海師)は、ダージリンに行つて、達頼喇嘛と會見した。」

力無き國の哀しさ、ダライ・ラマ法王の流浪の悲劇は、今に始まつたものではないらしい。 しかし支那の遣る事も亦、今も昔も變らぬものである。 然し、この當時の情勢を見ると・・・チベツト問題の重要な「鍵」は、矢張り同じ喇嘛教(チベツト佛教)に歸依する蒙古に在るものと観て良いのではなからうか。 そして、意外な露西亞の存在感。當時は日露役後の事とて、露西亞も赤色革命前の頽廃爛熟期に在り、一概に同一視は爲し得ぬが、今後の亞細亞情勢に關して、露西亞は決して無視出來ぬ勢力と成り來たるであらう。目を離すべからざるものがある。

慧海ー14-

 次に、同じく河口慧海師の「雪山歌旅行(西藏篇)」の文中、「班禪喇嘛(パンチエン・ラマ)とダライ喇嘛」の項目から、達頼喇嘛と班禪喇嘛との關係に就いて見てみやう。

「(前略) ここにチベツト政府すなはちラハサ(ラサ)府にある政府、チベツト語に『デーヴシユン』、譯して中央政府といふものと、タシルフンプー寺との關係を少しく述ぶべし。

チベツト政府は、チベツト一國を統治するダライラーマ(法王)の内閣にして、タシルフンプー寺政廰は同寺に属する四、五の地方を治むるものにして班禪喇嘛に属せり。されば政治上の關係よりしていへば、法王政府は封建時代の幕府にして、タシルフンプー寺政廰は一地方を治むる諸侯の如きものなり。

しかれども、これが治をつかさどる者は何れも僧侶なれば、彼らが佛教における地異の上下の關係及び人民の彼らに對する信仰のいかんをも見ざるべからず。世に班禪喇嘛は阿彌陀如來の化身と信ぜられ、ダライ喇嘛は彼の如來の弟子たる觀世音菩薩の化身とせらるるなり。さればラハサ市の人民は、ダライ喇嘛を呼ぶにその名を以てせずして觀世音(チエンレーシー)と稱し、シカツエ人民は班禪喇嘛を呼ぶに阿彌陀佛(サンゲー・オエパクメー《無量光佛の意》なれども略してサンゲーとのみ稱せり)といへり。

而して蒙古滿洲の佛教徒は、班禪喇嘛を信ずることダライ喇嘛に過ぎたるものあり。彼らのチベツト靈跡を巡拝するや、必ずタシルフンプー寺に參拝して、班禪大喇嘛を禮拝供養せり。しからざれば彼らはチベツトの名跡に參拝して眞の喇嘛にあへりと思はざるなり。かくの如く班禪喇嘛は法においてはダライ喇嘛の師たり主たり。而して信仰上においてもまた甚だ大なり。されば法の地位より見れば、ラハサ政府は昔時わが國江戸幕府とすれば、タシルフンプー寺政廰は、京都内裏のごときものと見ることを得べし。

そもそもチベツトのごとく佛法と政治との混同したる國においては、法において勢力大なる者は、また政治においてもその權力大ならざるべからざるがごとき觀あり。而して、このことの事實に反するゆゑんのものは、現今班禪喇嘛の政治上においては、殆ど無勢力なることこれなり。さればラハサ政府の大臣らは、早晩このことの事實に現はれんことを憂慮するの餘りに、なるべくタシルフンプー寺の勢力を弱めんとして、陽に蔭に同寺を壓迫し、もつて同寺の政治上における權力なからしめんとつとめつつあり。

かくのごときはタシルフンプー寺より見れば甚だ迷惑なることにして、かつて同寺はラハサ政府を顚覆せんと企てたること毫もなく、また前代班禪喇嘛が、法王薨去の際、その代理をなして一國を統治せしも、その政權を奪はざりしより見れば、歴史上未だかつてタシルフンプー寺は、チベツト一國を掌握せんとしたること無し。」

慧海ー15-

 此處には、不勉強な私にとつては意外な、ダライ・ラマとパンチエン・ラマとの關係が示されてゐた。

御承知の通り、先代パンチエン・ラマは六四天安門大虐殺の生起した平成元年一月に、支那共産『政權』を痛罵した翌日に不審極まる急死を遂げられた。而して、その「轉生者」を僧侶達が捜し出すより前に、支那共匪は「これぞパンチエン・ラマである」と共匪が稱する少年を担ぎ出した。が・・・其の後の行方は杳として知れない。

そして、ダライ・ラマ十四世猊下は印度に亡命の身の上であられる。  支那の姦計は、我等が想像してゐる以上に老獪で、奸惡なのではなからうか。

滿洲人は、既に支那共匪の完全無缺なる「民族淨化」に據つて、言語も文化も民族の血もほぼ死に絶えた。 そして今、正に危機に在るのはチベツトであり、ウヰグルである。

そして、チベツトの後背地であるネパールも、終に毛澤東派共匪の毒牙に掛けられてしまつた。 最早ネパールの王政は、いま正に臨終に瀕してゐる。

今こそ、佛教徒は起ち上がるべし。 淨土宗、淨土眞宗等、念佛宗系統の宗派はパンチエン・ラマを御救ひ申し上ぐるべし。

觀世音菩薩を禮拝する佛教徒は、ダライ・ラマを御救ひ申し上ぐるべし。 而して、力を合はせるべきは、「蒙古」である、と考える。

モンゴル國のみならず、南蒙古(共産支那側呼稱:『内蒙古自治區』)とも呼應すべし。

慧海ー13-

山田 無文(やまだ むもん、1900年7月16日 – 1988年12月24日)は昭和期日本の代表的禅僧。チベット探検で有名な河口慧海を頼って出家するが、あまりの厳しい生活に結核になってしまったというエピソードもある。わかり易い法話で親しまれた。

河口慧海に出家を申し出ると、親宛に「修家は承知ですか」と手紙が送られる。 それを聞いた父は、「裁判官にでもしてやろうと学校に行かせたのに」と怒り、 母は「ぼんさん(お坊さん)出さなあかん程、うちは世間に悪いことしてない」と泣く、 父は親交のある人相見に無文を診せると「この子(無文)は孤独の性だな、坊主か何かになるしかない」と言われ、無文に「好きにせい」と言い放つ。

結核時、無文には兄がいて、兄は結核で命を失う。 無文は闘病中の夏の日。縁側でそよ風に吹かれると、ふと考えた。 風とは何ぞや。風とは空気。空気とは何ぞや。空気は自然。 その空気を朝から晩まで晩から朝まで、呼吸して生きている。 「そうだ私の後ろ盾には大自然が付いているんだ」と考えたら、寝てられなくなった。 そして、元気が出てきたときに、下手な句を読んだ。 「大いなる者に抱かれあることを、今朝吹く風の涼しさに知る」 南天の実が赤かった夏の日のことでした。(NHK-TVあの人に会いたい より)

慧海ー12-

能海 (のうみ ゆたか、1868年(慶応4年、同年に明治改元) – 1903年(明治36年)?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。

1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。

1890年(明治23年)慶應義塾に入学し、外国人教師サー・エドウィン・アーノルドについて化学を専攻し、次いでウォルター・ウェストンに登山学を学び、チベット登山への計画を立て始めた。学費が続かなくなったことにより、慶應義塾を中退し、哲学館(現在の東洋大学)で学ぶ。哲学館では、南条文雄に多大な影響を受ける。

1893年(明治26年)『世界に於ける佛教徒』を自費出版し、その中で、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。

1898年(明治31年)に結婚するも、同年11月、上海に向け神戸港を出港する。

1899年(明治32年)8月、大谷大学教授の寺本婉雅とともに、四川省の巴塘(パタン)からのチベット入りを試みるも、身の危険のため断念する。

1900年(明治33年)8月、新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)からのチベット入りを試みるが、やはり、難路と危険によって引き返す。

1901年(明治34年)4月18日、今度は雲南省の大理府から「今からチベットに入るため音信不通となる」という内容の手紙を発信した後、消息を絶つ。

その後、伊東忠太一行がミャオ族の建築物研究に雲南省のチベット国境付近に赴いた際の調査により、能海は1903年(明治36年)ごろに同地で土賊に襲われ死去したらしいということが判明した。

慧海ー3-

・・・・・・新節へ続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =13-②=

仏教学者・真理の追究者 = 河口 慧海 = 

~ 梵語の原典を求めてヒマラヤを越え 潜伏し仏典入手 ~

慧海ー8-

 1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。

親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の支那人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。

通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。

同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了・偶然出会った探検家の藤井宣正・後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。

翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。

同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。

慧海ー9-

チベット地域への探検者=参考資料=

※;井上 円了(いのうえ えんりょう 井上圓了、安政5年2月4日(1858年3月18日) – 大正8年(1919年)6月6日)は、仏教哲学者、教育家。

多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。 また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた。

16歳で長岡洋学校に入学、洋学を学ぶ。 明治10年(1877年)、京都・東本願寺の教師学校に入学。 翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門入学。 その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。

明治18年(1885年)に同大学を卒業し、著述活動を開始する。 また、哲学普及のため、哲学館(本郷区龍岡町、現在の文京区湯島にある麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)および哲学館の中等教育機関として京北中学校(第二次世界大戦後に東洋大学から独立、学校法人京北学園となり、現在は東洋大学の附属校)を設立する。

哲学館事件によって活動方針を見直すことにした明治38年(1905年)に哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざかる。

その後は、中野にみずからが建設した哲学堂(現・中野区立哲学堂公園)を拠点として、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動が井上による教育の場としてあり続けた。遊説先の満州・大連において62歳で急死するまで、哲学や宗教についての知識をつたえるとともに、迷信の打破をめざして活動した。

※;藤井 宣正(ふじいせんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) – 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。 島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。

1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。 旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。

東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。

1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。ちなみに、この二人の仲を取り持ったのが入江寿美子(後の伊藤博文夫人)である。 また、翌年の東京白蓮社会堂での挙式が日本初の仏前結婚式とされている。

1897年に教授を解任、埼玉県第一尋常中学校長に就任した。1900年、本願寺よりヨーロッパにおける政教調査のためロンドン派遣の命を受け、大英博物館やヴィクトリア&アルバート美術館にて仏教美術研究の最新動向に触れた。1902~1904年に浄土真宗本願寺派の第22世門主大谷光瑞が組織した学術調査隊・大谷探検隊では実質的リーダーを努め、中央アジア・インド・東南アジアへ3度にわたり仏教伝播の軌跡を追う調査を行い、特にシルクロード研究に関する調査成果を残し、貴重な遺物・古文書を日本に持ち帰った。その中でも一般にもよく知られるインドのエローラ石窟群やアジャンター石窟を、日本人として初めて本格的に調査した。

※;大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 – 1948年(昭和23年)10月5日)は日本の宗教家。探検家。明治時代から昭和時代までの浄土真宗本願寺派第22世法主。 伯爵。 諱は光瑞。 法名は鏡如上人。 院号は信英院。 大正天皇の従兄弟にあたる。

第21世法主大谷光尊(明如上人)の長男として誕生。 幼名は峻麿。 貞明皇后の姉九条籌子(かずこ)と結婚。

1885年9歳で得度。翌1886年、上京して学習院に入学するが退学。 その後、尺振八の開いた共立学舎(当時受験校で知られていた共立学校とは別)という英学校に入学するもやはり退学。京都に帰り前田慧雲(のち東洋大学学長・龍谷大学学長)に学んだ。

1902年8月、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。 1903年1月14日朝、ビハール州ラージギル郊外で長らく謎の地の山であった旭日に照らされた釈迦ゆかりの霊鷲山を発見している。その1903年1月に父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国したが、探検・調査活動は1904年まで続けられた。

これがいわゆる大谷探検隊(第1次)である。 法主継職後も探検を続行させ、1914年まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。

慧海ー10-

帰国後

1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。

慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。 《英訳では1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている》

現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。

帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。  また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。

晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。

慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園(1種ロ 15号 5側(西1地区))に改葬されている。

記念碑など

現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。  また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区代田2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。

世田谷の九品仏浄真寺の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。  和歌山県の高野山・奥の院には供養塔が設置されている。

その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。  同じくネパールのマルパ(『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されいる。

さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。

慧海ー11-

経歴 

1866年(慶応2年) – 大阪府堺市に樽桶製造業、河口善吉と常(つね)の長男として生まれる。

1884年(明治17年) – 19歳の秋、徴兵令改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京。未遂に終わる。

1890年(明治23年) – 25歳で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる。

1893年(明治26年) – 4月、チベット行きを想起。以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たる。

1897年(明治30年) – 慧海32歳。6月26日、神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目してインドへ向かう。

1897年(明治30年) – 7月17日、シンガポールに到着。7月19日、英国汽船ライトニングに乗り換えカルカッタに到着。

1897年(明治30年) – 8月3日、汽車でサラット・チャンドラ・ダースの別荘のあるダージリンに到着。当地にてチベット語を学ぶ。

1899年(明治32年) – 約1年間のチベット語就学後、1月5日にカルカッタへ戻る。

1899年(明治32年) – 1月20日頃、ブッダガヤを参拝し、ダンマパーラ居士より法王ダライ・ラマへの献上品を託される。

1899年(明治32年) – 2月、ネパールの首府・カトマンズに到着。

1899年(明治32年) – 3月初め、チベットへ密かに入れる間道があるというネパール西北のロー州を目指す。

1899年(明治32年) – 5月中頃、間道の警護が厳しくなっているという噂を聞いたため、ネパール北部のツァーラン村に留まり、チベット仏教の学習などをして過ごす。

1900年(明治33年) – 3月10日、新たな間道からチベットを目指すため、ツァーラン村を出立。

1900年(明治33年) – 3月13日、マルバ村に到着。間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。

1900年(明治33年) – 6月12日、マルバ村を出立。

1900年(明治33年) – 7月4日、ドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、ネパール側よりチベット国境に到達。

1900年(明治33年) – 8、9月頃、マナサルワ湖やカイラス山を巡礼した後、公道を通ってラサを目指す。

1901年(明治34年) – 3月21日。チベット・ラサに到着。

1901年(明治34年) – 4月18日。セラ寺の大学の入学試験を受け合格し、修学僧侶として籍を置く。以降、チベット仏教の学習や経典の蒐集などをして過ごす。

1902年(明治35年) – 5月29日。およそ1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出。

1902年(明治35年) – 6月15日。五重の関所を3日程で抜け、国境を超えて英領インドに入る。

1902年(明治35年) – 7月3日。ダージリンのサラット・チャンドラ・ダースの別荘に到着。その後、大熱病にかかり、当地で3ヶ月程療養する。

1902年(明治35年) – 10月頃、チベットからインドに来た商隊から、ラサ滞在時に交際していた人々に嫌疑がかけられ投獄されていると聞き、その救済の方策を思案する。

1903年(明治36年) – 1月10日。ネパール国王に謁見するためにカルカッタを出立し、ネパールを目指す。

1903年(明治36年) – 2月11日。カトマンズにて、河口慧海自身がチベット法王宛てに書き認めた上書をネパール国王を通じて送ることを許される。

1903年(明治36年) – 4月24日。インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し、日本を目指して出港。

1903年(明治36年) – 5月20日。香港を経由し、神戸港に到着。無事6年ぶりの帰国を果たす。

1904年(明治37年) – 『西藏旅行記』を出版後、渡印。

1913年(大正2年) – 再びチベットに入る。

1915年(大正4年) – 帰国。

1921年(大正10年) – 僧籍返還。

1926年(大正15年) – 『在家仏教』を出版

1945年(昭和20年) – 脳溢血のため80歳で死去。

2004年(平成16年) – 『西蔵旅行記』の基になった日記が姪の自宅から見つかり、「ネパールからチベットへの越境にはクン・ラ峠を利用し、その際にヤクに荷物を載せていた」らしいことが判明した[1][2]。

2007年(平成19年) – ネパールの国立公文書館に慧海が寄贈したものと思われる和装の仏書275点が保管されていることが確認される。

慧海ー2-

・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =13-①= 

仏教学者・真理の追究者 = 河口 慧海 = 

~ 梵語の原典を求めてヒマラヤを越え 潜伏し仏典入手 ~

慧海ー4-

=ラサの寺院 河口慧海老高僧の写真が飾られている=

 1866年 泉州堺(現・大阪府堺市)に河口定治郎は生まれる 後の、河口慧海である

 河口 慧海、 慶応2年1月12日に生まれ昭和20年2月24日に他界

  黄檗宗の僧侶 ・ 仏教学者にして探検家 ・ 幼名は定治郎

僧名は慧海仁広(えかいじんこう)

  中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、

  仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、 梵語の原典とチベット語の仏典を求めて、日本人として初めてチベットへの入国を果た

 1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度を受け出家する。 1892年(明治25年)には大阪妙徳寺に入り、禅を学ぶ。

その後、五百羅漢寺の住職を勉めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。 数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。 帰国した後、1921年(大正10年)年に還俗、 大正大学で教鞭を取る。

=== “言海”や百科事典を参照すれば上記の略歴はすぐに判る。 また、還俗の理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている。 私は彼の著 『チベット旅行記』(「西域紀行探検全集」7)を繰り返しよんだ。 以下、この本を頼りに彼の偉業を 彼の探検的足跡を追おう===

慧海ー5-

邦人未踏のチベットへ

1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。

摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。

※ スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、1897年1月23日 – 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。 民族的出自はベンガル人。 ネータージー(指導者)の敬称で呼ばれる。 なお、スバスの部分は、シュバス(Shubhas)とも発音される。

1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学に留学した。

しかし1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じ、1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。 以降、ドイツに亡命 その後 日本に活動拠点を移し、独立運動に挺身

・・・・・・・・・・・

 およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。 その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。

日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、支那人と称して行動することにした。

1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。

同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。 当地にてボダナートの住職であるブッダ・バッザラ(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。

同年3月、カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。

ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索している。

慧海ー6-

 1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村へ向かう。

村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機した後、 同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。

同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。

白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。

チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許さたのです。

それまで支那人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、支那人として入学してしまうと他の支那人と同じ僧舎に入れられ、自分が支那人でないことが発覚する恐れがあった。

一方、以前に支那人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然として支那人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。

たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。

次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。 本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる。

ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。 また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。

この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。

慧海ー1-

※;ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 – 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。 1878年に、ダライラマの生まれ変わりと認定された。

当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の渦中に巻き込まれていた。後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。

しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。 1910年に今度は清軍が、イギリスの影響を排除するためとしてチベットに侵攻。 13世はシッキム、ネパールと転々としインドに向かった。

清は13世の廃位を宣言するが、1911年の辛亥革命により清は滅亡。 しかしその後も清軍の勢力が残り、チベットの民族政権が清軍を駆逐するには1912年までかかった。 清に代わった中華民国は13世の地位を保証したため、1913年1月にラサへ帰還。 1914年に英国とシムラ条約と締結する一方で、インド亡命中から近代化に着手した。

欧米の議院内閣制に倣ってカシャグ(民会)を基盤として大臣を選出するシステムを確立し、郵便切手や紙幣の発行・西洋式病院の設置などを行った。また今日広く使われているチベット旗を正式に定めている。

慧海ー7-

・・・・・・続く・・・・・・

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