探検家・冒険家 =14-①=

海洋探検家 =ジェームズ・クック(James Cook)= 

~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・海図製作士官 に ~

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ヨークシャーの港町でロンドンへ石炭を運ぶ船を眺めては、

彼方への憧れを膨らませていた少年時代のジェームズ・クック。

「遠くへ行ってみたい」という想いは彼を航海士にし、

やがてはキャプテン・クックとして知られる名船長へ成長させる。

ハワイの発見を始め、彼が海洋冒険家として成し遂げた、

文字通り世界の地図を塗り替えた経緯を紹介しよう・・・・・・・

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 欧州の人々が外洋に出るようになり、時代が進むにつれて航海技術は上がっていきました。

特に測量の技術は1763年にジョン・ハリスンが発明したクロノメーターによって飛躍的に向上します。

それまでの航海では緯度は正確に把握する技術があったようですが、経度の測定が出来ず大雑把な位置情報しか得られませんでしたので、以前海図に記録されていた島があったとしても、再上陸の為には周辺をくまなく探しまわるしかありませんでした。

クロノメーターの発明は経度の測定を可能にしましたので、緯度と経度の交わる点をピンポイントで知る事が出来るようになり、正確な海洋図が作成可能になったのです。 これによって「未知の海を探検」する航海から「科学的に調査する」航海に変わっていくことになりますが、その初期を担った代表的な探検家がジェームズ・クックです。

2011年に最終飛行を終えたNASAのスペースシャトルと、月面着陸のために作られたアポロ15号は、いずれも「エンデバー(Endeavor)」号と名付けられている。

これはクックの第1回南太平洋探検の時に使われた帆船の名前にちなんでいる。  エンデバー号が1768年にロンドンのドックランズから船出した時、南半球には「北半球にあるのと同等の、大きな大陸があるのではないか」と考えられていた。

そんな時代にあっての海洋探検は、スペースシャトルによる宇宙探索にも等しい期待や危険を伴っていたのではないだろうか。

新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代に生まれあわせた、ジェームズ・クックという一人の男性の波瀾万丈の生涯を辿ってみよう。

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※; エンデバー号(HMB Endeavour)は、18世紀のイギリスの小型帆船で正式名称は国王陛下の三檣帆船エンデバー号。ジェームズ・クック海軍大尉 (後に海軍大佐 (ポスト・キャプテン) ) による、南太平洋への第一回探検航海の船として名高い。第二回と第三回航海の後継船はレゾリューション号。

エンデバー号は、もとは商業用の石炭運搬船アール・オブ・ペンブローク号で、ノースヨークシャー州ウィトビーで1768年はじめに建造された。 エンデバー号は三檣帆船で、積載量の大きな頑丈な造りであった。 速度は遅かったが、平らな船底は浅い海域を航行するにはうってつけで何より石炭運搬業務に適っており、イギリス北東沿岸を航行する他の帆船と同様、石炭積み降ろしのために接岸しやすい構造だった。全長32.3 m、全幅8.9 m、重量397トン。

1768年2月、王立協会は国王ジョージ三世に南太平洋の探検を請願した。 探検の名目は金星の日面通過の観測であったが、真の目的は、クックに海軍省の追加命令により伝達された。 即ち、南方大陸 (テラ・アウストラリス、Terra Australis) を求めて南太平洋を探索することであった。

王立協会の請願は承認され、新造船が海軍省によって2307ポンドで購入され王立協会の探検に充てられた。 探検航海に適うように、1768年にテムズ川河畔のデプトフォードで、船体の防水や第三甲板の増築など大規模な改造を施された。

当初、王立協会のアレキサンダー・ダルリンプルが航海の司令官として推薦されたが、ダルリンプルは海軍の乗組員を統制するために艦長の任命を受けることを求めた。 しかし、海軍大臣エドワード・ホークはこれを拒絶し、国王陛下の船をただの一隻でも海軍以外の者に委ねる命令に署名するくらいなら自分の右手を切り落とす、と言い出すほどであった。

ニューファンドランド島とラブラドールにおける測量で業績を上げたジェームズ・クックを、フィリップ・ステファンスが推薦したことによって行き詰まりは打開された。 海軍省は推薦を受け入れ、1768年5月25日にクックを海軍大尉に昇進させた (だからクックは海軍における階級としてはキャプテン(海軍大佐) ではなかったのだが、船の指揮官として乗員にはあたりまえにキャプテンと呼ばれた)。ダルリンプルはこの決定に憤慨した。

主要な乗員には、イギリスの博物学者ジョゼフ・バンクス、フィンランドのヘルマン・スペーリング、スウェーデンのダニエル・ソランダー、天体観測の責任者であったイギリスの天文学者チャールズ・グリーンらが挙げられる。

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 さて クックは、英国、ノースヨークシャー州マートンに生まれた。 スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。

キャプテン・クックことジェームズ・クック(James Cook)は、1728年10月27日、ヨークシャー北部のマートン(Marton)という小さな村に生まれたのです。

当時の英国はイングランドとスコットランドが連合したばかりで、「グレートブリテン王国」が誕生してから20年。 次第に「英国」としての国力を高めつつある、上昇の機運に富んだ時期にあった。

この時代に多くの優秀なスコットランド人がイングランドへ移住したが、父親のジェームズ・シニアもまたスコットランドの辺境出身で、よりよい暮らしを求めてイングランドにやってきた一人だった。

彼はマートンではハンサムで性格のいい働き者の小作人として知られ、妻のグレイスとの間に5人の子供をもうける。 後のキャプテン・クックとなる次男のジェームズは、8歳から兄と共に農場仕事を手伝い始め、勤勉な親子の姿は村でも有名だったといわれる。

特に利発で明朗闊達なジェームズ少年に感心した領主は、彼を学校にやろうと申し出、ジェームズは農場で働きながら初等教育を修めるチャンスを得る。 そして17歳になったところで、両親の勧めもあり町へ奉公へ出ることになる。単なる「勤勉な肉体労働者」以上の人間になるように、というのが彼らの願いであった。

しかしジェームズが家族と別れて向かったのは、ステイテス(Staithes)というヨークシャー北部の漁村にある雑貨店だった。

ここで商売に関してのノウハウを学ぶというのが、ジェームズの父親と店主との間で交わされた約束だったらしい。 幼い頃から農場で働いていたジェームズは、17歳にしては非常に背が高く、父親譲りの彫りの深い顔立ちをした逞しい青年に成長していた。

当時を知る人々によれば、ジェームズの生涯を通して変わらない「自分を信じ、断固とした決断をする」という独立独歩の姿勢は、この頃すでに現れていたという。

そんな彼にとって、雑貨店での丁稚奉公は何とも単調な日々だったようだ。 よく働くので雇い主にも顧客にも好かれたが、物足りない気持ちを抑えることは出来なかった。

ジェームズは暇さえあれば港に向かい、漁船やロンドンへ石炭を運ぶ商業船などを眺めていたという。 仕事帰りにパブへ行き、そこで漁師たちの交わす様々な話に耳を傾けるうちに、次第に彼は海や見知らぬ土地に対する憧れを募らせていく。

1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビーのウォーカー兄弟にクックを紹介する。 ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。

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・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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