探検家・冒険家 =15-①=

無名の考古学者 = ハワード・カーター(Howard Carter)=

~ ツタンカーメン発掘に生涯をかけた男 ~

ツタンカーメンー26-

1922年、世界中の専門家が実在を否定していた 

  ツタンカーメン王墓が、未盗掘で発見された 

  その偉業を成し遂げたのは 

  無名の英国人考古学者ハワード・カーター 

 輝かしい世紀の大発見にカーターは多くを語らない 

  苦難と悲哀 忍耐の冒険的挑戦と愛があった

ツタンカーメンー1-

   時をさかのぼること約3300年前、紀元前14世紀。

エジプトの首都テーベ(現ルクソール)の町は、深い悲しみに包まれていた。

まだ10代後半であったツタンカーメン王の早過ぎる死。 先王が強行した宗教改革や遷都などによって国政が混乱していたこともあり、その突然ともいえる不可解な死は、事故死説、病死説、そして暗殺説など、様々な憶測もまた呼んでいた。

人々が寝静まった頃、松明の光を受けて輝く少年王の棺のそばには、王妃としての威厳を保つべく、今にも目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえているアンケセナーメンの姿があった。

豪奢な黄金の人型棺には緻密な装飾が施されており、アンケセナーメンはそれをゆっくりと目で追っていく。 やがて、王の生前の面差しを写した頭部にたどりつくと、とうとう彼女の視界はぼやけ、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていった。

2人は幼馴染であった。 父王の死にともない、弱冠9歳でツタンカーメンが王に即位するのと同時に結婚。

もちろん政略結婚であったが、複数の妾妃を持つのが当然であったこの時代に、ツタンカーメンはアンケセナーメン以外の女性をそばに置くことはなかった。 権力闘争の渦巻く王宮にあって、年若き王が唯一心を許せる存在が、2歳年上のこの王妃だったのである。

アンケセナーメンは亡き夫のもとへとさらに一歩足を進め、手にしていた花束をそっと棺の上に捧げた。  「花はいつか枯れてしまうけれど、私の心は永遠に貴方のそばに」・・・・・・

 20年に満たない短い生涯を終え、永遠の眠りについたツタンカーメンに向けて、彼女はそう静かに語りかけた。

ツタンカーメンー2-

 ハワード・カーター(Howard Carter、1874年5月9日 – 1939年3月2日)は、イギリス・ケンジントン生まれのエジプト考古学者。 ツタンカーメン王の墓を発見した人物。

エジプト考古学の大家であったフリンダーズ・ピートリー卿の下で学んでいた。 1891年、17歳のとき遺跡発掘現場のスケッチ担当としてエジプトへ。 27歳の青年であった。

イギリスでは高い教育を受けなかったものの、詳細な模写や考古学への情熱が高い評価を受け、1899年から1903年までエジプトの考古局首席監督官(遺跡監督官)を務めるひたむきな情熱と好奇心にみちていた。

気難しい性格から、30歳で遺跡監督官の地位を失ったが、その後は考古学者として活動する。

時は流れ、1891年。 エジプトのベニ・ハッサン。

ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。

目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。

この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーター(Howard Carter)である。 カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれる。

体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。 動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手としてわずかながらも収入を得るまでになっていく。

父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込んだ。

目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、エジプトに同行しないかと誘われたのである。

このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。

ツタンカーメンー25-

 絵の才能を買われた修行時代・・・・・・・

 カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。 ピートリーやスイス人考古学者エドワール・ナヴィーユの発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。

朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。

1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。 この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さとその勤勉さがうかがえる。

古代エジプト時代にテーベと呼ばれていたルクソールはナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。 日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など「生」を象徴する建造物が建ち、日が沈む方向である西岸には「死」を象徴する王家の谷などの墓所が広がる。

カーターは査察業務の傍ら、アメリカの富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。 発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターがやりがいと充実感を味わっていたであろうことは想像に難くないでしょう。

ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。 赴任したサッカラのセラピウム(聖なる牡牛の地下回廊)入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。

カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いにまで発展。 この事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。 しかしその謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。

失業したカーターはルクソールに戻り、デイヴィスに発掘監督として再び雇ってもらえないかと頼むが、考古局という後ろ盾をなくした代償は大きく、話さえ聞いてもらえず、引き下がるしかなかった。

仕方なく観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘のチャンスが巡ってくるのを待った。

ツタンカーメンー0-

※=資料=; テーベ は、古代エジプトにあった古代都市の遺跡である。 現在のルクソール近郊にある。

ナイル川東岸、地中海から約800km南方に位置する。 上エジプト4番目の都市であり、現地では「ワセト」(Waset)と呼ばれた(「ワセト」は「都市」とほぼ同義)。 「テーベ」は東岸を意味する「タ・アペト」との音の類似により、ギリシャ人がボイオティアの古都「テーバイ」と同じ呼称を与えたものという説がある。

古代エジプトの王都はメンフィスに置かれることが多かったが、中王国の第11王朝から新王国の第18王朝までテーベがエジプトの都とされた。その後、第19王朝でデルタに遷都されたが、アメン信仰の総本山であるカルナック神殿を中心として、重要な宗教都市としての地位を保ち続けた。

テーベの遺跡群はその考古学的価値が高く、古代エジプト文明の貴重な証言者となっている。また、現代ではナイル川西岸の葬祭殿(→ハトシェプスト女王葬祭殿)と墓所群(→王家の谷)もテーベの一部であると見なされている。 旧約聖書では「ノ・アモン」(アメン神の都市)と記録され、古代ギリシャの詩人ホメロスはイリアス(BC7C)でテーベの富と財宝について触れ、感嘆の言説を述べている。

「ルクソール」と「カルナック」はテーベ郊外の2つの重要な神殿遺跡、および周辺街に名付けられたアラビア語の呼称である。 遺跡群は「古代都市テーベとその墓地遺跡」として1979年、ユネスコの世界遺産に登録された。

・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】  http://ameblo.jp/thunokou/

※ 前節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/09/07/

※ 後節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/09/09/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います