探検家・冒険家 =17-①=

近代ゴルフの父 = トム・モリス・ジュニア =

~ 黎明期の全英オープンを中止に追い込んだ若者 ~

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 セント・アンドルーズのカテドラル(大聖堂)は通称ラムと呼ばれ、今は礎石と教会の壁のみが残っている。 カテドラルの右側が教会の墓地で、西側の高さ三メートルの石壁には一枚だけ浮き彫りの記念碑がある。 その記念碑の手前がトム・モリス家代々の墓である。

記念碑の人物は天才プロゴルファー、トム・モリスジュニアで、アドレスした姿で訪れた人たちの方を向いて建っている。 父親と区別するために、セント・アンドルーズの人たちは彼をヤング・トムと呼んだ。

彼は一人っ子だった。 寒いセント・アンドルーズの子供たちは、幼少の時に肺炎や風邪で死亡した例が多い。 彼の兄も幼少の頃死亡している。 しかし、ヤング・トムの死は病死ではなかった。 愛妻の死を悲しんだあげくの無力感と人生の失望が原因だった。

ヤング・トムは父親を凌ぐ天才ゴルファーで、二十歳で全英オープンに優勝し、亡くなる二十四歳まで四連勝の偉業をなしとげた。

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  一八七五年の夏

トム・モリス親子の大のファンであったノース・ベリック市長のピーター・プロディは、モリス親子のために賞金を集めて試合を企画し、自らレフリー役をかって出た。

悲劇は、その試合に出たことから起きた。

プロディ市長は、モリス親子対地元ノース・ベリックのプロ、ウイリー・パーク、ヤンゴ・パーク兄弟とのマッチプレーを、9ホールに拡大したばかりのノース・ベリックで開催した。

プロディ市長がそのトーナメントを自らレフリー役をかって主催した理由は、五年前の一八七〇年にトム・モリス対ウイリー・パークの百ポンドを賭けたマッチプレーで、彼が好きなモリスがワンダウンして負けたことにある。 今回は、なんとかしてパークに勝たせたいというファン心理から「親子対兄弟」を企画した。

賞金も多分、百ポンドだったろうと想像する。 市長は、モリス親子に雪辱をはらして賞金をとってほしいと考えていた。 ヤング・トムは半年前の一八七四年十一月二十五日にマーガレットと結婚したばかりで、新婚間もなくということもあり、意欲的だった。

ヤング・トムはパワー・ヒッターだが、ドライバーショットよりもアプローチとパットに定評があった。  彼の試合を見た伝記作家は、  「打球は初め低く飛び、次第に上昇し、頂上に達するや、あたかも銃で撃たれた鳥が急上昇したあと落下するようだった」 と表現している。

パットは今日と違い、ボールを右足のツマ先一インチ(約3センチ)に置き、ピシッとヒットさせてカップインさせている。 重いグリーンでは強い球が要求されたのだろう。 それにしても勇気のいるパットである。

モリス親子は、フォース湾を渡って対岸に行くため、セント・アンドルーズ駅から南のバーンタイランド駅まで行き、そこから船で対岸のエジンバラに近いガントン港へ渡った。 そこから汽車でノース・ベリックへ出ている。

試合は、各チームが一個のボールを交互に打つフォサムだった。 モリス親子、パーク兄弟がそれぞれ一個のボールを交互に打ってホール・マッチを競っている。 午前中18ホール、午後18ホールのマッチプレー。

最初の18ホールはパーク兄弟がワンアップした。 午後はモリス親子が盛り返し、接戦となる。父親のショットがバンカーのフチに止まって右手で打てない状態のとき、息子のヤング・トムが左打ち用のクラブでみごとグリーンオンさせたという名場面もあった。

両チームはとったり負けたりするが、状態としてはパーク兄弟が勝ち星を上げていた。

モリス親子は実に四回取り返し、最終ホール前の35ホールめでタイとなった。 残すはラストの36ホールだけである。 両チームが36ホールのティグラウンドに立つ頃である。 レフリー役のプロディ市長のところに、悲しい知らせの電報が届く。

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  電報の内容は、ヤング・トムの新妻マーガレットが危篤との知らせだった。 だが、モリス親子に勝たせたいプロディ市長は、あと一ホールを残すのみであり、波に乗っているモリス親子のため、その電報をそっとポケットにしまい込んだ。

36ホールめでは、ヤング・トムがティショットし、第二打を父親が打った。 ところが不運にもボールはフェアウェイを横切って流れるイール・パーン(小川)に入った。

プロディ市長も観衆も、これでモリス親子には勝ち目はないと失望した。 しかし息子のヤング・トムは、水ぎわにあるボールを力まかせに打った。 ボールはピンの横1ヤードに止まり、勝運をつかんだ。

ちょうどその頃、セント・アンドルーズのモリス家では新妻のマーガレットが難産に苦しみ、余命いくばくもなかった。

それと知らず、海の向こうでは36ホール目の第三打をみごとピン近くに止め、大逆転のさなかだった。この36ホールめでモリス親子はパーク兄弟に勝ち、五年前の雪辱を晴らすと同時に、高額の賞金を手にした。

勝利が決まった直後のことである。 プロディ市長は固い表情で父親のモリスを呼び止めて、ポケットから取り出した電報を手渡した。

ショックを受けた父親はヤング・トムを呼び、事情を話し、すぐさまガントン駅行きの汽車の時間をプロディ市長に尋ねた。

「それよりも急いだ方がいい。 いま、ヨットを手配している!!」

ノース・ベリックの会員、ジョン・リューイスがヨットを都合つけてくれたのである。 二人は海岸に出るとノース・ベリックからヨットに乗り込み、直線で二十マイル先のセント・アンドルーズ港へ急ぐ。

モリス家はハイ・ストリートにある。 二人は教会の南にある港で下りると丘を上がり、セント・アンドルーズ城前に出るとバッグを担いだまま、そこから坂道を駆け上がった。 しかし、すでに愛妻マーガレットは医者の手当てもむなしく、産児と共に死亡していた。 悲しい凱旋であった。

「ああ、ありうることか!」

これが、ヤング・トムが嘆き、悲しんだあとの悲愴な叫びだった。

その後ヤング・トムは、両親や友人の慰めを受けるものの、傷心の彼を立ち直らせることはできなかった。 妻が死んだ夜から酒に溺れる日々をすごす。 その日以来、二度とクラブを手にしなくなった。

一八七五年のクリスマス前夜のことである。 咳込みがひどい彼は帰宅すると自分の部屋に入り、眠った。しかし彼は翌朝、右肺の喀血がもとで冷たくなっていた。

二十四歳と八ケ月の短い生涯だった。

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=資料=

イギリス発祥の紳士のスポーツとして知られるが、その起源についてはスコットランドを筆頭に、オランダ、中国など世界各地に発祥説があり、定説がない。

北欧起源の「コルフ」という、「打った球を柱に当てるスポーツ」が、スコットランドに伝わったとする説。 オランダの「フットコルフェン」から来ている説。 近年、オランダからスコットランドへのゴルフボール輸出書類が発見され、起源として有力視されるようになった。 中国の元の時代の書物『丸経』(ワンチン)に記載されている「捶丸」(チュイワン)という競技を起源とする説。捶丸については、中国の学者が五代十国の時代にまで遡るという説を出している。

初期のゴルフでは現在のような整備されたコースはなく、モグラの穴を利用してゴルフを楽しんでいたといわれる。またスコットランド地方でゴルフという競技が確立した頃は、パーという概念は存在していなかった。 何故なら2名のゴルファーが1ホールごとにホール内での打数により勝ち負け(同じ打数の場合、そのホールは引き分け)を決め、18ホールまでにどちらが多くのホールで勝ったかを競うマッチプレー方式で行なわれていたため、それぞれのホールに規定打数を決める必要が無かったからである。

マッチプレーは2名で競技する場合はホールごとに勝ち負けが決まるため単純明快だったが、より多くのゴルファーによる試合では優勝者を決めるまでに18ホールの試合を何回も繰り返す必要があり、やがて多人数で競う場合には順位付けがし易い、予め定められたホールをまわった時点の打数(ストローク)の合計を競うストロークプレー方式が広まるようになった。

ストロークプレーが主流になると、それまでコースごとにまちまちだった18ホールの合計距離などに対し、画一した規格を決める必要が出てきたため、全てのホールに対し既定打数を決めて、コースごとの合計既定打数による比較がし易いように定めたのが、パーの起源である。

起源にはいろいろな説があるものの、現在のゴルフというスポーツが発展し完成して近代スポーツとなったのがスコットランドであることは間違いない。 1457年には時のスコットランド王国国王ジェームズ2世によってゴルフ禁止令が出され、これがスコットランド史上におけるゴルフの初出であるとされる。

ゴルフはスコットランドの東海岸から広まっていき、宗教改革時のスコットランド長老教会の否定的な態度にもかかわらず民衆の娯楽として広まっていった。 1750年ごろにはエジンバラとセント・アンドルーズにゴルフクラブができ、またイギリス帝国の拡大に伴って世界各地に移住したスコットランド人によってゴルフも各地で行われるようになった。 1860年には世界初のゴルフの選手権大会である全英オープンもはじまった。 しかし、ここまではゴルフはスコットランドのスポーツに過ぎなかった。

ゴルフが爆発的に広まるのは、1880年代にイングランドでゴルフブームが起きてからである。 イングランド各地にゴルフ場が建設され、さらに1890年代にはアメリカでも流行が始まり、またイギリス人によって世界各地にゴルフ場が建設され、ゴルフは世界的なスポーツとなっていった。

日本における最初のゴルフ場は、1901年に神戸市の六甲山に作られた神戸ゴルフ倶楽部である。これは外国人向けのもので、日本人による日本人のためのゴルフ場は、1913年に井上準之助らによって東京に作られた東京ゴルフ倶楽部が最初である。

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・・・・・・続く・・・・・・

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