探検家・冒険家 =20-①=

超人の建築家・天文学者 = クリストファー・レン =

~  ロンドン復興に生涯を捧げた超人 ~

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ロンドン大火後の街を復興するという壮大な都市計画に携わり 

シティの麗しきランドマーク聖ポール大聖堂を完成させた 

クリストファー・レン Christopher Wren 

建築一筋の人生と思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち 

建築家として天才的な才能を発揮するという華麗なキャリアの持ち主だった 

東海地震で破壊された都市を如何に再興するか

ロンドン大火で市街の85%は焼失したと言う その再生はどのようになされたのか

奇人と言われた建築家の生涯を辿ってみよう

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  英国王家の教会堂ウエストミンスター・アビーと並び称される聖ポール大聖堂。英国国教会の代表的な司教座聖堂として様々な国家的式典が行われるほか、ネルソン提督やチャーチル首相、ナイチンゲールなど英国要人が眠っていることでも知られる。

チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃が挙式したり、最近ではエリザベス女王の80歳の誕生日を祝う式典が催されたりしていることから、その名前に馴染みがある人が多いのではないだろうか。

優雅で壮大なドームが印象的なこの大聖堂については、グリニッジ展望台やリッチモンド・パークなど、市内の主要な規定ポイントからこの大聖堂が常に見えるよう、それらのポイントと大聖堂を結ぶ線上には高い建物を建てることを禁ずる「ビューイング・コリドー」という建築規制が設けられているという。

この麗しい大聖堂を完成させたのが17世紀の建築家クリストファー・レンなのです。

レンは1632年、イングランド、ウィルトシャーで王党派(イギリスの内乱期において議会派に対抗し、国王を支持した貴族たちによる派閥)の聖職者の家庭に生まれた。 オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死亡。

翌年誕生したレンは待望の息子であった。 父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の1人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあったレンだが、母メアリーは2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育った。

レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、同じく聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。チャールズ1世の息子、つまり皇太子も遊び仲間だったという。

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・・・・・・wikipediaより転記すれば・・・・・・

サー・クリストファー・レン(Sir Christopher Wren, 1632年10月20日 – 1723年2月25日)はイギリスの建築家、天文学者。

イギリス王室の建築家であり、ロンドン大火からの復興を行い、バロック建築をイギリスに取り入れた人物、として知られている。  父親はウィンザーの首席司祭で、伯父はイーリーの司教で、二人とも高教会派の中心人物であった。

ウエストミンスター・スクールで教育を受け、15歳のときには外科医学校で解剖学の教師をしばらくつとめ、その後オックスフォードに赴き、のちに王立協会を創設する一派と親交をもつに至る。

その後数学者として活躍、1657年にはロンドン大学、1661年にはオックスフォード大学に戻り25歳で天文学教授に就任。  イープリンは彼を「奇蹟の若者」と呼び、ニュートンも彼を当時のもっとも優秀な幾何学者の一人であると考えていた。

図学特に遠近画法の科学的研究やイタリア人建築家ベルニーニなどの美学をもとに幾何学を研究テーマにしていたことから、建築や都市計画を自身の研究の応用分野として捉えていた。

1660年から事業省で、ジョン・デンハムのもとでサーベイヤーを務めていて、1666年のロンドン大火が起こる4年前から広場や都市計画のあり方について独自に研究していた。 その傍らで、1663年にオックスフォードのシェリドニアン劇場と、ケンブリッジ大学のペンブローク・カレッジのチャペルを手がける。

シェリドニアンのトラス屋根を採用するなど、この時点ではまだ素人域であったが、設計に際し優れた才能を見せ付けている。

その後セント・ポール大聖堂の修復を指名されると、彼の経歴は新たな局面を迎え・・・・・

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※; ロンドン大火(The Great Fire of London)とは1666年にロンドンで起こった大火のこと。これによって中世都市ロンドンは焼失し、木造建築の禁止などからなる建築規制やセント・ポール大聖堂をはじめとする教会堂の復興が行われた。

9月1日、パン屋のかまどから燃え広がった火は4日間にわたって燃え続け、ロンドン市内の家屋のおよそ85%(1万3200戸)が焼失した。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。このように燃え広がった原因は大火以前のロンドン市内では家屋のほとんどが木造であり、街路も狭かったためである。

建築家クリストファー・レンやジョン・イーヴリンは大火後直ちに壮大な都市計画を構想したが、大地主などの反対にあい実現しなかった(ただし、実際は反対はなく、そもそも検討すらされていなかったという説もある[2])。しかし、レンの尽力によって1667年には「再建法」が制定される。家屋は全て煉瓦造または石造とされ、木造建築は禁止、また道路の幅員についても規定された。ロンドンの復興にはノルウェーの木材が輸入され使用された。

地下鉄モニュメント駅近くにはロンドン大火記念塔(英語版)がある。高さ62mでこの高さは塔から大火が始まった地点までの距離と同じである。復興を記念してレンとフックの設計により1677年に建てられた。

当時ロンドンでペストが流行していたが、この大火によって多くの菌が死滅し、感染者低減の一因になったとする説もある。

さらに世界初の火災保険もロンドンで生まれることになった(1681年)。

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・・・・・・続く・・・・・・

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