探検家・冒険家 =22-①= 

東西融合をめざした探究者 =  バーナード・リーチ =

~ 日本を愛し、日本に愛された 孤高の芸術家 ~

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  バーナード・リーチといえば、柳宗悦濱田庄司等とともに民芸運動に参加した工芸作家として知られています。 幼いころ京都で育ち、日本に愛着をもっていました。 1909年、22歳の時いらい13回来日しています。

初めて倉敷へ来たのは1934(昭和9)年、4回目の来日のときでした。 大原孫三郎、總一郎親子は民芸運動を支援していたこともあり、濱田や河井とはすでに親しく交友していました。

その後も戦前・戦後、たびたび倉敷を訪れて、大原美術館で講演や展覧会を開催したり、酒津焼の窯や、羽島焼の窯で若手を指導するなど、倉敷や大原との関わりを深めていったのです。

1961(昭和36)年、大原美術館に工芸館が完成した日、濱田、河井、富本とともに開館のセレモニーに出席しました。 4人とも「生きているうちに4人で一緒に陳列してもらえるなんて、こんなにうれしいことはない。」 と感激したといいます。

注1:東京駒場にある日本民藝館は、民芸運動に賛同した大原孫三郎が、その建設資金10万円(当時)を寄付して、1936(昭和11)年に創設された。

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 明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 1887 – 1979)。 大正時代には白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献した。

日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いバーナード・リーチなのですがだが、故郷英国に戻った彼が、そこで目指したものは何だったのか。

自己の確立に悩んでいた若者リーチが、数十年の旅路の果てに辿り着いたイングランド南西端の町セント・アイヴズ。 自らの製陶所「リーチ・ポタリー」を開き、やがて独自の思想を生みだすに至る、孤高の芸術家の生涯を辿ってみたい。 私が在郷の倉敷には縁が深い人物です。

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  「To Leach or not to Leach」―― スタジオ・ポタリーの父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。 だが英国には、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかったという。

しかし、冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているとも言えるでしょう。

日本から戻ったリーチがイングランド南西部コーンウォールのセント・アイヴズに窯を開いて、2010年でちょうど90年を迎えた。 社会の中における工芸の位置や、陶芸家のあるべき姿勢を常に考えていたリーチ。 東西の文化の自然な融合を目指したリーチが蒔いた種は、21世紀の今も、確実に育っているのではないでしょうか。

バーナード・ハウェル・リーチ(Bernard Howell Leach)は、ヴィクトリア女王の即位五十周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年の1月5日に生まれた。 当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。

リーチの父親アンドリューもオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたが、妻がリーチを出産直後に死亡。 そのため幼いリーチは、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。 4歳まで京都の祖父母のもとで育ったリーチは、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、タクアンの味…」という五感に密着した断片で記憶してたと言う。

やがて父親のアンドリューが再婚。 リーチは父と新しい母親に合流して再び香港で暮らし始める。 父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたるが、リーチはこの継母に馴染むことができず、2人のギクシャクした関係は彼が成長してからも続くのです。

代わりに幼いリーチが慕ったのは、アイルランド人と中国人のハーフの乳母だったという。 リーチは生涯を通じ、顔を見ることのなかった実母の面影を追い続け、これは成人してからのリーチの私生活にも大きな影響を与えることに成って行く。

やがて父親アンドリューの仕事の関係で、一家は香港からシンガポールへと移る。 幼い時期に香港―日本―香港―シンガポールと、めまぐるしく引越を繰り返したリーチだが、初めて英国の地に降り立った時、リーチは10歳になっていた。

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※; 宗悦(やなぎ むねよし、1889年(明治22年)3月21日 – 1961年(昭和36年)5月3日)は、民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。名前はしばしばそうえつと有職読みされ、欧文においてもSoetsuと表記される。

東京府(現:東京都)生まれ。海軍少将柳楢悦の三男。旧制学習院高等科を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。 嘉納治五郎は母勝子の弟であり招かれる様に、千葉の我孫子(現在の我孫子市)に住んだ。さらに志賀直哉らを呼び、我孫子に文人らが集結し白樺派文学が進展するきっかけをつくった。

旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。1936年(昭和11年)、東京府東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民藝館を設立。戦前、北海道、東北、沖縄、台湾などの工芸の紹介に尽力した。1957年(昭和32年)、文化功労者。

1914年(大正3年)中島兼子と結婚。柳兼子は近代日本を代表するアルトの声楽家だった。長男にインダストリアルデザイナーの柳宗理、次男に美術史家の柳宗玄、三男に園芸家の柳宗民。甥に染織家の柳悦孝、美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。 晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされたが、執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)春に脳溢血により、日本民藝館で倒れ数日後逝去した。

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・・・・・・続く・・・・・・

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