探検家・冒険家 =26-①=

近代の冒険家= 伝説的な生き証人 / ワイアット・アープ=

~ 西部開拓時代の保安官 “ガンマンの決闘” ~

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☆ 無法者の町  

1870年代のカンサス州ダッジシティは、軍隊も法も及ばぬ悪名高い無法者たちが横行する町だった。 バッファロー・ハンター、鉄道建設労働者、流れ者や兵隊たちが殴りあいや喧嘩に明け暮れ、果ては銃の撃ち合いで、男たちは「ブーツを履いたまま」死んでいった。 いわゆる日本語でいう『畳の上では死ねない』男たちだった。

身元もわからないまま死んでいった男たちは大抵が町外れの丘の上に葬られたので、誰言うともなくそのような墓地を『ブーツ・ヒル』と呼ぶようになった。

ダッジ・シティの歴史は、1865年にダッジ砦が作られたことで始まった。 その目的はサンタフェ・トレイルを行く幌馬車隊の警護や南部のインディアンとの戦いに当たっている部隊の供給基地としてだった。

ダッジ・シティの町は1872年、軍隊の駐屯地の西に作られ、すぐにバッファロー・ハンターや旅人の交易所になり、1872年の9月にアチソン、トピーカ&サンタ・フェ鉄道がダッジ・シティにまで伸びたことで、町はますます賑わっていった。

ロング・ブランチ・サルーン(Long Branch Saloon)が作られたのもそんな時代で、酒場はオールド・ウエストの伝説になるほど繁盛したのです。

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 ロング・ブランチはチョーク・ビーソン、ウィリアム・ハリスが1878年に購入し、彼らの努力でサルーンは牧畜業者たちの社交場としてダッジ・シティで最も有名になった。 毎晩、チョークリー・ビーソンの率いるカウボーイ楽団が演奏をし、5セントのサイコロゲームから千ドルを越すポーカーゲームまでが行われるような娯楽場でもあった。

飲み物はミルク、紅茶、レモネードから、もちろんビールやシャンペンなどすべてのアルコール類が用意され、冬は近くの川からとってくる氷で、夏はコロラド山脈から列車で運ばれてきた氷で冷やして出すのが売りものだった。

ワイアット・ベリー・スタップ・アープ(Wyatt Berry Stapp Earp、1848年3月19日 – 1929年1月13日)は、アメリカ西部開拓時代の保安官。 イリノイ州生まれている。

20歳のころバッファロー狩りで生計を立てガンマンとして有名になった。 1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年にはカンザス州ウィチタの保安官事務所で働いていたが、1876年4月、仲間と口論して解雇された。

1878年、やはりカンザス州のフォード郡ドッジシティで新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安官チャールズ・バセットの下で保安官助手に任命されている。

1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、アリゾナ州トゥームストーンに移り住み農業のかたわら賭博場の胴元、売春宿の経営者になった。 3か月後、兄のヴァージル・アープがトゥームストーンの保安官に就任する。

 3か月後、保安官に就任している兄から、ツームストーンの町の保安官補(deputy sheriff)の任につくように頼まれる。 

ツームストーンの町の歴史は、典型的な西部の町の興亡がピタリと当てはまる例だ。 銀鉱の発見とそれに伴うゴールド・ラッシュ、鉱山の枯渇とゴースト・タウン化、観光地としての再生。 ツームストーンは、まるで絵に描いたような歴史を持つ西部の町だ。

町はメキシコ国境のナコまで50キロあるだろうか、馬で一日の距離だ。ツームストーン近くの、サンペドロ川がえぐり流れるグース・フラットと呼ばれる高地に、エド・シェフリン(Ed Schieffelin)という山師が豊かな銀山を発見したことから、急激に町は発展し始めた。

時に1877年のことだが、2年後の1879年には町として登録されている。 ツームストーンは、銀鉱が発見されて以来多くのならず者たちが集まり、今や西部のフロンティアでもっとも手に負えない町になっていた。 任命されていた郡保安官(sheriff)も、法を施行するよりも報酬が目当てと思われていた。

この界隈は絶対的に水が不足しており、およそ牧場には不向きなところだ。 平原は広がっているが、むしろ砂漠の外れといった方が当たっているだろうか。 加えてアパッチとの問題が解決しておらず、襲撃が相次いでいた。

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 そんな悪条件ばかりが多い所でも、銀の魅力に取り憑かれ、人々が集まってきた。 山師が建てた掘っ立て小屋だけの辻が1881年の始めには人口1,000人を数える立派な町になったのだ。 そして1年後には人口1万を超す(5,000人から1万5,000人の間と推測されてている、大勢いた中国人、娼婦たちは、人口として数えられなかった)、正にブームタウンになっていった。

1879年には新聞社も2社設立され、西部で一番お金の溢れる町になった。 当然サロンバーが何十軒とオープンし、懐にお金を詰め込んだ鉱夫たちに娼婦が群がった。数年後には、オペラハウスが2軒も建つほどの賑わいを見せるほどになった。

後にOK牧場の決闘として世界中に名を知られることになるガンファイトは、ツームストーンの町が急激に膨らんでいく、その一番の急上昇期に起こった。1881年10月26日のことだ。

このあまりにも有名なガンファイトは、フレーモント通りにある写真館とフライ宿の間の空き地で起こった。 広さにすれば幅が5メートル、奥行きが7メートルあるかないかのとてつもなく狭いスペースで、至近距離で撃ち合ったのだ。=映画などのフィクションと決闘場面とは異なる=

当時のツームストーンの町は、二派に分かれていた。 鉱山からの揚がりに群がり、おこぼれ的恩恵に預かることができる町の商売人、役人、政治家など、住人の大半はこのグループに属し、もう一派は町に常住していない、周辺の牧場主や牧童たちで、俗にカウボーイ派と呼ばれるグループだ。

この二つのグループは、必ずしもいがみ合っていた訳ではない。 カウボーイたちは町へ牛を運び、膨大な町人の胃袋の要求に応えていたし、町で大いに散財した。 だが、スマートな遊び方と呼ぶには程遠く、泥酔する傾向があり、あげくサローンバーでは西部劇でおなじみの乱痴気騒ぎをおっぱじめるのがいつものことだった。

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 この土地に早くから入り込み、アパッチと戦い、開拓して行ったのはカウボーイたちだった。 彼らにしてみれば、町人は後からやって来た新参者の集団と映ったことだろう。 カウボーイ同士でも、フリーレンジに放牧した牛を集め、それぞれの持ち主に種分けするランドアップのときに闘争が絶えなかったし、アパッチと組んだカウボーイが絡んだ10頭以下の単位の牛泥棒は茶飯事だった。

また、あってないようなメキシコとの国境を挟んでの盗んだ牛の移動が盛んに行われていた。 力がすべての荒っぽい風土であったことは確かだ。

そのカウボーイグループの筆頭がクラントン一家だった。

アイク・クラントン(Ike Clanton)は、1847年、ミズーリー州カラウェイでニューマンとマリアの間に生まれた。クラントン一家は一攫千金を夢見、またはシゴトを求め、西へ西へと流れ歩いて行き、ツームストーンから19キロ離れたルイス・スプリングに落ち着いた。 これらはツームストーンの町が創設される以前のことだ。

当時、アリゾナは州になっておらず、テレトリー=”領域”と呼ばれるだけの未開の荒野だった。 州ごとの独立自治の意識が強いアメリカでは、犯罪者は隣の州に逃げれば、よほどの極悪犯罪者で連邦政府の指名手配を受けていない限り安泰だった。

それがアリゾナでは、カウンティー(郡)または町ごとに独立独歩の道を歩いていたので、隣のカウンティーに出かけ、一シゴトをして古巣へ舞い戻っても捕まる心配がないとまで言われる無法地帯だった。

馬泥棒や駅馬車強盗、殺人などが増加し、これらの事件の多くはチャールストン近郊に牧場をもつクラントン兄弟が関与していると噂されていた。 ツームストーンの東、サルファー・スプリングス・バレーにある彼らの友人のフランクとトム・マックローリー兄弟の牧場が無法者たちのたまり場になっていた。

クラントン兄弟の一人がツームストーンの刑務所から簡単に逃げ出したのも、保安官が共犯なのではないかと疑われるほどだった。

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・・・・・・続く・・・・・・

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