探検家・冒険家 =27-①=

政治的冒険家= オスマン帝国への叛乱支援 / トーマス・エドワード・ロレンス =

~ オートバイで散る“異郷の王となった男” ~

Lawrence_1

トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence) 

《1888年8月16日 – 1935年5月19日》は、イギリスの軍人、考古学者 

オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物 

映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる

日本ではD・H・ロレンスと区別するためか

もっぱら「T・E・ロレンス」とか「アラビアのロレンス」と言われる

この男には省略は似合わない

フルネームでトマス・エドワード・ロレンスと言いたい

Lawrence_23

 トーマス・エドワード・ロレンスは1888年ウェールズトレマドックで生まれた。 父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(後に準男爵となる)、母はセアラ・ロレンス。

夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活し、彼らの子供たちもこれに倣った。

宗教にのめり込んだ妻に嫌気がさしたアイルランド出身の貴族トマス・ロバート・チャップマンという人物がロレンスの父親です。 しかし、母親セアラ・ロレンスは彼の妻ではなくトマスの娘たちの家庭教師を務めていたという女性なのです。

セアラを心から愛したトマスは妻に離婚を求めますが認めてもらえず、セアラと子供たちを連れ、貴族の地位を捨てて駆け落ちをしてしまいます。 ロレンスは生後三ヶ月だった。 一家ともどもスコットランドに移り、さらにまたフランスのブルターニュに引っ越した。

こうしたねじれた状況のもとでエドワードは生まれ、育った。 彼の両親は実質的には夫婦でしたが、戸籍上彼は私生児であり、周りの目も彼に対して複雑な視線を向けていた。 彼の母親は不倫関係に負い目を感じていた分、子供たちへの躾について異常に厳しい態度をとっていたようです。

それ故、エドワードは3歳すぎだから、最初はフランス語の学校で育った。  そして、6歳のときにまたイギリスに戻り、ハンプシャーの国立公園のなかのニューフォレストの私有地に住むようになった。 兄弟が5人、ロレンスは次男だった。 両親は このうち二人の兄をつづけさまに第一次世界大戦で喪る悲劇に出会う。

 1907年オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。 1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。   1909年の夏にはレバノンを訪れ、1600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍遺跡調査をしている。 1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文を著し、最優秀の評価を得た。

卒業後は、アラビア語の習得のため、ベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース博士による大英博物館の調査隊に参加し、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。 同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ている。

ロレンスは短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。 同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。

Lawrence_3

 ロレンスは背が低かった。 この事実はロレンス自身にとっては看過できないことだったようだ。

たとえば少年期のロレンスはきわめて俊敏で体力もあり、スポーツが大好きな少年だったのに、団体競技をけっして好まなかった。 徒歩旅行や一人で自転車で遠出すること好んで独行している。

単独犯なのだ。 孤軍者なのだ。 スポーツだけではなく、さまざまなことを単独で敢行することを選んだ。 孤高を好んだ。 そのためか友人たちからは「うちとけない奴だ」と思われていた。

10歳のころには家出もした。 そのときはコーンウォールのセント・モーズで要塞砲兵隊の少年兵を志願している。

背丈には関係がないだろうが、単独犯であることは家出とともに格別の読書好きにもあらわれていた。

ともかく大量の本を読んでいる。 乱読ではない。 かなり系統だてて読む。 ハイスクール時代は国語と聖書学がダントツで、考古学と中世史にどっぷり浸かっていた。 この並はずれた読書癖もロレンスの生涯を貫いている信条のひとつだったようだ。

どんな土地のどんな場面でも書物に関心を示さなかったことはないし、どの国のどの民族の書物にも徹底して敬意を払った。 早々にアラビア語をマスターしたことも(フランス語・ギリシア語・ラテン語にも通暁した)、この読書癖につながっていた。あるロレンス伝には3年間に5万冊を読破したともしるされていた。

それとともにハイスクール時代から拓本や陶片や、また古地図や遺跡に異様な関心をもった。 つまりは「埋もれた知」に異様な興味を抱いたのだ。 土地からの発掘作業にもつねに積極的だった。 そのため早くからオクスフォードのアシュモリアン博物館に出入りして、拓本整理や陶片整理に携わっていた。

このアシュモリアン博物館との出会いは、いいかえれば「埋もれた知」に対するあくなき熱情が、かの「アラビアのロレンス」をつくった。 博物館がロレンスをつくったということは、ぜひとも強調しておかなければならないことでしょう。

言ってみれば、ロレンスは「博物館からラクダに乗って出撃した」わけなのです。

Lawrence_17

 T.E.ロレンスと言えば、なんといっても映画「アラビアのロレンス」を忘れるわけにはゆきません。 数ある実在偉人ものの映画の中でも、傑作中の傑作と言えるこの作品に匹敵するのはオーソン・ウェルズの歴史的傑作「市民ケーン」ぐらいでしょうか。

二つの光源がスクリーン中央から迫る。 闇夜の中、車のヘッドライトが、エンジンの音棲ざましく体を通り抜ける。 映画の開始である。 やはりこの衝撃は映画館の大画面で観でしか味わえないが、このオープニング・シーンの後に ゆらめく砂漠の向こうから現れるオマー・シャリフの映像の美しさ。 あれ以来僕は「砂漠」「イスラムの世界」にちょっとした憧れをもつようになった気がする。

頭は良くても孤独な少年として育ったロレンスは、しだいに学問の世界にのめり込むようになる。 そのうえ彼はいつしか自分の出世の秘密を知り、そのことで苦しむと同時に、小さくてひ弱だった自分の体型にもコンプレックスを感じるようになってた。 (喧嘩によるケガが原因で成長が止まったという説もありますが、・・・・・)

数々のコンプレックスを抱えながら、彼はそれをうち消すべく誰よりも熱心に勉強に打ち込み、歴史の研究にのめり込んで行く。 自分が進むべき道を見いだしたのです。

1907年オックスフォード大学に入学したロレンスは、歴史学を専門とするようになり「十字軍」についての研究に没頭する。 そして、その調査研究のため、実際に十字軍が遠征を行った土地を旅することを思い立ち、実行に移す。

長期に渡ってフランスを自転車で旅した経験が自信を生み、彼を後押しした。 こうして、1909年6月ロレンスは4ヶ月近い中東の旅へと出発しました。 常に40度以上の高温にさらされ、現代のような交通手段もない中での厳しい旅でしたが、アラブの人々の優しさに触れると同時にその土地が自分にぴったりであることに気づいたのです。

彼は自信を取り戻し、大学を卒業すると古代ヒッタイトの都市カルケミシュの遺跡を発掘する調査団に加わります。 この時出会ったアラブ人、サーリム・アフメドは助手としてその後も彼を助けることになり、人種を越えた友人関係を築くことになります。(実際はそれ以上で同性愛の関係にあったとも言われていますが・・・・・・)

Lawrence_8

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】  http://ameblo.jp/thunokou/

※ 前節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/11/23

※ 後節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/11/25

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います