宦官・鄭和 / 聖地巡航 =1=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

 ~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~

《YouTubu動画;鄭和下西洋》

http://www.youtube.com/watch?v=7-oI41NuCVk&list=PL88B72D435D5E0C36

鄭和ー7-

◆◇人類初の世界一周は中国人?◇◆

歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっている。 しかし最近、マゼランよりも100年ほど前の1423年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした。

新説によると、世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。 鄭和の艦隊は1405―33年に7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。 これらの遠征中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引き返したため、世界一周はしていないとされていた。

だが、イギリスの退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジース(Gavin Menzies)が、現存する鄭和の航海記録を調べなおしたところ、艦隊は1421年3月から1423年10月にかけて世界一周の航海を行い、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったという。

鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していたが、コンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星などの位置を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメリカの沿岸などの場所が浮かび上がった。

メンジースは、カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だった可能性がある、と指摘している。 また彼は、イタリアのベネチアでは1428年にアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していたことから、この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経てベネチアに運ばれたに違いないと主張している。

そして「この地図を見たコロンブスやマゼランらは、自分たちも航海をして貿易で大儲けしようと考えたのではないか」という理論を展開している。

(2002年5月2日  田中 宇 氏のコラムより)

鄭和ー3-

◆◇天子の艦隊◇◆

史上著名な旅行家のひとりに、モロッコ出身のイブン・バットゥータがいる。14世紀、西はアフリカのマリから東は中国の大都まで、30年かけてアジア・アフリカ・ヨーロッパ全12万kmを旅した人物である。 鉄道や汽船がない時代としては驚異的といえよう。

蛇足だが、イブン・バットゥータは後日 話しましょう、しかし・・・・・・・

イブン・バットゥータは1343年に南インドを訪れた際、カリカットという港町に立ち寄っている。 コショウや綿織物の積出地として、また乳香などアラビアの産品の集積地として知られていた都市である。 彼はそのにぎわいに感銘を受け、「シナ、ジャワ、セイロン、モルディブ、イエメン、ペルシアの人々がやって来るし、各地の商人が集まっている。 その港は世界一流のものである」と評している。

鄭和ー21-

それから63年後、1406年のカリカットは、国際貿易港として名高いこの町でもかつて見たことのない大艦隊の来訪に騒然としていた。

その艦隊は、数百名乗りの大型船62隻からなっていた。 最大の船は全長100mをゆうに越え、随員は総勢2万7800名を数えるという驚くべきものだった。

艦隊を率いるのは鄭和(ていわ)というイスラム教徒の宦官で、これを派遣したのはカリカットから東へ1万kmの彼方に位置する大帝国、中国の明(みん)王朝であった。 ただし、これほどの偉容ではありながら、この艦隊は軍事征服を目的とはしていなかった。 いうなれば、「通商団」兼「外交使節団」といった性格のものだった。

明は、建国当初から民間の貿易を禁じていた。 外の世界と結びついた沿海地方が力をつけることをおそれての措置であった。 これにより、宋・元の時代にインドの間をさかんに行き来していた中国船は(密貿易を除けば)姿を消してしまった。

ただし、臣下の礼をとる外国が船をよこすことは許した。 そこで、周辺諸国が皇帝に「貢ぎ物」をさしだし、皇帝が「贈り物」を下すという形で、政治色の強い交易が行われるようになっていく。

1402年に即位した3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)はこの方針を受け継ぎつつも、より積極的な政策をとった。 すなわち、四方に使節団を送り、帝国の威信を津々浦々にとどろかせることで、周辺諸国に入貢をうながしたのである。 インド洋遠征はその政策の一環であった。

カリカットについた鄭和は、この地の王に皇帝の書簡と銀印を与えて「臣下」とし、航海を記念する石碑をたてた。 その後、カリカットをはじめスマトラ、マラッカなどの使者をともない、中国へ帰っていった。

鄭和ー13-

以来、鄭和艦隊は連年インド洋を往復し、そのたびにカリカットに寄港した。 4回目の航海からはペルシア湾まで足をのばし、分遣隊は遠くアフリカ東海岸までおもむいている。 明帝国の武威を見せつけられた東南アジアからアラビア海に至る沿岸諸国はきそって使節を送り、南京の宮廷にはキリン、ライオン、ダチョウなどの珍獣や南方の珍品がもたらされた。

ところが、1433年を最後に、「天子の艦隊」がインド洋にあらわれることはなくなった。

その理由は、明がモンゴルやオイラトとの戦いに忙殺されていたことにある。 1421年には都も北京に移され、帝国の関心は北辺の防衛へと移っていた。 もはや、南海へのデモンストレーションをくり返す余裕はなくなった。 巨船は朽ちるにまかされ、海外遠征を忌み嫌う保守派官僚によって鄭和の航海記録はすべて焼き払われてしまった。

・-・-・-・-・-・-

※;永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。 諱は棣(てい)。 廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。 諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。 一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。

至正20年(1360年)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた。 幼い頃は早朝から学者を招き、一度読んだ本の内容は忘れなかったとされる。 洪武3年(1370年)、北平に封じられるが、実際に北平に赴いたのは洪武13年(1380年)、21歳の時である。を北方に駆逐したが、依然北元としてモンゴル高原に割拠していた時代、北方の要衝であるは極めて重要な防衛拠点であり、ここに配置された朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。

洪武23年(1390年)、25年(1392年)、29年(1396年)と北伐を行い、ことごとく勝利した。太祖・洪武帝は「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。

明史』によれば洪武25年(1392年)に皇太子であった長男・朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだと記録にある。

これは第2代皇帝建文帝簒奪を隠蔽するための脚色とも考えられ盲信することはできないが、朱棣が有能な人物であったことを示唆する記録である。

洪武23年(1390年)、25年(1392年)、29年(1396年)と北伐を行い、ことごとく勝利した。太祖・洪武帝は「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。

明史』によれば洪武25年(1392年)に皇太子であった長男・朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだと記録にある。 これは第2代皇帝建文帝簒奪を隠蔽するための脚色とも考えられ盲信することはできないが、朱棣が有能な人物であったことを示唆する記録である。

永楽帝は明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こすなど、気宇壮大な人であった。 洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。 しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し宦官を重用した。

これは皇位簒奪という負い目もあって官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。 永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった。

靖難の変では兵力・物量で圧倒的に不利な状況にあるにも関わらずに勝利し、皇帝としての地位にありながら自ら5回もモンゴルに親征するなどという異例の行為を見せているが、これらは永楽帝が類稀な軍略家であったことを示している。

即位直後における建文帝一派の粛清は父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄」と後世に悪名高く評され、『明史』「成祖本紀」には

「若くして兵学を修め、勇武の才略は太祖洪武帝にも匹敵した」と軍事の才能を褒め、「即位後自ら倹約を行い自然災害が発生したら人民をただちに救済し、人物を良く見抜いて適材を適所に配した」と行政面での見識を賞賛しつつ、「甥にあたる建文帝を倒して帝位を奪ったことは隠すことができない」と靖難の変を汚点の一つとして記している。

終生、病弱で癲癇に悩まされていた。

・-・-・-・-・-・-

鄭和ー14-

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】  http://ameblo.jp/thunokou/

※ 前節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2014/03/19 》

※ 後節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2014/03/21 》

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告