不世出の旅行家/ バットゥータ =01=

= 14世紀中葉、三大陸周遊 / イブン・バットゥータ =

~ 19世紀までイスラーム圏以外で知られざる大旅行家・法学者 ~ 

《YouTubu動画;Ibn Battuta Documentary》

https://www.youtube.com/watch?v=EvYbXsMBJ5I

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「マルコ・ポーロの東方見聞録」に後れること約50

それをはるかに凌駕する

まさに空前絶後の大旅行記が世に出る

それが「イブン・バットゥータの大旅行記」である

だが、それが19世紀までイスラーム圏以外で知られることはなかった

なお、マルコ・ポーロの生没年は1245-1324年である

 

時は14世紀。 マグリブとアンダルスのイスラーム社会を劇的に、かつ激しく動いていた歴史哲学者がいた。 その名はイブン・ハルドゥーン。 政治家であり、歴史家であり、裁判官だった。

チュニスでもグラナダでもカイロでも知られ、多くのスルタンたちを蕩けさせた。 イブン・ハルドゥーンは「文明の生態」と、労働と所得と商品によって変転する「社会の本質」を発見した。

彼は「アラビアのモンテスキュー」であり、「イスラームのヘーゲル」だった。 いや、それ以上の「何者」かであった。

この男はあるときは学者で、あるときは裁判官、あるときは政治家で、あるときは亡命者だった。ゲーテより多彩だ。幕僚となって戦闘に加わり、地下牢に幽閉され、大法官となって裁いた。モンテ・クリスト伯より変幻自在だ。

あるときは砂漠の遊牧テントに暮らし、あるときはクーデターに加担し、あるときは宰相となって宮廷で政務を執った。 七つや八つの王朝に仕えたといえばすぐさま夢窓疎石を想わせるけれど、国師にくらべてこの男のその行動範囲がケタはずれだ。

チュニス、フェス、グラナダ、セビーリャ、カイロ、メッカ、ダマスカス、そのいずれでもその名が知られた。 そのうえでこの男は、一貫して歴史的現在を見つめつづけた大思想者だった。 その世界読書性はたちまちヘーゲルやヴィーコを想わせる。

それが14世紀のマグリブとアンダルスの波濤から「世界」を見抜いたイブン・ハルドゥーンなのである。 この男、圧倒的な観察と見識で歴史のダイナミズムを洞察しつつ、深い疑惑と闘いもし、山塞に隠棲して沈思黙考もし、そして厖大な記述に向かった。

イブン・ハルドゥーンが書き上げた『歴史序説』は、初めて「文明」というものを思想の裡に抱握した画期的な大著作だった。  この男にとっては「文明」とはそのまま「人間社会」のことだったから(そのように見たのはイブン・ハルドゥーンが最初だ)、これはまさしく「人間社会についての初めての学」が成立したということだった。

バトゥーター6-

ウィキペディアの解説には;

イブン・バットゥータ: Ibn Battuta、アラビア語ابن بطوطة‎ ibn baṭṭūṭah‎、全名アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アッ=ラワーティー・アッ=タンジー(アラビア語: أبو عبد الله محمد ابن عبد الله اللواتي الطنجي‎ ʾabū ʿabd allāh muḥammad ibn ʿabd allāh al-lawātī al-ṭanǧī、1304年2月24日 – 1368年)は、マリーン朝(現モロッコ)のタンジェ生まれのイスラム法学者旅行家

1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てマッカ(メッカ)を巡礼し、さらにイランシリアアナトリア半島黒海キプチャク・ハン国中央アジアインドスマトラジャワを経て中国に達し、泉州大都を訪問したとされる。

1349年故郷に帰還したのちも、さらにアンダルシアイベリア半島)とサハラを旅し、1354年マリーン朝の都フェスに帰った。特にイスラームの境域地帯(スグール)を広く遍歴した。

約30年に渡る大旅行のうち、8年間はインドのトゥグルグ朝で法官として封土(5ヶ村)を与えられ、1年近くをモルディブの高官として過ごしている。 インドやモルディブなど、12世紀以降にイスラーム王朝の支配が浸透した地域では、支配確立の為にイスラームの中心地帯の統治や法に関する知見を持つ人材が必要とされた。 バットゥータのインドにおける奉職も、そうしたニーズに応えるものだったと考えられる。

マリーン朝スルターンアブー・イナーン・ファーリスの命令を受けて、イブン・ジュザイー英語版)が口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار‎ tuḥfat al-naẓār fī ġarāʾib al-ʾamṣār wa-ʿaǧāʾib al-ʾasfār、通称Rihla)が完成する。 この旅行記は19世紀にヨーロッパにも紹介され、各国語に翻訳されて広く読まれた。

現在、タンジェには彼の名を冠した「イブン・バットゥータ通り」やイブン・バットゥータ国際空港があり、イブン・バットゥータの墓と伝えられる白亜の廟も建っている。

・・・・・・・・・・とある。

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14世紀のイスラーム世界は8世紀のアッバース朝時代にくらべれば、ずっと拡大していた。 十字軍は全世紀にシリアの海岸から追い払われ、小アジアやバルカン半島では新興のオスマン帝国がビザンティン帝国を着々と侵食していて、かつてはイスラーム外周圏だったスーダン、インド、インドネシア、中央アジアでも次々にイスラーム改宗がおこっていた。

しかし、そのぶん王朝も政権も安定はしていない。当時の北アフリカ(すなわちマグリブ)は、3つの王朝、マリーン朝・ザイヤーン朝・ハフス朝が鎬を削っていた時期で、それぞれにスルタンやカリフがいた。 そのなかのハフス朝は13世紀前半にムワヒット朝から独立したイスラーム王朝で、その首都がこの男が生まれたチュニスなのである。

タンジャに生まれたのではあるけれど、イブン・ハルドゥーンの家系は8世紀にアラブ大征服時代にスペイン(アンダルス)遠征に参加した一族だったので、その子孫の多くはもともとセビーリャに住んでいた。

しかしながら、イベリア半島にヨーロッパ人とキリスト教徒によるレコンキスタ(イスラーム排斥運動)が激しくなると、一族はセビーリャ陥落を前に北アフリカ(マグリブ)に移住してきた。

イブン・ハルドゥーンの一族が、ジブラルタル海峡に面したモロッコの港町タンジャ(タンジール)で、北アフリカ地域に広く分布するベルベル族のなかの主要部族の1つであるラワーク族の法官職や教授職の家系であった。

イブン・ハルドゥーンがタンジャに生まれたのはそのためだった。 けれどもこの男には、どこかイベリア半島をこそ自分の原郷とみなしているようなところがずっとあったようだ。

イブン・バットゥータは、1325年6月14日、21歳の時に聖地メッカの巡ハッジ礼=前章・鄭和参照=を志して故郷の町タンジールを出発し、北アフリカ、エジプト、シリアを経て、次年の聖地での巡礼大祭(1326年11月4〜7日)に無事参列した。

その後も、メッカを拠点にして、イラク、イラン、イエメン、東アフリカ、南アラビア、小アジア、中央アジア、インド、モルディヴ諸島、スリランカ、東南アジア、中国など、3回の大旅行を行った。

イブン・バットゥータの東方の旅のなかでも、とくにイエメン・東アフリカ・南アラビアの旅、さらにインドのデリー滞在のあと、南インドの海岸地帯、モルディヴ諸島、スリランカ、ベンガルと東南アジアの各地を経て南中国の泉州(ザイトゥーン)に至る旅、そして中国を離れて、ジャンク船とダウ船を乗り継ぎ、スマトラ島とインドのカリカット(カーリクート)経由、南アラビアのザファーリ(ズファール)、ホルムズに至る。

このインド洋横断の旅の記録は、彼の『大旅行記』全編のなかでも最も波乱万丈の興味深い部分であり、当時のインド洋海域世界を舞台とした海上交易や港市社会の様子を躍如として写し出している。

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《YouTubu動画 44分;JOURNEY TO MECCA HD – Story of a traveller Ibn Batutta》

https://www.youtube.com/watch?v=c7b9TLuWNW4

 

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・・・・・・続く・・・・・・

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