小説・耶律大石 第一章(02)

宋・金・遼

安禄明に連絡を取らねばと 大石は襟元からさし込む寒さに 一度身を震わせ 「明日も 苦労を掛けるな・・・・・・」

「めっそうもない、耶律楚詞さまが・・・・」

だが、大石の胸裏には耶律楚詞は 今 存在しなかった。 満天の空、月は冴え 星は個性を競いう。 流れ星が走ったが その流星に二人は気が付かなかった。

会話は途絶え、 月明かりが その光を増した。

江南地方

宋の第8代皇帝徽宗は文人・画人としての才能を持ち、絵画・建築・造園などに優れていた。 百官の宮廷人は彼の絶対的な権力と才能に畏怖した。 また、後世の文人・博識地人は彼をして芸術面では北宋最高の1人と言わしめている。

皇帝徽宗は、そのため、造園に必要な珍花・名木・奇石(太湖石など)を、童貫や蔡京、後には蔡京の推挙した朱勔(しゅべん)らに集めさせた。 調達させた珍花・名木・奇石などは花(か)石(せき)綱(こう)とよばれ、国政的な重要事業として扱われた。 その調達は、主に中国南部の江南地方で行われた。 目に留まった花石綱は強制的に買い上げ、あるいは強奪し、運河や陸路を利用して首都・開封へ運ばせた。

その方法たるや、

・  陸路で輸送する際は、邪魔になる民家を取り壊す。

・  運河で輸送する際は、邪魔になる橋を取り壊す。

・   運搬に際しては、原型を留めるため、大小に関わりなく 丁寧な梱包 が義務づけ行われた。

このような強引な調達方法や、運搬にも多額の費用・労働力がかかったことから民衆の恨みを買った。その結果、「朱勔を誅せよ」と掲げた方臘(ほうろう)の乱(らん)を初めとする民衆蜂起が、江南地方一帯で発生する。

1120年、中国の江南地方 花石綱収集を直接の原因とし徽宗が行った種々の苛政を背景にして、漆園の経営者で「喫菜事魔(マニ教)の徒」である方臘(? – 1121年)の主導によって 民衆蜂起が発生した。 反徒は役所や寺、道観、学校を襲撃して官吏を殺害し、一時期は江南の13州53県が反乱軍の手に落ちた。 方臘は自らを聖公と名乗り、永楽という年号を定めた。

折りしも北宋では、海上の盟に則り、遼攻撃に備えて禁軍遠征部隊を編成していた。 そこから15万を割き、童(どう)貫(かん)を総司令官として南征軍を編成し、方臘討伐を開始した。 童貫は去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚まで生えていたという怪人物であり将軍として南下した。 =この戦線に禁軍を割いたことにより、金との遼共同攻撃に出遅れた。 また、禁軍がこの戦線で疲弊したことも、耶律大石戦での敗因の一因となる=

童貫が長江を渡渉すると、方臘は銭塘江流域の睦州清渓に移動し童貫軍の攻撃に備えた。 反乱勢力の抵抗は長引き、童貫軍は反乱勢力下に住まわるマニ教信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、王淵麾下の将校の韓世忠の活躍などにより 1121年4月、方臘を捕え 開封府にてこれを処刑した。 =尚、後年に 北宋の第9代(最後の)皇帝欽宗は即位後に朱勔(しゅべん)・蔡京・童貫を流罪とし、さらに病死した蔡京を除く両名を誅殺している=

方臘の反乱と、童貫軍の激しい略奪もあいまって、江南の疲弊は大きなものとなった。 この乱の平定に加わった将軍の中に、先に反乱を起こした宋(そう)江(こう)が参加していた。 宋江は率いる反乱軍を河朔(黄河北岸)に興し、1121年に淮南の諸地方を荒らした後、官軍の追討を受けて京東(北宋の首都開封の東、現在の山東省西部)、江北(長江北岸)を転戦し十郡を攻略した。

宋江は、もともと地主の息子(次男)で県の胥吏(地元採用の小役人)を務めていた。 風采のあがらない小男だが、義を重んじ困窮する者には援助を惜しみなく与えることから世間の好漢に慕われていた。 天賦の指導者・宋江の勢いを恐れた北宋朝廷は彼の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた方臘の乱の反乱軍討伐に彼を遠征させた。

宋江は、方臘配下の反乱軍討伐に活躍する。しかし、事が成った後 朝廷の腐敗した高官により無実の罪に陥れられた。 朝廷は毒にての刑死を彼に計が、九天玄女が遣わした彼によく似た保義郎が毒を仰いで宋江を梁山泊に逃がした。時に三十歳の宋江は、紆余曲折の末に 山東省済寧市梁山県に屯する梁山泊軍の総首領に納まり、北京の大商人・盧(ろ)俊(しゅん)義(ぎ)を副頭領として朝廷に戦いを挑んでゆく。

 

海河の南 奇岩 剣のように立つ深山の山間、 眼下に渓谷の水が緩やかに流れるのが見える。 満月が  険しい岩稜の獣道を下る若者の足元を照らしていた。  鍛え抜かれた彼の肉体はしなやかに、飛ぶように、岩稜を走る。

昨夜、この若者は師の庵に呼ばれた。 師の名は慧樹、禅僧・慧樹大師である。 武術の師でもあった。 膝を着く彼に 師は優しく言葉を掛けている。 月明かりが煌々と庭の静寂に溶け、師の柔和な姿を照らしていた。

「楚詞、汝には 教えるべきことは全て授けた。 我が教えをよく聞き、よく励んだ。 ここにふみがある。  安禄衝殿からだが 昨日、届いた」 小柄な慧樹大師の声は途切れることなく 耶律楚詞を 穏やかに包む ・・・・・・・

「耶律大石殿が秦王殿下と天錫皇帝の皇后・蕭徳妃を擁されて天祚帝皇帝の下に向かわれたとしるしてある。 汝は天錫皇帝が病死されたことは知っておろう。 安禄衝殿jは不審を抱かれておるようすだが・・・ 」 一呼吸を置き、師は やや声高に成り、その声が静寂の中に波紋を広げる・・・・・・

「愚僧も迂闊であった。 汝が秦王殿下の従弟であったとは、この文が教えてくれたわ。 安禄衝殿は大石殿から汝を預かり、この霊幽に寄越したのはこの時を考えた深謀であろうか。 安禄明さまの入地恵かも知ぬがのぉ 」 大師の声は 高ぶりが消え 目には愛弟子を厭う 喜びがある・・・・・・・・

「汝は 大石殿の避難行を知った以上 我が教えを聞くどころではあるまい、また 汝の従弟である幼き秦王殿下の事が気掛かりでこの庫裏にはおれまい。 先にも話したが、汝に教えるべき術はもはやない。 明日からは汝自信が励み、我を超えよ 」 いつしか、 満月に一条の雲が掛かり、師の声はくぐもりがちに・・・・・・・

「ふみから察するに、大石殿は燕京から北に走り、居庸関・長城を超え西に向かわれたもよう。 陰山までは安全とは言えぬが 砂漠を皇后様や秦王殿下を擁護しての旅は無理であろう。 汝の存念は如何であろうか、存念を言うがいい 」

『身を偽っていたこと 申し訳ありません』

「・・・・聞かぬことに 答える者などおるまい。 それより 汝 如何にする」

『明日早朝に下山致したく思います。 洛陽の手前で黄河を渡り、山越えの道を早掛けすれば 五日で大原。 大原から大同までは三日もあれば着きましょう。 なれば、陰山は目と鼻の先でありましょう。 耶律義兄には五原当たりでみまえることが出来ると思います 』

「よくぞ申した、汝の足は健脚の倍、 だが、かの地は宋や金が目を光らせておる。 明日 文を持たせる。 事あらば、黄河の渡りや大原の霊厳寺 大同の華厳寺にて見せるが良かろう。 くれぐれも無理は致すな よいな 我が衣を身に着けていくがよい」

振り返れば 昨夜の師の言葉がよみがえる。 あの尾根の向こうに 春秋二年、教えを受けた嵩山少林寺があり、恩師・慧樹大師が住まわれている。

耶律楚詞は慧樹大師の姿を振り落すように、黄河をめざして歩みを速めていた。

・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

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