小説・耶律大石 第一章(04)

雲崗石窟

立派な僧衣の若者が 大同は華厳寺の甍を見上げていた。

旅の僧であろう あたらぬ髭が薄っすらと生えている。 笠の下に頭髪も覗える。 気品が漂わせる顔には人を引き付ける清々しい目があった。

若者は 父を思い出している・・・・・・・・・・

一昨年の1122年、父は天祚帝の奸臣・耶律撤八に告発され、絞殺の刑に処せられたことを また、すぐる 保大元年(1121年)に蕭奉先(しょう ほうせん)が誣告で父が境地に立たされ、祖母・蕭文妃*天祚帝が寵愛の妃*が処刑されたのを・・・・・・

若者の名は耶律楚詞。 父の名は耶律敖盧斡(やりつ ごうろあつ)、この華厳寺と関わっている。 敖盧斡は天祚帝と蕭文妃(しょうぶんひ)とのあいだの長男として生まれた。 幼くして騎射を得意とし、聡明であった。 乾統初年、家を出て大丞相耶律隆運の後を嗣いだ。 乾統6年(1106年)、晋王に封じられていた。 耶律敖盧斡は晋王として善政を行い、隠れて研鑽したと史書は言う。 また、『小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない』と言って従容と死についたとも史書が記している。 1112年二月に事が起こる。

保大元年(1121年) 早春、蕭奉先が「南軍都統耶律余睹が蕭文妃と謀って晋王敖盧斡を帝位につけようと図っている」と誣告したため、余睹は金に降伏し、文妃は処刑された。 祖母・文妃が処刑される前夜 父が突然 いままで訪れたことなき己の部屋来ていた。 楚詞は 余の夜 父・敖盧斡の苦悩を知った。

二月の寒さが父を 更に憔悴させているようであったのを思い出している。 父が 普段は口にせぬ 厳しい口調で 言った言葉の一言一句を思い出していた。

「誣告の罪で そなたの祖母は明日、慙死を受ける。 父の寵愛が深かったがゆえにな・・・・・・・父は無慈悲な人だ。 帝位がそうさせるのかも知れぬが・・・   我が身の潔白は明かされたが、 王庭には阿諛追従が蔓延り、帝位を日夜 曇らせている」

 

「楚詞よ 儂は 帝位は もとより 王位すら望まぬ。 帝位を更かさんと企てた母の意中が いずこにあった かも知りたくは思わぬ。 が、・・・・・ 再び 儂に災が降り懸かるやも しれぬ・・・ 」  「楚詞よ、ここを去れ・・・・今直ちに」 父は途切れ途切れに 己を自責するがごとく 話を継いだ。 父の眼には 涙が浮いていたのが 今尚 思い出されて胸を締め付ける。 父は 話を続けた、

「耶律大石皇子の下に行くがいい。 安禄衝殿は聞いておろう、大石皇子は安禄殿とは昵懇の仲、安禄殿の懐に入り しばらく この遼を眺めるがいい。 」  「父上は・・・・・」

「陰謀に関与していなかったと認められて、許された。 書物の世界は広い、 虫が付かぬように 日々 手にしてやらねば・・・・」

 

佇み、父を思い出しながら 甍を見詰める耶律楚詞の目に、涙が浮かんでいた。 楚詞の父・耶律敖盧斡は眼前の華厳寺建立に尽力し、晋王として善政を布いた。 しかし、 翌年 保大2年(1122年)1月、「耶律撒八らが再び晋王敖盧斡の擁立を計画した」として、父は告発された。

祖父・天祚帝は皇太子の敖盧斡を処刑するに忍びず、人を派遣して 絞め殺す命を発している。 執行者が訪れる前、ある人が皇太子に亡命を勧めたが、敖盧斡は「小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない」と言って、父は従容と死についたのだ。

 

華厳寺の甍が一望できる門前は大道の中央に佇む若者・耶律楚詞は瞼をぬぐうと 庫裡に寄る事無く 北を目指して足早に去って行った。 大道りを離れ、大同鼓楼を横目に 町はずれの武周川河原で若者は僧衣を脱ぎ去った。 この武周川の上流、東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院があるのだが、嵩山少林寺の作務服に着替えを終えた僧は、北を目指して 再び 駆け出していた。

千島湖

漠々と荒涼な原野を 牛車に揺られながら 蕭徳妃(しょうとくひ)皇后が、背後の耶律時から抱くように支えられて馬上にある秦王が進む。 精悍な眼光を四辺に向けつつ、耶律大石が無言で騎馬兵を引率して行く。 二十数名の騎馬武者集団である。 耶律大石の心は重い。

共に立った李処温は宋に寝返り、私欲に遼を売った。 また、遼の再興を期して擁立した天錫帝があっけなく崩御し、今 北の阿骨打に追われるようにゴビ砂漠の西方に逃避した天祚帝に会いに行こうとしているこの旅程・・・・・・

ここ数日、大石は馬の鞍に悠然と身を構え 考えるも無く 天祚帝に会うべく心の準備、“天祚帝が逃亡しなければ策はあった”に至った心証と親友・安禄明と交わした言葉の端々を考えている。 三年前の保大元年(1120年)、耶律大石は北面官の大林牙院(南面官の翰林院に当たる)に進み上級の林牙に就いていた。

泰州(現在の黒竜江省泰来県)・祥州(現在の吉林省徳恵市)の二州の刺史を務め、遼帝国の領土が金の馬蹄に踏みにじられる様を苦慮していた。  時には 少数の兵を率いて侵略する金の軍兵を追走し領地を保全していた。 翌年 彼の任地は平州(河北省)にまでも拡大され、遼興軍節度使をも歴任するようにもなっていた。 遼帝国の領土東北部が金の馬蹄に踏みにじられれば、遊撃部隊を率いて天祚帝の本隊を援助しつつ金軍を撃退し、かつ 南方から宋の軍団が二十有余万の将兵で北上した折には 少数の兵で宋の軍勢を撃破している。

保大2年(1122年)3月7日、大石35歳の折、天祚帝は金の太祖・阿骨打と入来山で戦って大敗し、長春に逃れた。 女真人の金からの攻撃に迎撃し直接矛を交えた皇帝・天祚帝は、遼興軍節度使の耶律大石の遊撃軍を待つことなくこの攻撃を防ぐことができぬと独断し 中京から西の雲中の陰山に逃亡した。

皇帝の避難行を知った大石は、宰相の李処温とともに南京(燕京、現在の北京)において、3月17日 あまり乗り気ではない南京留守・耶律涅里を擁立し、さらに李処温の子の李奭が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里は成り行きで即位させられた。耶律涅里は第7代遼帝国皇帝・興宗の孫、天祚帝の従父の南京留守であり、秦晋王・耶律淳(涅里)。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。

新政権は勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げし 新王朝・「北遼」と称し、金と対抗した。 この時の天祚帝は耶律淳(天錫帝)を擁立した挙句に、自分に無断で「湘陰王」に格下げし、その存在を無視した理由で「おば」の蕭徳妃を処刑してしまい、秦王はもとの太子に戻された。 しかし、6月に天錫帝は崩御し、天祚帝の五男で太子の秦王・耶律定が擁立された。 秦王は未だ幼く 天錫帝未亡人の蕭徳妃・蕭普賢女が摂政する。

大石は北遼の国力をもって宋、金2国を相手取って戦うことは困難であると考え、宋との和平を望んだが、宋は“海上の盟”に則り燕雲十六州の攻撃準備を急いでいるとしった。 1122年夏、宋の童貫は15万の大兵力=禁軍遠征部隊=を率いて北遼侵攻を開始した。 童貫の字は道夫。 開封の人。 去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚までたくわえる怪人物。

童貫は北遼の軍隊は宋に降伏する手筈だと喧伝していたが、燕京を守る耶律大石は親友安禄明の父・安禄衝が南方で展開する商いの組織を通じて 江南は梁山泊の豪傑・宋江以下36人の好漢達が背面で陽動行動を起こし戦いを優位に運ぶ作戦を画策していた。 また、大石はマニ教団に漢南の信徒数十万人が童貫の禁軍遠征部隊が行軍する進路を阻害するように依頼していた。

燕京を守る耶律大石率いる北遼軍の抵抗は頑強であり、初戦で楊可世が率いる前軍・辛興宗の西路軍・種師道の東路軍が国境線の白溝河まで敗走を余儀無くされ、更に追撃を受けた際に童貫が北遼軍を恐れて退路を遮断したため、東路軍は壊滅的打撃を被り西路軍も大きな被害を出した。 宋は童貫の監督下で15万の大軍を動員したいたが、大石は二万有余の将兵でこれを白溝河において大いに打ち破った。 その後、北遼は宋へ和平を持ち掛けたが、敗戦による権威失墜の回復を謀るべく戦果を欲していた童貫は拒絶する。

・・・・・・続く・・・・・・
 

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