小説・耶律大石 第一章(05)

居庸関同じ頃、李処温の宋との内通が露見したため、蕭幹は李処温とその子の李奭を捕らえてこれを処刑するも、天錫帝の崩御に乗じて 新たに20万に増強した宋軍が再び侵攻してきた。 宋は劉延慶将軍の指揮の下で南京(燕京)に奇襲をかけた。 大石は南京において市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破した。 宋江以下36人の梁山泊の豪傑が陽動作戦で宋軍の背後を常に脅かす計略が五万有余の少数で勝利を収めた。

万策尽きた童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 阿骨打は、先年の1115年に按出虎水で皇帝に即位し、国号を大金と定め、按出虎水にある会寧(上京会寧府)を都としていた。 同年 遼の天祚帝率いる大軍を破っていた。 北の遼に苦しめられてきた北宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年 金と“海上の盟”といわれる同盟を結んでいた。 これにより阿骨打は遼との決戦に臨み、同年遼の都上京を占領し、さらに燕京(現在の北京)に迫った。 1121年に遼の天祚帝は再び阿骨打と対決して大敗、燕京を放棄して西走したのは昨年の出来事、遼の支配は殆ど壊滅したが 大石が支える北遼が奮闘していた。

阿骨打は童貫の依頼を渡りに船と快諾、これを受理し 北方より三路から燕京を再び攻撃する。 もともと、宋軍は“方臘の乱”(大石の計略で江南のマニ教徒が起こす)など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れ、阿骨打は北宋との盟約・海上の盟に従って燕京を攻め残していた。 その後、宋軍が到着して燕京に攻めかかるが、弱体化した宋軍は耶律大石らの率いる遼の残存勢力・北遼に連敗している。

金軍が燕京の攻略に南進した。 金の将軍達は遼寧省承徳で長城を越える東路軍と内蒙古・張家口から長城越えの西路軍に「天下第一雄関」・居庸関を撃破して燕京(北京)に迫る中央路を進軍する。 阿骨打は中央路・居庸関を進軍していた。

10月、大石は居庸関で迎撃する。 燕京には幼い秦王・耶律定と摂政・蕭徳妃皇后が老将耶律尚将軍に守られていた。 しかし、大石が金軍に捕らえられた。 阿骨打は大石らを厚遇し、軍門に降りろと誘う。 遼宗室の耶律余睹が金に仕え、武将として仕え 対宋戦略の任に就いているとも秘密を明かしてもいる。

耶律余睹の妻は、天祚帝の側室の蕭文妃の妹であった。 昨年の1121年(保大元年)、「余睹は蕭文妃と図って晋王耶律敖盧斡を擁立する陰謀を企んでいる」と天祚帝に讒言され、余睹は危険を感じて、金に降伏していた。 他方 天祚帝は翌2月に宗族・耶律大石、宰相・李処温、張琳、蕭乾らに従父の秦晋王・耶律淳(北遼の天錫帝)を補佐させる形で、山西雲中(現・大同市)の陰山に逃げ、建福元年(1122年)6月24日に天錫帝は病死していた。

 

大石は子飼いの耶律時・耶律遥兄弟の知略で阿骨打の捕虜的束縛から脱出して、居庸関の闇に紛れての燕京に走った。 燕京は陥落直前であった。 開城迫る中、大石は耶律尚将軍に指示を与え、耶律尚を親友安禄明宅に走らせた。 また、秦王と蕭徳妃皇后に状況を説明し 秦王などを奉じて天祚帝の元へと逃亡した。  保大3年(1123年)の夏は終わろうとしていた。

時を置かずに、燕京は陥落する。 このとき金の群臣は阿骨打に、北宋が燕京攻略の役に立たなかった事実により、燕京の譲渡を拒否してはどうかと進言した。 しかし、阿骨打は盟約“海上の盟”の尊重を理由にその進言を退け、住民、財産の略奪を行った後、事実上の空城を明け渡し 燕京以下六州を北宋に割譲した。 更に 北宋に必要経費の数倍にあたる戦費=銅銭百万緡、兵糧二十万石=を請求するという実利重視の方針を取った。

 

「オルドスを征する者天下を征す」と古来より言われてきた豊潤な大草原の外周を黄河が流れる。 黄河が大きく 逆U字型にオルドスを迂回し流れる。 逆U字型の頭部・北側にはゴビ砂漠の西端、陰山山脈が砂漠の奥に遠望できる。 オルドス地方の南部を東西に万里の長城が二重三重に走っている。

南下を開始する逆U字型頭部の東端部あたりの黄河は ゆったりと流れ、河原は広く 本流はどれか判別できぬほど 自由気ままに広がり、蛇行している。 広大なオルドス地方は全体がおしなべて平坦な草原である。 西方に丘陵が横たわるが、東方はいつしか黄河の広い河原となり 黄河を離れて東行しれば山西雲中(大同市)に至る。

粗末な作務服を着込み、冷える早朝の黄河が河原を飛ぶように足を運ぶ若者の姿があった。 敏捷に浅瀬を渡り、石から石へと深き瀬を渡るようすは僧ではない。  しなやかな身体は野生の動物を思わせた。 頭髪は短く、髭は短かく濃い。 長身瘦躯である。 全体鬼に気品を漂わせる挙動である。

黄河中流太行山脈は小五台山の北側を西に進む隊列が 山間の間道で喘いでいた。 長蛇の列である。 騎馬武者達も馬の轡を引き、日毀れのする樹林帯を行く。 農夫姿の者も多い。 その長蛇の列は一里にも及んでいた。 百名ぐらいであろうか、個々に集団を作り 農夫姿の者たちは荷を背に振り分けた馬を追っていた。 騎馬武者は凡そ800、 農夫姿は150であろう。 五十名程度の騎馬武者の集団が先頭と最後尾にいた。 その間を20集団が進む。 その集団は騎馬武者と農夫で構成されていた。

「耶律尚将軍 あの山を回り込めば 張家口は山西平野が望めるはず。 山西には 縁者が多くいるし、金も宋もこの地までは 未だ手を伸ばしておりますまい 」

「羽殿 油断は禁物じゃ、 金は耶律大石軍事統師殿を全力で追っていよう。 しかし、西方の各地には間諜を配していよう。 間道を抜ければ、 この人数 嫌でも間諜の目に留まる。 怪しき者は縁者人とて 切り捨てよ 」

「軍事統師殿は 無事、着かれたであろうか・・・・」

「師の事だ、あえて 少人数で立たれた上は 策ありであろう。 我らは 雪降る折、黄河が凍てつく時に着けばいい。 この荷じゃ、黄河が氷り着けば、道程は楽になる。 くれぐれも、陰山が見えるまで急ぐではない 」

遼王朝の精鋭騎馬武者800余名は引退していた老将・耶律尚に率いられ、太行山脈を西に進んでいった。

 

同じ頃、宋の武将・郝仲連らが軍勢を率いて、黄河を越える遠征で金の領域を侵す行軍を仕掛けて来た。 金の阿骨打に帰順した耶律余睹は金の皇族・粘没喝(ねんぼつかつ)の武将として、西京(大同)の統括に当たっていた。 彼は都元帥府・右都監としてこの宋軍を西京南方の大原で迎え撃ち、郝仲連ら数万の軍勢を壊滅させていた。

その大原での戦いは、西京を目指して急ぐを耶律楚詞が二週間前に通過し 北上して 父・耶律敖盧斡を思いながら西京の華厳寺に立ち寄る事無く北の黄河に向かったのは六日前の事であった。 耶律余睹が耶律敖盧斡を帝位に就けようと画策していると天祚帝に讒言され、身の危険を感じて金に投降したのは一昨年の事。

楚詞は再び帝位を狙うと告発された父・敖盧斡が祖父の天祚帝に派遣された処刑執行人に絞め殺されたのを慧樹大師から聞いたのは 昨年の事である。  耶律余睹は楚詞の母の妹の夫であり、近しい叔父である。 しかし、耶律余睹が金の皇帝・阿骨打の武将であることは知らないし、彼が西京統括の任に就いていることすら知らなかった。

===== 続く =====

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