円仁、求法巡礼 -01―

慈覚大師

『入唐求法巡礼行記』は、最後の使節となった承和の遣唐使の一行に、請益僧として参加した、慈覚大師こと円仁(圓仁、794-864)の自筆日記である。 なお、請益僧は短期間の入唐研究員であり、長期滞在の留学僧(学問僧)と区別されていた。

彼の略歴は、「平安初期の天台宗の僧。諡(おくりな)は慈覚大師。下野(しもつけ)の人。15歳で比叡(ひえい)山(延暦寺)にのぼり、最澄に師事した。 838年(承和5)入唐、揚州、長安など各地で密教や天台学をまなぶ。 847年(承和14)に560巻あまりの経典をもって帰国。その後は第3代の天台座主(ざす)となり、天台密教の基礎を築いた」と“Encyclopedia”は記す。

円仁の出目は、下野国の壬生氏。 794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれている。

兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。 大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。

道忠は、鑑真が唐から来日後、彼に師事して具足戒を受けて律宗を学び、後に東国を回って教えを広め、慈光寺を創建した。 人々に菩薩戒を授けて回ったために、人々は彼を菩薩と呼んで尊んだ。 後に彼から菩薩戒を受けた円澄が最澄の門人となったことから両者の間に交流に生まれ、最澄が天台宗を広めるために広く経典の書写を呼びかけた際に仏法発展のために支援を行ったという。

円仁 15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事。 奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛された。 最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであったと言う。

814年(弘仁5年)、円仁 21歳の折 言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する。 そして 二年後の816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受けている。 仏教の出家者(比丘・比丘尼)が順守しなくてはならない僧団(僧伽)内の禁則・規則条項(いわゆる具足戒)、あるいは、それを記した典籍(戒本)を伝授され、会得したことは、事実上 在家信徒ではなく“具足戒/波羅提木叉”を拠り所に、「菩提心戒/三昧耶戒」や「菩薩戒/大乗戒」をはじめとする大乗の諸戒へ突き進む道程に 23歳の円仁は踏み込んだ。

この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れている。 最澄のこの旅行は、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。 その後東国へ旅立ち、関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。 最澄は新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。壬生寺817年(弘仁8年)3月6日、最澄は大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。 だがしかし 最澄は、翌年(818年)にはみずから具足戒を破棄する。『山家学生式』を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づけたのです。

836年(承和2年)5月 円仁 42歳、遣唐使の留学僧として、難波より出発するが、7月 遣唐使一行は遭難して肥前・対馬に漂着する。 1回目の渡航失敗し、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが 再び 失敗した。 承和4年の遣唐使派遣の渡航も失敗していた。 遭難した第1船は新羅船9隻を雇い帰国、第2船は南海の地に漂着し 知乗船事菅原梶成は大隅に帰着した。 この遣唐使派遣には、円仁は何故か 選任されていなかった。

そして 838年(承和5年)6月13日、藤原常嗣(大使)の遣唐使一行は博多津を出港した。 円仁・藤原貞敏・長岑高名が乗船していた。 副使の小野篁は遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。 この為、小野篁は自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に第二船への乗船を拒否し、渡航を放棄したことにより流罪になっている。

余談だが、藤原貞敏は入唐し長安に赴き、劉二郎(一説に廉承武)という琵琶の名人に教えを請い、2,3ヶ月の間に妙曲を習得し、劉二郎はさらに数十曲の楽譜を贈った。 また、劉二郎は貞敏の才能を見込んで、自らの娘(劉娘)を貞敏に娶らせるが、劉娘は琴や箏に優れ、貞敏は新曲を数曲学んだという。

承和6年(839年)琵琶の名器「玄象」「青山」=ともに、仁明天皇の御物= 及び琵琶曲の楽譜を携えて日本に帰国している。 貞敏は唐で結婚した妻を連れて帰国し、妻は日本に箏を伝えたともいう。

余談ついでに、長岑高名は家が貧しかったことから地方官への任官を望み、清廉で正直な性格で 私心を忘れて公務を務めたことから遣唐准判官に任ぜられた。 承和5年の遣唐使派遣大使の雑事への対応を委ねられた。 航海途上から唐都への旅上 外交的手腕を発揮した。 副使・小野篁がいなかったことから、正使・藤原常嗣の信任を受けて宮中へ上がることを許されている。 帰国後、嵯峨上皇の崩御に伴い阿波守に転任し、最終官位は正四位下右京権大夫兼山城守として平安時代前期の政事を舵取る。

 

円仁の『入唐求法巡礼行記』はこの日=838年(承和5年)6月13日の藤原常嗣(大使)の遣唐使一行は博多津を出港= から筆をおこしている。 曰く、「志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する。・・・・・」

しかし、舵を巻いて出港した“四船”のうち1艘は遭難し、円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)と言う。

尚、上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。 唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに 円仁は改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

・・・・・・・続く

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