円仁、求法巡礼 -03―

入唐求法巡禮行記新羅船を9隻購入して、帰国の運びに・・・・・

『入唐求法巡礼行記』にて円仁は、「5 遣唐使は勅許を得る能わずして楚州に帰り 海州より過海す」と断腸の思いを伏せて、初志を断念せざるえない状況となったことが示されている。 事は、2月6日 揚州の役所が天子の勅にしたがって、遣唐使節団の揚州残留者270人それぞれに、判官から水手に至るまで、絹5疋(1疋=12メートル)を禄(報給)として支給してきたという。 この270人は、この時点で揚州に寄留していた第1舶と第4舶の乗船者であって、長安や楚州などに派遣されていたものは含まれていない。 追確認すれば、第2舶はすでにみた海州(江蘇省東海県)に留まっていたとみられるが、同船の判事藤原豊並は長安で死亡したことになっている。

遣唐使は838年(承和5年)12月3日長安に到着し、翌839(承和6)年1月13日参朝し、閏1月4日長安を離れ、2月12日楚州に戻ってきた。 しかし、円仁にとって無念なことに、日本僧たちの去就については円載のみが天台山に入ることを許され、円仁などすべての僧は本国に帰還するものとするという、勅符となっていた。 28日、円載とその従者2人は一行と別れ、天台山に向かった。 《その後、彼は40年も唐に留まり、877年帰国の際に遭難して死亡する。=前節“破戒僧として”参照= 》

 

揚州にとどまっていた官人や僧たちは、10隻に分乗して大運河を使って楚州まで行って、大使一行と合流することとなった。 遣唐使一行は帰国に際し破損した船舶に関し、天子から9隻の船を雇って修理することを認められていた。 しかし 一行は修理をせずにそれに見合う新羅船を購入した。

帰国の準備は整い それを前にして、同年2月22日第4舶の射手1人、水手2人が唐人に暴行したとして逮捕、留置されたことをはじめとして、遣唐使一行の何人かが私交易をめぐっていくつかのトラブルが起きる。 トラブルの内容は後述するが、逮捕、留置された人々も放免され、2月22日に第一便が出発する。

3月17日、円仁は携帯品を運んで第2舶(新羅船)に載せ、出港を待った。 長岑判官と同船することになった。 使節団の一行はそれら9隻の船に分乗し、各船はそれぞれの船頭[指揮官]が指揮統率した。 船頭は日本人の水手を統率するほか、さらに新羅人で海路をよく知っている者60余人を雇い入れ、船ごとにあるいは7人、あるいは6人とか5人を配置した。 《彼らは舵取りや水夫で、博多着後、新羅に帰国している。》

3月22日、円仁が乗った第2舶をはじめ9隻の帰国船が、唐の監送武官の船に見守られながら、海州に向かって出帆する。 その途中、東海山(雲台山)近くの連雲港において、2日にわたって、遣唐大使は帰国船から官人を集めて渡海の方法について協議するが、まとまらない。 4月3日、第2、第3、第5、第7、第9舶の5隻は出帆することを決める。 4月5日になり、残る第1、第4、第6、第8舶の4隻もまた、順風の西風が吹き出したとして出帆することになる。 そこで円仁は計画を貫くこととした。 円仁は書き綴っている。

すでに「楚州に滞在していた際、新羅の通訳金正南と謀って、密州の地に行ったならば上陸して人家に泊し、その間に朝貢船が日本に向け出発したならば山中に隠れていて、そこから天台山に向かい、併せて長安に行く」という計画であった。 「大使もこの計画に反対されなかった」。そればかりか、それまでの贈与に加え「大使は金20大両を賜わった。人々も別れに臨んで悲しまない者はなかった。

[4月5日]午前8時になるころ、9隻の船は帆を上げて出発し、風に委せて東北を指してまっすぐに進んで行った。 岸の高い所に上がって望み見ると、白帆はずっと海の彼方に続いている。 僧ら4人[請益僧の円仁と、惟正、惟暁という僧、水夫の丁雄満]は山岸に留まった」のである。 なお、円仁の日記では明示されていないが、帰国船の一団に入唐第2舶が加わったことで、総数10隻となっていた。

この日、円仁は海州東海県で遣唐大使一行から離れ 天台山目指して 大陸を巡礼することになった。 しかし、一夜を過ごすも村人達に不審な僧だと警戒され 中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもない様だと判断され、怪しい僧だと烙印をおされて役所に突き出されてしまう。 そして、839年(開成4年)4月10日に再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった。

遣唐使船

・ 帰国船に「遺棄」され、在留を果たす・・・・・

「6 大師の留住の謀計は成らず 第2船に乗せられて過海の途に就く」と、いわば密入国に

失敗し、帰国船で強制送還されることになったことを日記に記している。 残留は遣唐大使・藤原常嗣の承解を得て、帰国する遣唐使一行から離れた円仁たちは、新羅僧と称して旅を続けようとするが村人に発覚された。 警備役所に捕らえられ、海州衙門に送致される。 他方、出帆したその日の4月5日夜半の暴風によって、帰国船はちりぢりとなった。

ただ、4月8日、前判官が死亡したことで昇進して、入唐第2舶の船頭となった良岑長松判官が病気になったため、東海山の海竜王廟に留まっていた。 その船には法相宗の請益僧戒明や新羅人通訳道玄が乗っていた。 そこで、円仁たちは良岑判官に引き合わされ、4月10日その第2舶に乗船して帰国させられることとなった。 しかし 入唐第2舶は8日間航海を続けるが、登州牟平県唐陽陶村の南辺に漂着してしまう。

この8日間は、荒れる航海だった。 2人の水手が死亡し、水葬にふされている。 また、飲料水が1日につき、役人2升、従者や水手は1.5升支給されたが、翌々日には1升に減るというありさま。 =1奈良升0.72リットル、1唐升0.59リットル=

その後、円仁たちが乗船した入唐第2舶は、三度の漂流を余儀なくされ 4月18日に乳山浦の西方に漂着する。 その間、天候は益々険悪な大しけが続き、舵手、水夫、卜部諸公たちが死ぬ。 半死のまま捨てられた水夫も出たと記述している。

この第2舶の航海の難渋ぶりは、具体的には次のようなものであった。 5月27日、「明け方、大きな雷が急に落ちて来て、帆柱をつんざき、船尾の甲板は斜めによじれむしり取られた」。 その裂けた帆柱は「改めて造りかえるべきだ」、「帆柱を造るといっても、その材木をここで急に入手することは困難」と議論しあったが、「後の説に従って、早く出発しようということになった」という。

また、6月23日赤山浦沖を漂泊中、「舶は大風のために吹き流されて荒磯にぶつかり、かじの板が破損し、同時にはしけ2隻も割れくだけてしまっている」。 「船上の多くの人は気が転倒して食事ものどに入らず、まるで半死の状態のようである」。 翌日、「船頭は水夫を港町・赤山浦に上陸させ、手分けしていかりになる石を採って来させ、また 舵を造る材木を探させた」と記述。

 

その後、入唐第2舶はだらだらと風待ちしている。 当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の中核の港町で、背面の山頂に寺社があった。 張宝高が設立の赤山法華院である。 風待ちの間、上陸した円仁たち入唐請益僧はこの赤山法華院のお世話になり、寝起きしていた。

=張宝高(ちょう ほこう、790年頃 – 846年?)は統一新羅時期に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物。 短期で帰国しなければならなかった入唐請益僧円仁の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験(旅行許可証)下付を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。 円仁の日本帰国時には張保皐自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将・張詠が円仁の帰国実現に尽力した。 円仁の『入唐求法巡礼行記』には、直接会ってはいないが、張宝高の名前が数箇所登場している=

「7月16日、早朝、赤山院から下りたが、その途中で会った人の言うところでは、帰国する第2舶は昨日出発したという。 前日まで船が停泊していた所に行って、舶の姿を探したがどこにもその姿はなかった。 茫然としてしばらくは岸頭に立ちつくした」という事態に円仁らは直面した。 「そこで文登県の役所に報告するために赴いた。 院内の老いも若きも、円仁らがとり残されたことを非常にふしぎに思い、親切に慰めてくれた」と記述しているが、 それは僥倖でしかなかったであろう。

ところが、5日後の7月21日午後4時ごろ、入唐第2舶同様、嵐に翻弄されたらしく、すでに3か月前に日本への帰帆をしていたはずの「遣唐大使以下の乗った9隻の船がやって来て、この赤山浦に停泊した。 「そこで、惟正をやって大使のご機嫌をうかがわせる……大使は近江権博士の栗田家継などを赤山法華院に派遣してきて我々請益僧を慰問され、同時に先にこの地から出発した第2舶が遭難したことについて質問があった」と記し、大使は円仁たちに一緒に帰国しようとも、または円仁たちも大使に一緒に帰国したいとも口上しなかったと言う。 こうして合意の「遺棄」によって円仁たちは念願を果たすこととなった。

その翌々日の「7月23日早朝、赤山の上から、きのうまで船団が停泊していたところを望み見たが9隻の船の姿はいずれも見えない。 それで、昨夜のうちにみな出航したことを知ったのであった」。 続けて、「赤山の東北方 海の彼方100百里(約55キロメートル)ほどのところに遥かに山が見える。・・・・・ ・・・・・円仁・惟正・惟暁の3人の僧はぜひとも天台山に行きたい一心で、日本に帰りたいという気持を忘れ去り、赤山院にふみ留まっている」と書き綴る。

=承和の遣唐使の帰国船は、入唐第2舶が合流したため、10隻となった。 遣唐大使に同行した帰国船9隻うち8隻が帰国し、1隻のみが遭難した。 それに先発した入唐第2舶は、相変わらず御難を引きずり、台湾周辺で遭難する。 その生存者は残骸で数隻の小船を作って帰国する。 この船に円仁が乗っていれば命を失ったに違いない。 このように、遣唐使の四つの船はいずれも遭難して海の藻屑となったが、円仁たちが乗った船を含め、帰国新羅船は小型でありながら、それなりに航海をまっとうしており、新羅人たちの航海・造船術の高さが見て取れる=

・・・・・・・続く

 

                        *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中