円仁、求法巡礼 -05―

天台山国清寺・ 赤山法花院を出て、五台山に向 信仰を深める求法巡礼の旅・・・・・・

円仁の『入唐求法巡礼行記』には「第二巻-8 赤山法花院の屏居、-9 公験を得るが為に青州に向かう、-10 公験を得て五台山に向かう、-11 五台山に到り大花厳寺に入る、第三巻-12 竹林寺と大花厳寺、-13 中台、西台、北台、東台を巡遊す、-14 長安に向かって発し、南台に登る、-15 長安に到る行旅、1-6 資聖寺に寄住して長安の諸大徳に学ぶ」がと巡礼の旅程を書き続けている。

それらは、円仁が寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出し、公験(旅行許可書)をえて五台山を経て長安に至るまでの、求法巡礼の旅を書き残したものであり、この日記の本体である。 その期間は、839(承和6)年7月から845(承和12)年6月まで、実に5年にわたる。

その旅行は当然陸路を取っており、当面する海事情報はさしあたってないが、注目すべき記事を書いている。 赤山法華院に屏居した翌年の840(承和7)年2月17日、円仁は張宝高に手紙を送っている。 そのなかに、「求法ののちは、赤山に戻り帰って、清海鎮から方向を変えて、日本に向かいたいと思っています……円仁が戻り帰ってくるのは、ほぼ明年(841)の秋になるだろうと推定しています。 もし清海鎮方面に人、船が往き来するようなことがあれば、どうか閣下からおはからいの命令を出していただきたく……お願いします。 僧らが日本に帰れるかどうかは、いつにかかって閣下の大きな援助によるのです」と、張宝高を仰ぎ奉り、はやばやと帰国船を予約しているのです。

そして、「円仁は故郷の日本を離れるとき、謹しんで筑前大守から書状一通を預かり託されてきて、大使に差し上げる手はずでした。 ところが、唐の地を目前にして船が浅瀬に座礁、沈没するという予期しない出来事にあい、いろいろな物を流失しましたが このとき託されてきた書状も波にさらわれ海底に沈み落ちてしまいました……どうかけしからんと責められませんよう、お願いする次第です……早い機会にお目にかかりたいと願う心情が増すばかりです」と詫びる文面から 張宝高の日本と関わりがいかに奥深いかを知りうる。 円仁は張宝高と面談はしていないが、日本の要人との交流が深い張宝高が部下に諸処の支援を指示していたのであろう。

 

さて、840(承和7)年2月22日、唐の文宗(在位826-40)が崩じたことを円仁は聞き、記している。 そして、4月1日 公験をえて五台山に向かう。 五台山までの約1270キロメートルを踏破して五台山に逗留。 そして 8月22日、円仁は早くも長安に入っている。 円仁、47歳であった。

途上で標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する。 五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(4月28日)。 折に、五台山を訪れた2人目の日本人=先人は、最澄とともに入唐し帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵=だという。 五台山にて法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。 また、南台の霧深い山中で「聖燈」=ブロッケン現象か? 太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象=を見たと年5月22日に記している。 更に、6月21日と7月2日に奇瑞を多数目撃したことで、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

円仁の学究は進展、信仰は深まる。 しかし、翌841(承和8)年1月、武宗(在位840-46)の即位により、唐の年号が開成から会昌に改まると、北方の騎馬遊牧民・ウイグル族が唐の領内に侵入してくる。 唐の王朝が揺らぎ始める。

842(承和9)年5月25日、天台山国清寺に入った円載の従者僧仁済が来て、手紙や消息をもたらす。 そのなかには、遣唐大使藤原常嗣は帰京したものの死亡したとか、入唐「第2舶は南の裸人の国に漂着し、舶は破損 人も物も損害を出したが偶然にも30人ほどは命が助かって、破損した大きな舶を割いて小船を作り、それによって日本に帰り着くことができた」とか、楚州に住む新羅人通訳の劉慎言のところに、玄済阿闍梨が託した「日本からの書状と沙金24小両」=後に、通訳が使い込んでしまったと知る=が預けられているとか、・・・・・・・・。

8月、円仁は帰国の意向を漏らす。 その頃から、会昌の廃仏と呼ばれる武宗の仏教迫害のきざしが見え始めていた。 円仁は、当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する。 53日間の旅程であった。

大興善寺

  • 長安への求法・・・・・・・そして、国外追放

当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。 その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせている。

大興善寺;中国の陝西省西安市雁塔区にある寺。隋の文帝が仏教復興の象徴、または国寺として建立した寺である。北周末の大象元年(579年)に仏教復興に伴って陟岵寺に置かれた菩薩僧120名が、580年には正式の得度を受け、大興善寺が建立されると、移されて住僧とされた。この措置を見るだけでも、統治者側の意向による国家的色彩の濃厚な施設と人員であったことを伺い知ることができる。また、闍那崛多・那連提耶舎・達磨般若・毘尼多流支らの西域からの渡来僧や、浄影寺の慧遠や曇遷・霊裕らの高僧名僧、60名余も集められ、訳経事業が行なわれた。こちらは、初唐の西明寺や大慈恩寺を舞台として行なわれた玄奘らの大規模な訳経を彷彿とさせるものである。

金剛界曼荼羅;密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した仏画が曼荼羅である。日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、成身会、三昧耶会、微細会、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会、降三世三昧耶会の九会から成る。これはひとつの曼荼羅の9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅を哲理的集合体と考えるべきものである。

円仁の『入唐求法巡礼行記』には「第三巻-17 僧尼の陶汰、第四巻-18 武宗の暴政、-19 武宗道教に溺惑して僧徒を迫害す、-20 長安を発し、帰って卞州に到る、-21 登州文登県に逓送せらる」と綴られ、“会昌の廃仏”が起こり、円仁たちは国外追放となり 唐の最果てまで逓送(駅逓送り)される過程を記している。 その骨子を俯瞰すれば・・・・・

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。 曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。 円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。 描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

だが、当時の長安の情勢は、唐の衰退等も相まって騒然としていた。 治安も悪化、不審火も相次いでいた。 しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。 また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。 長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。 そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。 と言う。 さて、余談だが、“会昌の廃仏”に遭遇した円仁の動向は・・・・・

・・・・・・・続く

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