円仁、求法巡礼 -07―

張宝高

  • 帰国の旅の苦難

「22条- 赤山に寄寓し、自ら船を覓めて帰国を謀る・・・・・・・」と、円仁は 自ら船を探して帰国の方策を立てている。 しかし、あしかけ3年 赤山浦に寄寓した後、自ら帰国の途につくという記録である。

会昌6年(845年)8月27日、長安から歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った円仁。 円仁たちは勾当新羅所に着いて、軍事押衙の張詠と再会し、懇切にねぎらわれ、 再び赤山法華院の庄院に寄住することになった。 太宰府に8年間住み、張宝高が唐に連れて来た新羅人還俗僧の李信恵を通訳にして帰国への方策を探っている。

張詠は、州庁に「彼らは駅次ぎに旅を続けてきて、この県に到着、勾当新羅所に来て乞食してまでもただ命をつなぎ、日本国に渡り行く船のあるのを待って帰国したいと申し出ている。 現在 この浦(赤山浦)に滞在している」と報告した。 それに対して、9月「その僧らはしばらく逗留することを任せよう。 もし日本国に渡海していく船が見つかったならば、自由に出発させてよい」との文書で返答された。

そうこうしているうちに、年が       会昌6年(846年)に改まる。 この会昌6年3月23日に唐朝の第18代・武宗が崩じたことを知り、それにより仏教は復活するのだが、先刻の3月9日、張詠から手紙が来て、最近「日本から僧1人と一般人4人が……いま揚州に着いており、日本国からの手紙[太政官の文書など]と預かり託されてきた贈り物などを携えて、懸命に請益僧円仁を尋ね求めている」とあった。

「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやって来たのであった。 その僧・性海は、すでに見知った李隣徳の船に乗って楚州に着いているらしく、彼を呼び寄せることとなり 10月2日になって揚州から赤山浦にやって来て師と再会を遂げる。

再び年が改まり、847(承和14/日本暦)年となる。 「張詠大使は去年の冬から船を造りはじめ、今年の2月になってその新船は竣工した。 張詠大使はただただひとすじに 円仁らを、この地から出発させて日本に帰したいと考えてのことであった」とあり、ここにおいて帰国の運びとなる。

長安城 閏3月10日、それに差し金[難くせ・嫌がらせ]が入る。 新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、この船では帰れなくなる。

その経緯は 新羅王の遣唐使節の副使らに、「国の名義を使って遠い国の人を送り出そうとして勝手に船を造っておりながら、朝廷から派遣された使節に対してはやって来てお迎えし接待しょうともしない」と、張詠を讒言するものが出た。 「朝廷派遣副使らは、その告げ口を聞いて、張詠大使の行動を深くいぶかり 文書を出して言うには『国の禁制があり、船を自由に派遣して客人を送り届け、大海を渡るなどの事は許されない』と指摘した」

=前記のごとく、新羅王に反旗を翻した“張宝高の乱”の首謀者の部下である張詠に新羅王の遣唐使節団が種々反目するのは当然か・・・・円仁は張詠を頼みとして唐に滞在し、今 帰国しようとしているが、すでに情勢は大きく変化していた。 張宝高一党の勢力は山東半島から減退していたとみられる。=

『入唐求法巡礼行記』には、「張大便は、むりにどうしても自分の考えを主張することはせず、副使の文書を拒否するようなことはしなかった。 こういうことがあったため、文登県の地から大海を渡って、[張詠の船で円仁たちが]日本に帰るという計画は実現できなく成った。 そこで相談して、明州(寧波)に行って、日本国の神御井[大神御井という名前]らの船を追い求めて帰国しようということになった」。 いまや張詠に頼ることができなくなり、「自ら船を覓めて[もとめて]帰国を謀る」こととなると記している。

=張詠は、足立喜六氏によれば、「新羅人にてもと張宝高の部下の将なり。 勅平盧軍節度、同十将。 兼登州諸軍事押衙は、唐の天子より受けたる優遇官にして、実官にあらず。 張宝高の乱≪新羅の都・金城(慶州)では王族間の後継争いが起こり、一旦は敗れた金祐徴(後の神武王)が張宝高のもとに身を寄せ蜂起。 これが原因で張宝高は暗殺される≫後、青海鎮の大使となり 新羅所を勾当して 文登県登州に関する事務を総管する」とある。 すでにみたように、張宝高は円仁が唐滞在・求法巡礼行を可能たらしめた最大の支援者であった。 彼の部下・配下への円仁救援命令がなされていたが、円仁の長安滞在中に暗殺されている。=

比叡山

閏3月17日、円仁らは 密州から船賃[絹5疋]を払って、6月5日に 楚州に行き着く。 そこで三度 劉慎言に会い、帰国の便船探し「ここから出航して日本に帰国できるようはかってほしい」と頼んでいる。 劉慎言は楚州の新羅人約語(通訳のこと)で、新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった。 彼は新羅人の金を見つけ、円仁を紹介するのだが・・・・・

6月9日のこと、珍らが日本向けの船に円仁たちを乗せてよいとして、赤山浦に向かったという情報をえる。 円仁たちはその船と行き違いとなっていたのである。 そこで、6月18日 円仁たちは新羅坊の王可昌の船に乗って赤山浦に戻ろうとするが、しかし 追い風がなく、もたついたため、7月13日には従者丁雄万を陸路で赤山浦に連絡に走らせ、出航を待ってくれるよう手を打つ。

ようやく追い風をえて、「7月20日。乳山の長淮浦に着いた。 金珍らの船を見つけことができた。すぐに人や荷物を載せて、乗船後まもなく出発した」と日記に綴っている。 円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈ったとも追記してもいる。

すでに金珍の船に乗船、出航したあとで、従者丁雄万が乗船せず 置き去りにされことが判明する珍事が発生している。 丁雄万はのちに帰国し、円珍(智証大師/天台宗門派開祖]が853年の入唐に通訳として再入唐する。 長安でかつて円仁が金剛・胎蔵両界を受法した玄法寺の法全和尚に偶然会い、彼が円仁の元従者であることを知った法全が歓喜するくだりが【円珍原著・頼覚抄録『行歴抄』】にある。

・・・・・・・続く

                        *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中