円仁、求法巡礼 -08―

新羅船

  • 新羅船にて全羅南道経由、博多に着く

円仁帰国の道程は、朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。 新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。

「23条- 赤山浦を発して肥前国鹿島に安着す」と記す道程記録はタイトル通りである。 7月21日、登州に来て、船を止めると、勾当新羅使の張詠が船にやって来る。 その後、ようやく「9月2日。正午、赤山浦から大海を渡り始め……真東に向かって行く」。 早くも、「9月4日。明け方に至って東の方向に山島を見る。 あるいは高くあるいは低く、段をなして接し連なっている」。 そこは、新羅の西の熊州(忠清南道)であった。 「夜10時少し前、高移島(全羅南道珍島の西)に着いて停泊した」。 「9月6日。午前6時、武州(光州)の南方領域にある黄茅島[丘草島ともいう]の泥浦に着き停泊した」。

そして、9月9日、全羅南道莞島に散在する雁島に着いてしばらく休んだ後、南東に進むと、「9月10日 夜も明けるころ、東の方向遥かに対馬の島影が見えた。 昼12時ごろ、前方に日本の国の山が見えてきた。  東から西南にかけて連なってはっきりと見える。 午後8時ごろになって、肥前の国の松浦郡北部の鹿嶋に到着、停泊した。 ・・・・・・」

翌日「夜明けに、筑前の国の丹判官の家臣大和武蔵が島の長とともにやって来て会った。 彼らから、あらまし日本国の事情を聞き知った」。 9月15日、橘浦を経由した後、遂に「9月17日。博多の西南能挙嶋の下に到着、停泊した」のである。 翌18日には、鴻臚館に入り、滞在することとなる。

「10月6日。 官庫から絹80疋と真綿200屯を借りることができたので、船上の44人に冬衣を支給した。 6日に生命の糧として米10石が送られてきた」=1疋は絹4丈、12.4メートル、1屯は真綿2オンス、1石は72キログラム。 それらが運賃(その一部)なのか、賞与なのか、越冬品なのか明らかではない。それはともかく金珍の船の乗組員は44人であることが分かる= その後、

「10月19日。太政官の通牒が京から大宰府に来た。 それには『円仁ら5人をすみやかに入京させ、唐の人[新羅人とはされていない]金珍ら44人には十分に報酬を支給することを、大宰府に命じる』とあった」。

 

このように、円仁たちは847(承和14)年7月20日に金珍の新羅船に乗った後、約2か月で博多に戻って来て、838(承和5年)6月13日からほぼ9年にわたる唐への求法巡礼の旅を終えている。

その紆余曲折は計り知れないものがあったわけで、感慨無量であったはずである。 しかし、その帰路と帰国について、日記は極めて淡泊で、特段の感想はない。 日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いる様に太政官符を発したことを期して、9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている。 54歳であった。

円仁こと慈覚大師(じかくだいし)は、目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。 慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ。 このほか北海道にも存在する。 後に円仁派は山門派と称された。 性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

鴻臚館

『入唐求法巡礼行記』について・・・・・

『入唐求法巡礼行記』は日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である“会昌の廃仏”の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている。 《エドウィン・ライシャワーの研究》により欧米でも知られるようになる。 巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

=エドウィン・ライシャワー;アメリカ合衆国の東洋史研究者である。 ハーバード燕京研究所所長、1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)まで、駐日アメリカ大使を務めた。 大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。 明治の元勲の松方正義と、生糸貿易の先駆者・新井領一郎の孫である松方ハルと日本において再婚する=

多くの人々が、『入唐求法巡礼行記』を翻訳・研究したE.O.ライシャワーの書物から、マルコ・ポーロ[『東方見聞録』]の場合についていえば、旅行が終ってのち数年を経て 文盲の彼が彼の冒険を口移しに伝えたものであるから、非常に茫漠としたものがある。 だがしかし、円仁の変化に富む経験について 1日1日克明に記した日記は世界史における当時のユニークな文献であるといわなければならない。 それ以外に、最もよく知られたものの1つは、偉大な中国僧で旅行家である玄奘の[629-645年旅行を]書いた『大唐西域記』に関しても、それは円仁の日記に見られるような詳細さと生きた色彩、溢れる人間的記録に欠ける点があることは否めないであろうと指摘されている。

また、「マルコ・ポーロの東方見聞録」に後れること約50年、モロッコのイスラーム教徒の法官イフン・バットウータ(1304-1368/9)が著作した、『東方見聞録』をはるかに凌駕する、まさに空前絶後の、バットゥータの『大旅行記』のような虚位こもごもな表現で綴る紀行文は その旅行の範囲や期間、さらに内容からみて、最高の世界大旅行記としてまず挙げられる。 しかし、『入唐求法巡礼行記』は、当時の唐王朝末期の状況を学僧として思慮分別のうえに人間的な視線から記録した第一級の歴史証言であろう。

=イブン・バットゥータと『大旅行記』は、正式題名を『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』と言い、バットゥータ21歳の時に故郷を出て以来、足かけ30年間[正味25年間]にも及んだ旅の記録。 彼の旅した世界は、巡礼のために訪れた両聖地のメッカとメディナのみでなく、アラビア半島全域、東西アフリカ、バルカン半島、南ロシア、中央アジア、インド、東南アジア、中国などの、現在のほぼ50か国近い国々になっており、その全行程は117,000キロもの距離に達する大旅行記である=

大旅行記

 ・・・・・・終り

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