小説・耶律大石 第一章(08)

黄砂の源

 

耶律楚詞が戻った1124年の晩春 久しぶりに 耶律大石は皇太子・秦王殿下に伺候した。 太陽が頭上に在り、温かい日和であった。 大石が部屋に上がると 皇太子は暗い部屋の中で鎮座していた。 窓からの陽光が 皇太子を浮かび上がらせ、蒼白の顔を物憂げにした皇太子が日が差さぬ薄暗い空間に視線を漂わせている。

大石には 嫌な予感があった。 ここ、三日 毎日 同じ夢を見ていた。 天錫皇帝が現れ、その後 天錫の姿は天祚に変わり 天祚皇帝が 皇后と閨で戯れている。 再び 天祚が天錫に変わる。 そして 天錫皇帝が 蕭徳妃を 己が剣で皇后の胸を突く夢である。 久しぶりに皇太子を訪れようと思い立ち拝謁するのは この夢を否定する為かもしれなかった。

「秦王殿下 いかが なされた 」

「先日 父・みかど の勅命が降り、太子として燕京に去れ と・・・・」弱々しく、俯いたまま・・・・・

 

大石は理解した。 幼い皇太子は従事から 勅命が意味することを理解させられたのであろう。 また 摂政の蕭徳妃・皇太后が常日頃に教えている大石への信頼が唯一無二の取りうる行動であると理解し、昨夜は一人で孤独に耐え 待っていたのであろう。 下を向いたまま視線を上げない秦王の蒼白の顔に涙が零れ落ちたのを大石は見た。 そして、声を掛けることなく踵を返した。

大石は動揺することなく 直ちに 天祚皇帝に拝謁を願った。 が 許されなかった。 さらに 皇后の仮寓に 伺候に伺うことも許されなくなった。 その夜、大石は毎夜と 同じ夢を見た。 夢の中の皇后は いつも目を閉じていた。

皇太子・秦王殿下と一言の言葉を交わした日の三日後、 皇太子の位を剝奪され、元の秦王が太子として燕京に去らねばならぬ日の前日に 再三再四の連日の拝謁要望が許可されたと連絡があり、大石は直ちに皇帝の下に登った。 砦のような宮廷内接見の間には諸将は居ず、檀上の皇帝と左右の側近が待っていた。

大石は長身の胸を張り、一礼の後 直ちに口を開いた。 「皇帝閣下、 皇太子・秦王殿下の降格 燕京への太子として帰任 これは いかなる ことでありましょうか・・・・・・・・・ 」

皇帝は臆するように腰を引いた。 そして、虚勢を張るがごとく 大きく胸を張り、声高に 「大石、汝たちは天錫帝を擁立し、北遼を建て あまつさえ、「湘陰王」に余をと言わしめた。 この壇上に立つは太祖が遼王朝の七世 天祚。 秦王を帝都に向かわせるは 遼王朝再興の礎、 今宵 鹿鳴の宴に参列するが良い 」

「なれば、 蕭徳妃皇后陛下に秦王との同行が勅命を 発せられましたか・・・・・・・・・・ 」

「皇后は同行叶わぬ であろう、北遼の建国は 摂政の意志であった。 汝らは摂政皇后を助け、 幼き秦王を皇太子としての冠位を持たせた上で、 摂政を維持するため 朝議を誘導した。 辞退する耶律淳に 策を巡らし、無理やり 天錫帝として擁立した 」

虚勢を飾る生気なき声が 大石の耳に至り来るようであった。 声はなお 続く 「我が忠臣、宰相・李処温を誅殺した事、汝の北遼への忠節 遼王朝の永続の為ゆえであった事と 認め、汝は不問に致した が、・・・・・」

「さらに 申しておこう、 昨夜 皇后は 耶律淳の下に、余が送った。 余に服せず 余の怒りをかったのじゃ 」

大石の耳の中で 『耶律淳の下に、余が送った』の低く鈍い声は 幾重にも繰り返され 反響し ≪蕭徳妃が皇帝・天祚に殺害される事件が起きていた≫ 大石を動揺させた。 が 大石は表情も変えずに、「そのこと 皇太子 いや 秦王太子はご存知か 」

「いずれ 都にて耳にするであろう、太子には まつりごとを知るには幼すぎる 」

銀川のモスク

天祚帝の返答は予測できたのであろうが、大石は 未だ治まらぬ動揺を隠す為であろうか 超然と言う、「皇帝閣下の お時間を 頂き また 愚将へのお言葉 肝に銘じました。 今宵の鹿鳴の宴 参加せぬ事 お許しを賜りたい」

「太子に伝えおく、 一度 西夏に足を向けては どうか・・・・ 西夏王は喜ぶだろう、 そちの武勇は 天下に轟いているらしい。 西夏の姫君たちは西方の美形ぞろいと言うではないか・・・・・ 」

耶律大石は 重い足取りで草庵に向かった。 その耳の中では『耶律淳の下に、余が送った』が何時までも反響していた。 身に危険を感じるよう事は なかったが、・・・・・・ 内も外も安住できぬ、お互いの不審が渦巻いていると 大石は肌で感じていた。

 

=西夏(せいか、1038年 – 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。 首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。  西夏の起源は唐初の時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。 唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州に移住し平西公に封じられ、唐末に発生した〝黄巣の乱“ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。

宋初、宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。 李元昊は西夏独自の年号の使用を開始している。 その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、独自の文字である西夏文字を制定した。

1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。 1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。 李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなる=

長城(明代)

帝都燕京に向かう秦王・耶律定皇太子は何もできなかったであろう。 五原を離れる折  摂政皇后と大石に会えなかった悲しさが終始去来し、 ただ変わりゆく視界のみを受け入れるのみの弱々しい皇子であった。 活気を無くした彼の、その視界北方には陰山山脈が横たわり 終始付き纏い 牛舎の歩みを更に鈍く感じさせていた。

長城の北側の草原を東行に進む一団、遼帝国が皇太子の帰城を護衛するその一団には覇気は無かった。 晩春とは言え、草原の芽生えは遅く 夜半の寒さは時として凍てついた。 五原を離れて10日、二三日で万里の長城を越え終えうる。 長城より都・燕京は近い。 金の阿骨打が軍勢に追われるように脱出した都に安住の場所はあるのであろうか・・・・・・・

旅の途上で耳にした父の皇后殺害事件。 大石の沈黙。 幼い秦王とは言え 摂政皇后の死が意味することを 耶律大石が傍にいないことを 帝都燕京に人質として父の天祚皇帝から差し向けられている と 従僕達の話の端から知るようになっていた。 牛車を護衛する兵は来たときより多い。 しかし、耶律阿思が率いる50数名は緊張感も無く、さながら 屠殺場へ着飾った牛を引くようであった。

過日、遼の天祚帝が入來山で金の太祖によって大敗し、長春に逃れ 陰山の五原に飛散したのは1122年の初頭。 3月17日に天祚帝の従父の梁王・耶律淳が天錫帝として擁立されて「北遼」を建国し、北と南の敵に対処したのだが、しかし 同年10月に梁王は病没した。 天祚帝の太子で五男の秦王・耶律定が擁立された。 天錫帝の未亡人の蕭徳妃・蕭徳妃普賢女が摂政となり国政を見た。

しかし、1123年の初秋 燕京が金の攻撃を受けると、これを支えきれずに秦王と蕭徳妃は軍事統師・耶律大石らに支えられて 長春から西方の雲中は陰山の五原に移動した天祚帝のもとに身を寄せていた。 大石が燕京に不在の期間に、北遼は 再び 天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)を擁立していた。 だが、燕京城は11月に金軍に包囲され、英宗は内訌によって家臣たちに殺害されていた。 こうして、北遼は滅亡の坂を転げ落ちて行き、遼・北遼の支配は殆ど壊滅した。 この状況を知るのは耶律大石と彼の参謀のみだった。

因みに 阿骨打は、翌年の1125年に天祚帝を捕え 遼を完全に滅ぼすが、歳幣の支払い等を巡って北宋と対立し、1127年“靖康の変”で北宋を滅ぼし華北一帯を領有する・・・・・

=“靖康の変”は満州東部で半農半猟の生活を営んでいたツングース系の女真族(遼の支配下にあった)が、1115年、族長の阿骨打に率いられて独立し、金を建国した。 これを知った宋の徽宗は、従来遼に与えていた歳幣を金に送り、両国で南北から遼を挟撃することを提案した(海上の盟)。 金はこれに応じて大軍で遼を攻撃して大打撃を与えた。 しかし、宋軍の戦果は微々たるものだった。 宋軍が弱体であったためであるが、宋側は伝統的な「夷を以て夷を制する」という考えから、遼と金がともに弱体化することを期待して、遼攻撃が消極的になっていたのである。 しかし、金が宋の約束違反を責めたことから、宋は歳幣の額を大幅に上積みしてこの場をしのいだ。 金は1125年、今度は西夏と同盟して遼を滅ぼした。

金の系譜

その後、宋側は約束の歳幣額を支払わなかっただけでなく、金の内紛を助長してその弱体化を図ったため、金は軍を南下させて首都開封に迫った(金に降った耶律余睹は郝仲連ら数万の宋軍勢を壊滅させた)。 万事休した徽宗は「己を罪する詔」を発して退位し、帝位を長男の欽宗に譲った。欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなど屈辱的な内容の講和を結んだ。 しかし、これに反発する主戦派により講和が守られなかったため、金軍は総攻撃を命じた。 40日間余りの攻防戦の結果、1126年11月に開封が陥落した。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼ぶ=

 

遼の皇太子秦王が長城を越え、南下を始めるに前に護衛軍を率いる耶律阿思が偵察隊を先行させた。 その数30余騎、金軍の警備は無いが 偵察隊の情報に基づき行動すれば、居庸関に至る谷を避けて南下する間道を選び進めば 三四日で燕京の城郭まで近づける。 偵察隊の10騎は先駆けさせて、宮城に向かわせている。

南京(燕京)にいた北遼の大臣たちは 耶律大石軍事統師の帰還は望むべくも無く、失望の中で政務は手に着かなかった。 北遼は直面する金国が阿骨打の猛威と南宋に対抗しうる錦の御旗“天帝”を必要としていた。 しかし、遼の後継・北遼を取り囲む状況は 更なる厳しさを増していた。 一部の将兵は金に投降し、一部の大臣や官僚は宋に内通した。 阿骨打は天祚帝の捕獲命じ、遼の残余勢力を泳がせていた。

遼・北遼崩壊の約半年前に当たる1124年秋の上節旬の頃であろう、空には大きな満月がある夜半に、耶律楚詞が安禄明の屋敷に入って行く。 影が長く伸びる。 遼の皇太子・秦王一行が帝都・南京に辿り着くに頃合であった。 勝手知る安禄明の屋敷内、案内も請わずに楚詞は 月明かりで薄明な庭を横切り、書院の戸口で声を掛けた。

「その声は楚詞どのか、・・・・入られよ」との返答に、耶律楚詞は観音開きの扉に静かに手を掛け 開き 中に入った。 黒檀の大きな机が中央にあり、その机は 黒く、落ち着いた光沢、袖の彫刻が見事である。 読み止しの書籍に筆掛けが机上にあり、静寂な室内は墨の香りが漂っている。 机の奥に安禄明が座していた。

「大石殿の近辺は・・・・・・」安禄明が総髪の楚詞に問いかけている。 耶律楚詞は武人の装いである。 僧装は脱ぎ捨て、総髪である。

南宋・金・遼

===== 続く =====

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