『光の剣』_闘争の系譜 Ⅰ_05 

イースター蜂起

マイケル・コリンズ。 彼の名前は決して有名ではない。700年におよんだ英国のアイルランド支配を終わらせ、現在のアイルランド共和国の礎を築いた業績は特筆されるべきもの。アイルランド独立は英国領における独立運動の最初の成功例であり、大英帝国という植民地帝国の終わりの始まりと言える。この意味で、コリンズは大英帝国を倒した男と言えるのではないだろうか。 しかし、彼は“アイルランド独立の英雄か殺人者か”

マイケル・コリンズは、アイルランド共和国軍(IRA)として知られる組織の基礎を作った上に、都市における破壊工作、待ち伏せ、狙撃、暗殺などの仮借ない都市ゲリラ戦の大家としても知られてる。現在の一般的なテロリストの戦術は、概ねコリンズによって先鞭をつけられたものであり、この点では評判が悪い。もっとも、世の英雄と言われる人物の多くは大なり小なり殺人者であり、彼だけを批難するのは不公平と言えるでしょうが・・・・・・・・

残念ながらコリンズの伝記は日本では入手困難であり、アイルランドと大英帝国の近代史から、コリンズに関する記事を抜き出して構成せざるを得ないが、前節のアイルランド史俯瞰の流れからアイルランド独立運動の簡単に眺めてみよう。

イギリス併合時代(1801年 – 1922年)の1874年、保守党、自由党に次ぐ第三の政党としてアイルランドの自治獲得を目指すアイルランド国民党が英国議会に登場、1886年には最初のアイルランド自治法案が内閣から提出されているが不成立に終わっている。 1893年、再度提出された自治法案は下院で議決されたが、上院では再び否決された。 このアイルランド自治法案はこの後もたびたび提出されますが、ずっと下院で議決、上院で廃案というパターンを繰り返している。 この間のアイルランド独立運動は概ね低調、中にはIRBのような過激派の言動は、アイルランド人の多くが持つ 英国との連合王国を形成することがアイルランドの利益になると考え、英語を国語とすることにも全く抵抗を感じていなかったようだった。 アイルランド人の多くを占める小作人達のための土地改革も進展しており、国民党もイギリスとの協調を重視していたために摩擦も少なく、それなりに満足すべき状況だった。

しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、グレゴリー夫人、イェーツ、ダクラス・ハイドら詩人、文学者による文芸復興運動を通じて、アイルランド人の愛国精神が高揚して行く。 自治主義を標榜して英国との協力関係を重視する国民党は相変わらず多数派だったが、アイルランドの完全独立を目指す団体が力をつけ始め 政治的言動を活発に行うようになった。

M_Collins

アイルランド独立運動を展開する団体にはアイルランド共和同盟=IRB、1848年設立の秘密結社=、シン・フェーン党=1907年、アーサー・グリフィスによっていくつかの組織が統合されて設立=の二つ台頭する。 基本的にはIRBが武闘派で、シン・フェーン党は英国と妥協しても良いという穏健派だった。 このような政治的な状況変化の下、1912年 下院で議決されたアイルランド自治法案は、またも上院で否決されるも、同一会期中に再度下院で可決た。 このため、議会法の改正により1914年には、上院の議決無しでも立法化されることになった。

しかし、ここで問題発生。 アルスター(北アイルランド)は、いわゆる「アルスター殖民」政策のために、イギリス人が人口の半分を占めていた。 そのために自治法案への抵抗が強く、エドワード・カーソン卿という人物に率いられた統一党は、自治法案が成立すれば内戦も辞さない、という強硬論を主張。 英国に対して、少なくともアルスターだけは自治法案から除外せよ、との要求を突き付ける。 更に 統一党はアルスター義勇軍なる民兵組織を設立し、公然と反乱の準備を始めた。

それに対抗して1913年、IRBを中心にアイルランド義勇軍が結成され、アルスター義勇軍と睨み合いに発展、アイルランドは内戦の危機に直面した。 アイルランドの安全は駐留イギリス軍の手に係っていたが、そもそもの兵士が、当事者それぞれで構成されている以上、駐留イギリス軍は表立った行動が執れない。 =同じようなことは1960年代初頭のアルジェリアでも起きている=

この時点では、結果として内戦は起こらなかった。 1914年8月、第一次世界大戦が始まったからです。 対立はひとまず棚上げにされ、アイルランド人たちは続々とイギリス軍に志願、最終的に二十万人のアイルランド人が出征したのです。 ドイツ帝国がイギリス以上の敵とみなされたこと、貧乏なため兵隊になるしか職が無かったこと、なんだかんだいいつつも英国に親しみを感じる市民が多かったこと、国民党のような現実派が、イギリスに積極的に協力することによってせいぜい恩を売っておこうと考えたこと、などがその理由でしょう。

Irish Civil War,

当時の英国首相・アスキス自身は自治法施行に積極的で、戦争終結時には自治法施行を約束していたが、さりながら アイルランド義勇軍の中の過激派・IRBのメンバーは、イギリスには一切手を貸すべきではないと主張し、イギリスと協力してより多くの譲歩を引き出そうとする現実派と対立、そして何を思ったかドイツの援助を受け入れ、武装蜂起を画策した。

1916年、イースターの日曜日に計画されていた蜂起は、武器を輸送してきたドイツの輸送船が撃沈されたために中止の決定を余儀なくされる。 ところが、IRBの中でも特に過激な一派が大暴走、「蜂起は一日遅れになった」と勝手に声明を出し、蜂起を決行してしまった。

1916年4月24日、約1500名の男女はダブリンの中央郵便局を占拠。 アイルランド共和国独立と、共和国暫定政府の成立を宣言した。 しかし、第一次世界大戦のさなかの蜂起にはアイルランド人達でさえ冷淡であり、最大勢力の国民党も蜂起を批難する。 また、市街戦で多数のアイルランド人市民を巻き添えにしたこともあって支持は全く得られず、結局5日間で降伏 蜂起は失敗した。

コノリー、ピアーズら蜂起の中心人物15人は、即決の軍事裁判で銃殺刑に処され、当人達も容疑を認めて 事実関係が明白であり、多数のアイルランド人市民が巻き添えになったことで駐留英国軍司令官・マックスウェル将軍は怒り狂っていた。 当時26歳だったマイケル・コリンズも蜂起に参加しており 当然逮捕され、ウェールズの刑務所に送られてしまう。

Ulster

Ireland_in_UK

===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中