『光の剣』_闘争の系譜 Ⅰ_06

ダブリン

コリンズの生誕からイースター蜂起まで生い立ち
マイケル・コリンズは1890年にアイルランド、コークのクロナキルティに近いサムズクロスで生まれた。コリンズの墓碑銘には「10月12日生まれ」と刻まれているが、伝記著者たちは10月16日生まれということで意見が一致している。 コリンズの一族はもともとウィ・コナイル (Uí Chonaill) 卿というリムリックの近くで暮らす郷紳の家であったが、他のアイルランドの郷紳の多くがそうであったように、土地の多くを奪われて没落し、小作農として暮らしていた。 だが、145エーカー程度ではあっても農園を持っていたため、19世紀後半の一般的なアイルランド人に比べればやや裕福な暮らし向きであった。

マイケル・コリンズは8人兄弟の末っ子、三男として生まれた。 マイケル誕生時、父親はなんと75歳。 当時のアイルランドの農村では、主として経済的な理由から、結婚できるのは長男だけという慣習があり、コリンズの父親は長男ではなかったのか、結婚当時は60歳という超晩婚。 一方、奥さんは20~23歳の若い美女=多くの若い女性はアメリカに出稼ぎに出て、そこで結婚した。アイルランド人同士の結婚となれば、こういう祖父と孫ほどの年齢差も珍しくはなかった=だった。 同名の父マイケル・コリンズはインテリで、青年時代にアイルランド共和同盟(IRB、フェニアン)運動に所属し、アイルランドの共和主義運動に携わっていたが、やがてその活動を離れて農業に専念するようになっていた。 そのため、父親は読書家であり、独学でギリシア語とラテン語をマスターしたり、アイルランドの古典を研究したりと、いろいろやっている。

この父親は、コリンズが6歳の時になくなりましたが、その影響は大きく、コリンズも大変な読書家でした。 シェイクスピアから思想書までと幅広く、中学生の時には、シン・フェーンの機関紙を読んで、早くもアイルランドの民族運動にも傾倒している。 やがて周囲の人々の影響を受けてアイルランドの自由獲得を熱望するようになった。

はじめは近所の鍛冶屋ジェームズ・サントリーに影響を受け、やがて近隣の学校の校長であったデニス・リヨンズに感化されていった。 リヨンズはアイルランド共和同盟 (IRB) のメンバーであったが、奇遇にものちにコリンズはこの団体のリーダーをつとめることになる。 コリンズは背が高いうえに恰幅がよく、どんなスポーツでもよくこなした。 しかしいくらスポーツに熱中していても政治への思いは少しも弱まることはなかった。

H_Pearse

1906年コリンズはイギリス帝国の公務員試験を受験している。 卒業後、15歳のコリンズは、当時のアイルランド人青年たちと同じように仕事を求めて英国へ向かった。 1906年7月からロンドンの郵便局で勤務し、職場は貯蓄部門、ロンドンでは、アイルランドの志士達の例に漏れず、ゲール語連盟に加盟してゲール語を勉強していた。

1910年からはアメリカ系の投資会社に転職している。 転職の前 1909年11月に、コーク出身のプロテスタントの共和主義者サム・マグワイアの紹介でアイルランド共和同盟へ加入した。 組織の中でコリンズは徐々に頭角を現し、10年たたずして若きリーダーと目されるようになった。金融関係に仕事を移したことは、後に役立つことになる財務の知識に精通するようになっていった。

25歳までロンドンに滞在した後、1916年に帰国してアイルランド義勇軍に参加。 どうやらこれは、イースター蜂起に備えて呼び戻されたからのようです。 ここでコリンズは、IRBの幹部の一人、エイモン・デ・ヴァレラ=1882-1975 エール初代首相、後にアイルランド共和国大統領、次章にて詳細記載=と出会います。

デ・ヴァレラはイースター蜂起に中心的な役割を果たした16人の一人で、後にアイルランド共和国臨時政府首班として独立運動を指導してゆくことになる人物です。 コリンズはデ・ヴァレラを非常に尊敬し、個人的にも親しく交際していて、デ・ヴァレラの家族もコリンズの事を歓迎していました。 この頃のコリンズは、デ・ヴァレラと戦う時が来ようとは予想していなかったでしょう。

イースター蜂起

マイケル・コリンズの名を初めて世に知らしめたのは1916年に起こったイースター蜂起であった。 アイルランド共和同盟 (IRB) の中で、組織運営における緻密な手腕と、周到な戦略立案の才が評価されていたコリンズは26歳の若さであったが、蜂起の首謀者の一人ジョセフ・メリー・プランケットの父カウント・プランケットの財政顧問をつとめるほどになっていた。  ダブリンで起きたこのイースター蜂起において、コリンズはダブリン中央郵便局の周辺で急進派の中心人物パトリック・ピアースらと共に戦った。 しかしこの蜂起もイギリスの正規軍が出動するとなすすべもなく壊滅した。

準備不足や計画の露呈が明らかであったこの蜂起については組織内でも反対者が多かったが、ピアースらはとにかく立ち上がることに意味があると考え、成功の見込みもないまま行動を起こした。ピアースは「誰かが血を流すことで皆が立ち上がる」と考えていた。 共に戦うことになったコリンズだが、蜂起の前から「とにかく蜂起してしまえば人々がついてくる」という安易な考え方や戦略思考不在の行き当たりばったりの方法には異議を唱えていた。 特に中央郵便局を制圧するという作戦に関しては、ただ目立つ建物だというだけで、守るに難しく、補給困難で、包囲されてしまうと逃げ出すこともできないような場所を占拠しても何にもならないと考えていた。

後にアイルランド独立運動の戦いの中、コリンズはこのイースター蜂起の失敗のように「座り込んで狙い撃ちされる」ことを避けるよう仲間たちに薦め、英国軍に対しては常にゲリラ戦術を駆使して闘うこと、迅速に占拠してすぐさま撤退することで、最小の損害で相手に対して最大の心理的打撃を与えることを狙った。

結局、寄せ集めの素人によって補給も不十分なままで行われたイースター蜂起は失敗に終わり、コリンズらは逮捕された。 逮捕者たちはウェールズにあったフロンホフの収容所に送られた。 しかし この収容所においてもコリンズの指導者としてのカリスマは衰えることがなく、むしろ増していった。 釈放後にはシン・フェイン党に加わり、同組織における地歩をも固めていった。 尚、イースター蜂起の指導者のうち15人は銃殺刑に処されたが、ただ一人、エイモン・デ・ヴァレラはアメリカ国籍を持っていたために処刑を免れている。

コリンズがウェールズの刑務所に収監されている頃、アイルランドの世論には重大な変化が起こっていた。 即決の軍事裁判で蜂起の指導者らが処刑されるに及び、蜂起には冷たかったアイルランド人達の間に同情論が高まり、世論は逆転していた。 イギリスのやり方を批難するようになり、英国政府とアイルランドのメディアはイースター蜂起の黒幕がシン・フェイン党であると喧伝しており ≪これは誤りであったが≫ イースター蜂起の生き残りの指導者たちはこれを逆に利用して、シン・フェイン党への支持を固めていった。 1917年10月、釈放されたコリンズはシン・フェイン党の幹部にしてアイルランド義勇軍の指導者になっていた。 コリンズと共に両組織を束ねていたのは盟友エイモン・デ・ヴァレラであった。

Kilmainham

===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中