『光の剣』_闘争の系譜 Ⅰ_07

光の剣

 コリンズの政界デビューとアイルランド共和国議会

逮捕されたコリンズだが、まだ若くて無名だったために短期間の禁固刑ですみ、1916年の末には釈放されて帰国することがでた。 蜂起失敗の大打撃で再編成中のシン・フェーン党に加入したコリンズは、同時にIRBの最高評議会議員となって、IRBの再編を手がける。 もっとも、この後 IRBはかなり影が薄くなり、シン・フェーンが独立運動の表舞台に立つことになる=IRBが元は秘密結社であり、陰湿なところが多々あった=。 他のシン・フェイン党の古参幹部と同じように、マイケル・コリンズは1918年に行われた大英帝国議会庶民院におけるアイルランド代表議員の選挙に南コーク州の代表として立候補し、圧倒的な支持を受けて当選した。しかしシン・フェイン党出身の議員たちがライバルであったアイルランド議員党の議員たちと異なっていたのはロンドンの議会に出席することを拒否し、ダブリンに「ドイル・エアラン/アイルランド共和国議会」なる新議会の創設を宣言したことであった。 更に、グリフィス、デ・ヴァレラなどの大物が コリンズの姿勢にそっぽを向いき、デ・ヴァレラがIRBを抜けて意思疎通が円滑でなくなる。 ドイル・エアランの初会合や活動の始動に危機を感じた英国政府は、デ・ヴァレラをはじめとするシン・フェイン党の指導者たちの一斉検挙に踏み切った。コリンズはいつものように自前の情報網を駆使してこの動きを事前に察知しており、他の指導者たちに再三警告していた。 デ・ヴァレラも また いつものようにコリンズの情報を信じず、もしイギリス政府がそのようなことをしたら、かえってシン・フェイン党の名前をとどろかせ、アイルランド人の士気を高めることになると考えた。 しかし、指導陣が根こそぎ逮捕されてしまったことで、シン・フェイン党の名前をとどろかす動きなどできない状況に陥る。  デ・ヴァレラが収監されている間、カハル・ブルハが代わりに議長を務め、コリンズに最初の任務が命じられた。 1918年5月に逮捕されていたエイモン・デ・ヴァレラの救出任務だった。 コリンズとハリー・ボーランドはイギリス本土に乗り込み、リンカーン刑務所を襲ってデ・ヴァレラを脱走させる。 皮肉なことに、3月には一斉逮捕された人々に恩赦が下って釈放されたので、無理に脱獄する必要は無かったのだが・・・・

戦いの跡

  1919年1月、アイルランド共和国議会(ドイル・エアラン)の最初の会合の日が、アイルランド独立戦争の始まった日とされている。 この日 IRA の義勇兵がティペラリー州のソロヘドベグでダイナマイトを強奪しようと2名の警備兵を射殺している。 そして この年は、コリンズが大車輪の活躍をした年であった。 彼はなかなか宣伝上手で、獄中のハンストで死亡した義勇軍幹部、友人トマス・アッシュの葬儀の際、コリンズは軍服を着て列の先頭を歩き こった演出で映画撮影。 葬儀に参加した数万人の群衆に短い演説の後、空砲を三発撃った。 このパフォーマンスは群集に強い感銘を与え、コリンズの名はアイルランド人の間に知られるようになる。 夏にはアイルランド共和同盟の団長に選ばれ、9月にはアイルランド共和国軍(IRA、アイルランド義勇軍から改名)情報部の部長と次々要職についた。

コリンズはビジネスマンとしての経験を活かし、シン・フェーンの金庫番として活動する。 彼は金銭面に厳格なことに加えて優秀な管理能力も持ち合わせており、こうした役割にはまさにうってつけだった。 「スーツと自転車」が当時の彼のトレードマークで、この格好でダブリン市内を行き来しながら、資金や武器の調達(密輸)に奮闘し、公債を発行=信用度からすればこれは空手形も同然のこの公債=を巧みな宣伝で、アイルランド人の愛国心に訴えて・・・・・・

1919年、すでに複数の要職を兼ねていたコリンズだったが、デ・ヴァレラからさらに財務担当大臣の職を引き受けるよう懇請され、独立闘争が激化していた当時、アイルランドの「大臣」であれば、英国軍、アイルランド王立警備隊、ブラック・アンド・タンズなどといった敵対勢力から狙われ、拘束や殺害の危険もあった。 そのため「大臣」といっても、地下に潜伏して活動するか、名前だけの人間を立てて真の実力者が別にいるのがならいであった。 しかし、コリンズは違った。堂々と活躍し、アイルランド独立闘争の資金として「国債」の調達を企画・実行した。 実際的な手法により短期間で多くの資金を調達したコリンズの財政手腕は評判となり、ウラジーミル・レーニンもダブリンへ使者を派遣し、ソビエト共和国の運営に必要な金を借りたほどであった。 このとき、担保としてロシア皇帝の宝冠についていた宝石が渡された。 この宝石はダブリン市内の金庫に納められたまま忘れられていたが、1930年代に入って偶然発見されている。

この当時のコリンズの活躍と実績は超人的なものであった。 「十二使徒」と呼ばれるイギリス政府の要人暗殺を狙う特殊部隊を創設し、「国債」を発行して海外から資金を調達し、IRAを指導しながら、デ・ヴァレラの不在時のアイルランド政府の責任者となった。 当然、コリンズは英国政府から最重要危険人物としてみられ、殺害あるいは逮捕につながる情報を提供したものには1,000万ポンドが与えられるという懸賞金をかけられていた。 尚、コリンズはキティ・キアナンという女性に出会って一目ぼれしている。 ところが、イースター蜂起以来の親友で、独立戦争を共に戦うことになるハリー・ボーランドもキアナンに一目ぼれ、まさに絵に描いたような三角関係になってしまいました。 コリンズとボーランド、キティ・キアナンはどちらを選んだのでしょうか?・・・・・・・

Cathal Brugha,

  この頃からコリンズはアイルランド独立の指導者たちの中の二人と対立するようになっていく。そのうちの一人はカハル・ブルハであった。 彼は名目上は軍事部門の指導者ということになっていたが、戦略的才能に乏しく、戦略の才があるコリンズの前でまったく存在感がなくなっている自分に苛立っていた。 もう一人は長年の盟友でドイル・エアランの議長エイモン・デ・ヴァレラであった。 デ・ヴァレラはコリンズが自分の地位を脅かしていると考え、同時にコリンズの反対を押し切って進めていたアメリカ政府に対するアイルランド独立支援の呼びかけがまったく進展しないことにあせりを感じていた。 そのころ、長身のデ・ヴァレラは「ロング・フェロー」と呼ばれるようになったが、恰幅のいいコリンズは「ビッグ・フェロー」と呼ばれていた。 デ・ヴァレラはアメリカから帰国すると代わってコリンズを派遣しようとしたが、単にコリンズがこれ以上アイルランドで活躍しないようにする口実であることが明らかであったため、コリンズ本人だけでなく他の指導者たちも反対してこの話は流れた。

コリンズはリチャード・マルコイと共にIRAの組織構築に貢献した。 装備に劣るIRAはイギリス陸軍とRICにゲリラ戦を仕掛けることでイギリス政府を消耗させた。 ゲリラ戦において大きな役割を果たした遊撃隊はコリンズとディック・マッキーにより設立されたものである。 IRAの情報局長も務めていたコリンズは、ダブリンにおけるイギリスのスパイ網であるカイロ・ギャングを破壊するために、イギリス陸軍の情報担当将校とその手先である情報提供者を暗殺する指令を出した。 作戦は1920年11月21日に決行され、この日の朝にIRAの暗殺チームによって13人のスパイが殺害された。 この報復として同じ日の午後に治安部隊がクローク・パークで観衆に発砲し14人の死者が出た。 この“血の日曜日事件”はディック・マッキーらIRA捕虜3人の拷問と殺害により幕を閉じた。

イギリスとアイルランド共和国軍の停戦交渉のあと、英国政府は国際的に承認されていない「アイルランド共和国政府」のメンバーたちとの交渉の席についた。 当時の各国政府でアイルランド共和国を承認していたのは、資金援助を得たかったソビエト連邦だけであった。デ・ヴァレラはアイルランド系市民の多いアメリカ合衆国で長年交渉をおこなって承認を得ようとしていたが果たせず、同じように第一次世界大戦後のパリ講和会議にアイルランド代表としてショーン・オケリーが出席したが、国際的な承認を得ることができなかった。

1921年8月にドイル・エアラン議長からアイルランド共和国初代大統領へと自らを昇格させていたデ・ヴァレラは、交渉において自分はイギリスのジョージ5世国王と同じ立場であり、国王が参加しない限り、自分も会議に出ないと宣言して周囲を仰天させた。やむなくロンドンでの交渉の席につくことになったのはアーサー・グリフィスとコリンズであったが、コリンズはデ・ヴァレラが交渉に参加しないことが後に大きな問題となるであろうことを予期していた。ちなみに、このときの英国側代表団にはデビッド・ロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルなども含まれ、そうそうたる顔ぶれであった。

A_Griffith

 血の日曜日事件

  • 1920年11月21日の早朝にIRAのチームは作戦を決行した。オコンネル・ストリートのグレシャム・ホテルでの発砲を除いて、大半の襲撃はダブリン市内南部の狭い中流階級地区に集中していた。ペムブローク・ストリート28番地においては4人のスパイが殺された。下マウント・ストリート22番地ではイギリス軍将校1人が殺され、1人がかろうじて難を逃れた。発砲により警報が出され建物はオーグジリアリーにより包囲された後に銃撃戦となり、2人のオーグジリアリー隊員が殺されIRAのフランク・ティーリングが負傷し捕虜となった。後にアイルランドの首相となったショーン・レーマスは、同じくマウント・ストリートにおけるバジャリー大佐の殺害に関与している。この他にも同じ通りで3人のスパイが殺された[7]。数街路離れたバゴット・ストリート、フィッツウィリアム・スクエア、モアハンプトン・ロード、アールズフォート・テラスでも襲撃が行われた。
  • 合計で13人が殺害され、6人が負傷した。この中にはスパイであると疑われていた者、政治的なかかわりを一切持っていなかった者、2人のオーグジリアリー・ディヴィジョンのメンバーが含まれている。イギリス軍に属する4人の犠牲者は情報担当将校、その他の4人はMI6またはMI5の諜報員であった。 唯一の捕虜であるティーリングはすぐに脱獄することに成功した。
  • IRAの1人のメンバーが頭に軽い怪我を負った。 35人のターゲット中3分の1だけが殺された。IRAのメンバーの一人であり、後に政治家となったトッド・アンドルーズは「IRAの襲撃の大半は、失敗だったというのが本当のところだ。何件かのケースでは捜してた男たちは隠れ家におらず、探した連中がヘマをやらかしたのだ」と述べている。しかし、この事件はアイルランドにおけるイギリスの諜報活動を頓挫させ、多くのスパイと情報提供者が庇護を求めてダブリン城に押し寄せイギリス政府当局を狼狽させることになった。
  • コリンズはこの暗殺を次のように擁護している《私が意図していたのは、品行方正な一般市民の生活を悲惨なものにしていた望まれぬ者たちを破壊することだった。私は、これらのスパイ共と情報提供者たちが犯した残虐行為が事実であると、私自身を納得させるのに十分な証拠を持っている。付随する目的があるとするならば、危険な爬虫類に対する私の感情だろう。彼らの破壊により雰囲気は甘やかしいものになった。私自身について言えば、私の良心は潔白である。戦時においてスパイと情報提供者を探すのは犯罪ではない。彼らは裁判なく破壊行為を行ったのだ。私は彼らに彼ら自身のコインで払い戻しをしただけだ》

Cairo_Gang

===== 続く =====

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